エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

≪自分を確かにする感じ≫ 負けるが勝ち 改訂版

2015-01-22 14:29:00 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ≪自分を確かにする感じ≫。聴いたことないでしょ? これは普通「アイデンティティ」と言われている言葉の本来の訳語とすべき言葉です。元の言葉は a sense of identity。「アイデンティティ」って言われたって、ハッキリ分かった感じがしないでしょ。エリクソンの翻訳がこれだけたくさん出ていても、訳が分からない。それは、日本では、学会では著名で高名な「がくしゃ」でさえ、じつのところ、エリクソンの「エ」の字もお分かりでない、ということをハッキリ示してんですね。

 こういうと、非常に私が、傲慢な物言いをしていると思われる方がおられるかもしれませんね。それはそうなのかも分かりません。パレーシア、すなわち、弱い立場の者が、物事をハッキリ言うことは、日本では不遜に思われることが多いからでしょうか? でもね、弱い立場の者が物をハッキリ言える社会の方が、強い者だけが、自分が得することだけべらべらしゃべったり、マスメディアを独占したり、しているような、日本社会よりも、はるかに民主主義的だと思いませんか?

 私は、エリクソンは、その本当のところが日本ではなかなか理解されていないと思っています。最も理解しているのは、私が読んだ中では、圧倒的に、佐々木正美先生と河合隼雄先生だと思います。その他の人は、たとえ日本の学会では高名でも、エリクソンのことはあんまりわかっていらっしゃらない。

 アイデンティティ、それは自分を確かにする感じ。皆さんはどうやって「自分を確かにして」ますか?

 人と比べてみて、自分の方が「勝ってる」と思えた時。良いもの、人がうらやむようなものを「買ってる」時。いずれも、比較している時ですね。でもね、その「自分を確かにする感じ」は砂上の楼閣。なぜなら、自分が「勝ってる」「買ってる」と思えない瞬間、崩れてしまうからですよね。

 じゃぁ、どうすれば、「自分を確かにする感じ」を得られるのか?

 それはね、自分以上を見つけることですね。すなわち、自分の負けを見つけること。「かってる」時とは真逆ですね。

 おもしろいでしょ。

 

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エーリッヒ・フロムのパレーシア

2015-01-22 12:16:12 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 眼に見えるモノに目暗ましを喰らっている内は、人を大事にすることに注ぐべき精力が0ってことにもなりかねません。

 p5最後の行から。

 

 

 

 

 

 お金や特権を稼げるモノだけが、学ぶに値すると考えて、魂だけには利益をもたらすけれども、現代的な意味では価値がない、人を大事にするは、多大な勢力を注ぐに値しないぜいたく品だ、ということがありえるでしょうか?しかし、これこそ、これから各章において、人を大事にする技術を議論することなのかもしれません。第1に、人を大事にする技術について論じます。そして、これこそこの小著のかなりの部分を占めます。第2に、人を大事にすることを実践することを論じます。実践について語ることができることは、他の分野と同様、ほとんどないのですね。

 

 

 

 

 

 実用主義の時代、功利主義の時代、自己中心の時代です。お金になることを論じることはあっても、一銭の金にもならない、人を大事にすることは、論じられることも、ましてや、実践することもほとんどない時代。フロムは敢えて、そこを論じようとしたんですね。このこと自体が、時代に挑戦するパレーシアでしたね。

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自分を確かにする感じって、革命的!

2015-01-22 07:49:28 | アイデンティティの根源

 

 ルターは、本気になる前と後では、全くの別人。本気になることって、とっても大事。

 p177冒頭から。

 

 

 

 

 

 私どもの課題は、宗教的教義とその実践が、自分を確かにする感じに役立つものかどうか、というあたりにありますね。「神が自分を確かにしてくださる感じ」は、偉大な未知なるところのある、とあらゆる宗教は思いがちです。いろんな時代のいろんな場所の人々は、「神が自分を確かにしてくださる感じ」に独特の見た目と形を与えます。その人びとは、この見た目と形から、「実存的」と呼べるかもしれない自分を確かにする感じの一部とすんですね。というのも、この実存的と言うものは、それぞれの魂が存在そのものとの関係によって、決まってくるからなんですね。(この文脈では、私どもは、修道院の禁欲主義の技術が、人が自分を確かにする感じを組織的に弱めてしまうものだったなどと言って、脱線するべきじゃぁ、ありません。というのも、そう言った修道院の禁欲的な技術は、非常にしっかりとした、自分を確かにする感じを得るための、かなり優れた試金石であるかもしれないからですよね) 「神が自分を確かにしてくださる感じ」と 天国ではより人間らしくなるけれども、この地上ではより全体主義的になるような父なる姿を結びつける、キリスト教の結びつきによって、中世の人々は、宗教が中世の人々に担ってきた、まさに実存的に自分を確かにする感じを失っていった、と申し上げておきます。

 

 

 

 

 自分を確かにする感じを、あらためて、父なる神に結びつけることが、中世的な自分を確かにする感じとは全く異なる、もう1つの「自分を確かにする感じ」をもたらしたわけですね。それは全く別な生き方をももたらしてくれます。そして、それは全く別の時代を画することをももたらします。自分を確かにする感じとは、全く革命的ですね。

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