エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「腑に落ちない」をゴマ化さない 吉本隆明さん

2015-01-12 16:49:54 | エリクソンの発達臨床心理

 

 吉本隆明さんのことを、NHKが「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第5回」で取り上げています。

http://www.nhk.or.jp/postwar/

 私は『ひきこもれ』くらいしか読んでこなかったので、とても新鮮で、いくつかの視点が大事だと感じました。このブログでいくつかの点を取り上げたいと考えました。

 その一つは「善悪について」。「だいたい人間と言うのは、良いことをしている、と自分が思っている時には、だいたい悪いことをしている、と思うとちょうど良い、という風になっているんじゃないでしょうか。悪いことをしているんじゃないか、と思っている時は、だいたい良いことをしていると思った方が良いと思います。人間の善悪というもの、あるいは、倫理と言うものは、本当に警戒しなければならない。また、それは思想と言うものの一番大きな眼目だ」と吉本隆明さんは講演の中で述べています。これは卓見ですね。「良いことをしている、と思っている時」は、「正義」を旗印に最も残虐なことが行われたのが歴史ですし、日常では、親や教員などの大人が、子どもに対して「善意の暴力」を働いている場合が非常に多いことを、吉本さんは見事に指摘しまいますね。吉本さんは「アマノジャク」と言われることがよくあるそうですが、非常にバランスが良い。

 これは、戦争中の体験を反省したことに根差していると言います。吉本隆明さんもが高校生から大学生の頃、軍国主義に染まっていたようですね。それでも、「腑に落ちない気分」があったと言います。それを飲み込んで軍国主義につきすすんでいたようですね。戦後になって、戦争中の自分を反省して、戦後に活かしたのは、この「腑に落ちない」を誤魔化さないで、それを大事にしよう、ということ。この「腑に落ちない」ということ、あるいは、「腑に落ちる」と言う体感的な感覚は、心理臨床において、最も大事な感覚です。それは言語化される前の感覚なんだけれども、自分のオリエンテーションを決める際の道しるべとすべき感覚ですね。それを吉本さんは、自分の思想形成の原点にしていたのですから、見事ですね。

 もう1つは、上野千鶴子さんが言ってたことですが、吉本さんは、大学教員になることになく、「在野に徹した」点がお見事ですね。それは、自分を権力の側にも、指導者の側にも置くことを拒否して、自分自信も、「大衆の1人」、「国民の1人」でいることを選択したものですよね。平凡な生活をしている人を大事にする発想ですね。それを単に考えるだけではなく、自分自身の生活もそうするということです。これは「言ってること」と「やってること」の一致にも繋がる、極めて大事な生活態度、生活倫理です。

 

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大事にしたい相手をみつけるのって、難しい

2015-01-12 14:11:05 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 人気があって、色気があれば、それはちやほやされ易い。でもそれって一時の事じゃぁないですか?残るものって何かしらね?

 p2の第二パラグラフ。

 

 

 

 

 

 人を大事にすることについて学ぶもモノなどないと言う態度の背後にある、第2の前提は、人を大事にするという課題は、「相手」の課題であって、「自分の能力」の問題ではない、という仮定がありますね。「人を大事にすること」なんか簡単だと思いがちだけれども、大事にしたい相手を見つけたり、大事にしてくれる相手を見つけるのは難しいでしょ。人を大事にすることについて学ぶべきものなどない、という態度には、いくつも理由がありますけれども、その理由は現代社会が発展していることに根差すものですね。その理由の一つは、二十世紀には、「大事にしたいもの」の選択において大きな変化があった、ということです。ヴィクトリア時代は、伝統文化を大事にする社会と同様に、人を大事にすることは、結果として結婚に繋がるような自発的な個人の経験ではないのが普通でした。逆に、結婚は、慣習による契約だったり、個々の家族がする契約だったり、結婚業者があっせんする契約でした。あるいは、そう言った仲介の助けなしでの契約でした。

 

 

 

 

 近世まで、結婚は自由恋愛を前提とするものではなくて、慣習などによる契約だったわけです。ですらか、自発的に自分で好きな人を選ぶわけじゃあなかった。現代になると、自由恋愛は可能だけれども、大事にしたい人はこの人、と決めかねてんですかね。

 自分で選んでいるようで、たくさんの情報に翻弄されて、主体的に選べないことが多いんでしょう。

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人類滅亡を覚悟できない場合は、核を使うな!

2015-01-12 06:47:44 | アイデンティティの根源

 

 倫理がバラバラですと、自分を確かにするのは夢のまた夢。

 p241ブランクの下11行目途中から。

 

 

 

 

 

戦闘員、完全武装して、他の人が自分にしようとしていると予期していることを、その当人にしようとしている人は、黄金律と自分が戦う理屈の間に、倫理的な矛盾が全くないことが分かります。その戦闘員は、実際、敵に対して敬意を払うこともできますね。その戦闘員は、敵にも自分に対して敬意を払ってもらいたいと願っています。倫理と戦いがこのように辛くも同居していることは、私どもの時代にずっと残るかもしれませんね。戦う心理さえ、戦う心理が歴史的に果たす役割を恐れるようになっても仕方がありませんね。それはちょうど、果てしない虐殺が、計画した戦争になったのと同じです。「核時代」の「黄金律」で、「戦っている者」にとってさえ、何が残るものがあるのでしょうか? 何か残っているとすれば、それは「他の人たちを殺すなかれ、自分たちが敵を徹底的に殺し尽くすし、敵も自分たちをちょうど同じくらい徹底的に殺し尽しても構わないと確信できない限りは、」といったところでしょうか?

 

 

 

 

 「黄金律」は「仕返し」と似ています。「自分を大事にするように、身近な人を大事にしなさい」という、キリスト教の最大の「黄金律」は、「眼には眼を」というハンムラビ経典という、同害復讐法、「仕返し」と似てますもんね。

 核時代の黄金律はもうない。核は使ってはならないものなのですね。人倫を超えた武器だということでしょう。エリクソンは主張は、「人類が滅亡しても構わないと確信を持てない限り、核兵器を使うな」ということでしょう。それが最後の引用句の意味するところでしょうね。

 この部分を、かの鑪幹八郎さんの翻訳(誠信書房)で、初めて確かめてみましたけれども、もう滅茶苦茶。ホンマに翻訳本って当てにならないものが多いです。鑪幹八郎さん、大学の学長までやっても、滅茶苦茶な翻訳しかできてない、ということは、エリクソンをちゃんと理解できてない証拠です。

 

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