エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

世界最高の特効薬 : 子どもの共感性、どうやったら伸びるのかしら?

2015-01-20 13:19:54 | エリクソンの発達臨床心理

 

 「人の気持ちが分かることになってほしい」。親御さんや先生の立場の大人なら、一度は思ったことがあることじゃぁないかしらね。じゃぁ、どうすればいいのか?それをハッキリ教えてくれる人は、居るようでいない…。

 動物を飼ったら良い、という人もいます。確かに、動物を飼って、世話を焼くことを学んだら、それは物言わぬ動物の気持ちを、いろいろトライアンドエラーしていくと、動物の気持ちが分かるようになるかもしれませんものね。そうしたら、「人の気持ちも…。」ということが、あるいはあるかもしれません。でも、「人の気持ち」といった時の「人」が、お母さん自身や教員自身だったら…。忙しい自分の身にもなってほしい、会社と家庭を両立している自分の立場も分かってほしい…。それは「○○してくれない」と言うくれない族の気持ちと一直線で繋がってます。

 この場合、「自分の気持ちを分かってほしい…」と言う大人の本音を、歪曲的に表現しているのが、冒頭の言葉と言うことになりますもんね。そう言う場合が、実を言うと驚くほど多いんですね。この場合、この子はほとんど「人の気持ちが分からないまま」でしょうね。大人が子どもに受容に求めてんですからね。

 1番効くのは、大人が自分の忙しい時間を割いて、自分のことは後回しにして、その子の相手をすることなんですね。そう言う関わりを毎日毎日していると、黙ってても、その子は人の気持ちがよく分かる子どもになっていきますね。大人が自分の時間をプレゼントすること。それが一番の特効薬です。間違いありませんよ。

 

 

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人を大事にする時にも大事な、直観力 改訂版

2015-01-20 11:43:34 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 人を大事にすることも一つの技術。ですから、人を大事にすることは抽象論ではなくて、非常に具体的。実践的。

 p5の第3段落以降。

 

 

 

 

 

 どんな技術を習得するときに、必要な段階とは何でしょうか?

 1つの技術を学ぶ過程は、2つの部分に分けるのが便利。1つは、理論武装。もう1つは、実践力。医療技術を学びたいと思えば、私が真っ先に学ばなくてはならないのは、人体に関することですし、いろんな病気のことです。私がこのような理論的な知識を知ることは、医療技術の点で競い合おうと言ってるんじゃない。私がこの技術を身に着けることができるのは、たくさん訓練して、自分の理論的な知識の結果と自分が実践した結果が溶けあって一つになった後です。一つになるのは、直観力、それは1つの技術を身に着ける際の要諦です。

 

 

 

 

 

 技術を身に着けるのに必要なのは、知識と実地訓練。それを繰り返すうちに、知識と訓練が一纏まりにまとまってくるんですね。それは直感力、鼻が利くようになることなんですね。そうなると、実地で必要なことがピィピィッと分かっちゃう。それを何度経験しても不思議なもんですね。

 

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 “糞づまり”から出た宝物 「幸いなるかな」への不可欠な道 四訂版

2015-01-20 08:08:52 | アイデンティティの根源

 

 ルターは、改革や刷新とは無縁な「中世的人物」と思われていたみたい。偉大な改革者とは全く無縁に見えた、ということらしい。でもね、…。

 p176第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 ルターは、かなり目が悪かった。このことを私はよく考えてみるようと思います。しかしながら、ルターは自分の創造的な潜伏期間を終わりにすることがなかっただけなんですね。独創的な思想家は、長い時間が必要なのは、感触のためばかりではなくて、自分自身が答えを出すためでもありました。(フロイトは、「雑音」が聞えませんでしたし、ダーウィンは、高尚文学に吐き気を催しました。フロイトが精神分析家になったのも、ダーウィンが進化論者になったのも、2人が20台を終える頃でした。)その間、ルターは、いわば気付きの手前にあったんですね。すなわち、ルターは、自分が受け止めた感じを、視覚的なイメージよりも、他の感覚的なイメージで蓄えていましたし、自分のいろんな気持ちを、早計な結論にしなかったんですね。ルターは、強迫的にしつこい、と言われるかもしれません。あるいは、ルターは、知的にも、スピリチュアルな面でも、“糞づまり”とさえ、言われるかもしれません。それはちょうど、ルターが身体的に糞づまりになりがちだったのと同じです。しかし、このしつこい性格(それはすぐに、癇癪持ちの性格に変わります)は、ルターの持ち味でした。そして、心理・性的なエネルギーが昇華すると思われるように、私どもが認めなくてはならないのは、1人の男が、自分の心理生物的な性質や心理・性的な感覚を素材にして、創造的な適応という大事な生き方を創り出した、ということです。

 

 

 

 

 本当に不思議ですね。”糞づまり”のような心理的な状態の人。かなり暗い印象でしょう。保守主義に見える人で、印象はかなり暗い。普通はあまり関わりたくないような人物。でも、それは「印象」であって、その心根は外からは見えにくい。

 それは「ここまで出てきているんだけれども、出てこない」といった状態。普通は、忙しさの中でゴマカシたくなるような感じがするんですね。はっきり言葉にできない感触。あるいは、早合点な結論を出したい誘惑にも駆られがち。でもルターはゴマカスことも、早とちりの結論を出すこともありませんでした。それをロマ書5章3-4節では、「踏み止まること」、一般的な口語訳聖書では「忍耐」と訳した言葉の、本当の意味だと私は考えます。ヒュポメノー。ギリシャ語の言葉を音写すれば、こうなります。このヒュポメノー、シモーヌ・ベーユ最愛のキーワードでもあります。

 糞づまり、にも見える。しかし、それは自分が創造的に、社会に貢献するための、世界に貢献するための、2度とない期間。それは輝くばかりの栄光と宝の準備期間ですね。これを味わえる人は、「幸いなるかな」、なのですね。

 

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