エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

訓練して身に付ける優しさって? 再改善版

2015-01-01 14:18:05 | エリクソンの発達臨床心理

 

 今日のブログで「『いたわり』、『人の痛みを感じること』、『優しさ』を訓練を通して身に付けることが大事だ」と司馬遼太郎さんが言っていたことを記しました。それをここで考えてみたいと思います。

 人間は、この3つを生まれながら、持っているようで、持ってないんですね。司馬遼太郎さんはこの3つは「本能ではない」と言うんです。なぜなら、この3つは基本的にアクションだから。「人の痛みを感じ」て何もしないのは、この場合、「人の痛みを感じること」にはならないからです。ですから、単に「人の痛みを感じる」だけなら、何の訓練もせずとも、生まれながらに持ちあわせている資質です。いや、多くの人は、その意味での「人の痛みを感じる」資質を、実際持ち合わせています。

 「いたわり」、「人の痛みを感じること」、「優しさ」は、司馬遼太郎さんは「人としての心構え」だと言います。そして、その「心構え」を身に付けるには、訓練が必要です。

 「いたわり」、「人の痛みを感じること」、「優しさ」はどうすれば、身に付くかを考えます。それは、自分を見つめること、内省ですね。自分が苦労したこと、苦しんだこと、嫌だなと感じていたこと、から目をそらさないで、その中にある「大事なこと」を汲み取ること、でしょう。でもね、なるべく、苦労や苦しみや嫌な目に合わないように、人ってするでしょう。そのために、日本人は多数派や権力に自分も与すること、少なくとも、多数派や権力に異を唱えないこと、を処世術にしているわけですね。それがコンフォーミズム、同調主義でしたね。同調主義では、少数派や立場の弱い人を、「いたわる」ことも、「人の痛みを感じること」も、「優しく」することだって、出来ませんでしょ。

 同調圧力に負けないだけの「私」を確立することなんですね。「いたわり」、「人の痛みを感じること」、「優しさ」は、「私」、個人を確立することを通して、身に付くことなんですね。「私」、個人を確立するためには、訓練が必要でしょ。そして、その訓練のためには、その相手になってくれる大人、すなわち、遊び仲間、カウンター・プレイヤーが必要ですね。

 私ども大人は、「いたわり」、「人の痛みを感じること」、「優しさ」を子どもが身に付けるために、子どもに対して、「いたわり」、「人の痛みを感じること」、「優しさ」をもって接することが必要なんですね。言葉を変えて申し上げれば、「いたわり」、「人の痛みを感じること」、「優しさ」をもって接することは、子どもに対して、「いたわり」、「人の痛みを感じること」、「優しさ」でその子どもに接するような、自分の時間をプレゼントすることなんですよね。

 

 

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人を大事にすることは、本気で相手になること、すると人は生き生き生きる

2015-01-01 10:11:30 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 葛藤によって、人は豊かな知識としなやかな強さを身に着けることができますね。

 p95の第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 人を大事にすることができるのは、2人の人が本気でお互いに気持ちを通じ合わせた時です。ですから、それは、その1人が本音で自分を経験する場合でもありますよね。この≪本気≫の時にだけ、人は「生かされてる」って実感できますし、いきいきできて、人を大事にできる根っこもできんですね。人を大事にするということは、このように体験してくれば、絶え間のない勇気だ、ということですね。人を大事にすることは、休暇村ではなくて、共に感動し、成長し、働きかけることなんですね。調和してようが、葛藤があろうが、悦びがあろうが、悲しかろうが、そんなことは、2人が本気でお互いを経験しているという事実、2人が、自分から逃げ出すのじゃぁなくて、お互いに一心同体であるという事実に比べれば、二の次です。人を大事にすることを証明するものが1つだけあります。それは関係の深さですし、関わる人間がイキイキしていることとしなやかであることです。これこそが、人を大事にすることが価値あるものと認められる果実ですよね。

 

 

 

 

 ここも素晴らしいですね。人を大事にすることは、本気で相手をすること。そうしていると、2人はぐっと関係が深まります。2人はともに生き生き生きられます。釜石小学校の校歌のようですね。そこには、しなやかな強さ、1人で立つ強さも出てきますね。これも釜石小学校の校歌と同じ。

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臨床には、生き方がハッキリ出ます

2015-01-01 06:33:19 | アイデンティティの根源

 

 精神分析は、科学的真理は扱っても、人格的真理は取り扱わないのでしようか?

 p237第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 しかしながら、臨床技術や臨床科学は、科学的な方法を用いるけれども、科学的方法によって定義されるものでも、科学的方法によって限定されるものでもありません。治療者は、最高善、命の保全、福祉の増進、つまり、「人生の維持」に関わります。治療者は、その最高善が実際にあることを、科学的な証明する必要などありません。むしろ、治療者は、科学的な方法で証明できることを調べながら、この基本的な前提に関わっています。これは、ヒポクラテスの誓いの意味だと私は思いますが、ヒポクラテスの誓いは、人間らしい倫理に、あらゆる医療技術を従属させます。人って、自分の人格と、自分の仕事と、自分の科学的な倫理をバラバラにすることだってできるって、本当です。人は、自分の暮らしでは、自分個人のニーズを満たそうとしますし、仕事では、他者の福祉を満たそうとしますし、研究する場合は、個人的な好みやら、自分が得することやらとは別に、真理を探究します。しかしながら、人がよって立って生きる価値の多様性に対して、精神分析では制限があります。それと同時に、最後的に、開業医だけじゃぁなくて、その開業医の患者や開業医の研究は、その人の気質、知性、倫理がある程度一つになっているんですね。この3つが一つになることこそが、本当に偉い医者の特色です。

 

 

 

 

 

 公私混同の話ではありません。

 高倉健さんが、追悼番組の中で、繰り返し言っていたこと。それは、「演じることには、生き方が出る」「演じることは、テクニックではない」ということを繰り返し言ってたでしょ。あれです。俳優は、他人を演じるはずなのに、本当に人の骨にまで響く演技をするためには、自分の生き方がにじみ出てくるような演技ではないとダメだ、という訳ですね。

 エリクソンは、本当に偉い医者は、気質、知性、倫理が一つになっていることだと言いますね。「何のことだろう」と、ちょっと考え込んじゃいますよね。これはね、日ごろからの生き方が、ウソとゴマカシのない生き方でなくちゃぁ、まともな臨床はできない、ということですね。これは本当にそうなんですね。臨床には生き方がはっきり出ます。

 これは司馬遼太郎さんが残している言葉とも関連しますよね。「いたわり」、「人の痛みを感じること」、「優しさ」を訓練を通して身に着けることが大事だと言ってますね。あれです。これが身に付いた生き方をしてると、それが臨床にモロに出てくんですね。ウソやゴマカシなどあろうはずがない。それは、真に忠実な生き方ですね。子どもはすぐに気が付きます。

 野村實先生然り、関根正雄先生然り。

 

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