エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

お役所仕事の狂気 その2 改訂版

2015-01-03 16:13:15 | エリクソンの発達臨床心理

 

 お役人はウソを言うのが仕事なんですね。それも平然として、何事もないかのようにウソを言います。詐欺師と何の違いもない。しかも、税金で給料もらってこれですからね、詐欺師よりも質が悪い。詐欺師は、自分の稼ぎは、自分の詐欺師の腕にかかっているのに対して、お役人の方は、生活が保障されてるんですからね。

 なぜ、お役人はウソをつくのか? それは、憲法を蔑ろのしているからですね。憲法15条第2項には、

すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

と書いてあるけれども、お役人が国民「全体」を考えることはほとんどない。関係のある業界や関係のある族議員、自分にわいろをくれるか、あるいは、接待に誘ってくれるか、そのような大企業を優先します。ですから、情報を隠す訳ですね。それは、自分たちがやってることが国民にばれたら都合が悪いからですね。国民が知ったら「許せねー」と怒り出すでしょ。いま、沖縄や福島で、相当程度、そのウソがばれてきましたでしょ? ですから、実際、いま、沖縄の人々や福島の人々は「許せねー」と怒ってますでしょ。

 学校の先生も、その多くがお役人。子どもには「嘘つくな」と教室や家庭で言っているくせに、学校や組織を守ろうと言う段になると、平気でウソを言いますね。大川小学校で6年生の娘さんを亡くした大川中学校(?)の佐藤敏郎先生が、石巻市教育委員会に入った先輩教員に対して、公の事件の説明会で詰め寄ったシーンがNHKでやったことがありましたでしょ。だけど、その先輩は遺族に対して誠意を尽くして説明しようという姿勢じゃぁない。むしろ、「余計なことは言わない」、「組織に都合の悪いことは隠そう」という感じでしたね。

 「余計なことはしない」「余計なことを言わない」は、日本のお役人の行動原則。余計なことをしてくれる、優秀な役人は、国民にとっては貴重ですが、お役人にとっては「厄介者」。叩かれ、疎まれます。「出る杭は打たれる」とばかりに、讒言を受ける対象になっちゃうんですね。

 これは先の憲法15条第2項に抵触しますよね。法治国家なのに、法の支配が徹底しない狂気です。

 それは、組織に対する偶像崇拝です。それがいかに恐ろしい、おっかない狂気なのか。それがハッキリ分かりますでしょ。子どもの70人以上の命よりも、組織防衛を優先しちゃう、そのために平気でウソを言ってんですからね。

 これは、太平洋戦争を勇んで戦った軍人やお役人(職業軍人もお役人)が、全体を考えず、自分の組織防衛をやって、自分がやっていることに対して、無責任体制があった。それと同じ無責任体制を作っているお役人や教員。それが狂気そのものです。

 

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「自分の暮らしは脆いものだった」と気付くとき

2015-01-03 12:01:35 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 ここ20年以上、日本は息詰まっていると感じている人がとっても多い。閉塞感を感じている人がとても多い。それは、言葉を変えれば、原理や信念を失って、不安に思い、眼に見えるモノ以外の目的をなくしちゃっている、ということでしょう。

 p96第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 宗教的文化では、たとえば、中世みたいなら、平均的な人は、神は自分を助けてくれる父親であり、母親であると見なすであろうことは確かでしょう。でもね、同時に、神を厳格に受け止めもしましまたね。それは、人生の最高の目的は、神の戒めに従って生きる、という意味ですし、他のすべての活動を従属させる最高の関心事を「救い」にする、という意味です。今や、こんなに努力するものはありません。日常生活は、現在は宗教的価値とは別物になっています。今の日常生活は、生活が便利になるため、受けがいい人間になるための努力になります。俗世で努力する原理は、無関心と自己中心の原理です(無関心は「個人主義」と呼ばれ、自己中心は「個人の独創性」と呼ばれます)。本当に宗教的文化の人は、8才の子どもたちと比べることができるかもわかりません。8才の子どもたちは、助け役として父親が必要ですが、自分の生活に、自分が教えてもらったことや戒めを、当てはめだします。現代人は、3才児のごとく、必要な時には父親を泣き求め、その他、遊んでいられる時には、全く自己満足している、といった具合です。

 

 

 

 

 

 日常生活と宗教は別物になった、とフロムは考えました。それで日常生活は、自己中心となりました。日常生活から倫理と目的が消えちゃったのは、宗教が日常からなくなって、日曜礼拝や礼拝の時に限られちゃったこととイコールですね。

 現代人は、神が死んだ後で、日常の便利さに自己満足しているのですが、実際は非常に不安定な日々を送っていることを忘れてしまっています。そして、大地震や大水が出る時に、ハッと気づくんですね。「自分は、脆い暮らしをしていたんだ」と。

 

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ガンディーの課題解決法

2015-01-03 06:14:49 | アイデンティティの根源

 

 臨床では、自分が生活している時の倫理、建前の倫理ではなく、本音の倫理が物を言いますよね。自分の声を日頃から聴いて居れば、小さな子どもでも、すぐに気づきます。「このおじさんは、自分の本音の話(声)を聴いてくれるおじさんだ」ってね。不思議でしょ。

 p238ブランクの後から。

 

 

 

 

 

 私が結論として申し上げることに近づいてきましたから、もう一度、お話を変えて、少しの時間、政治経済について、それから、倫理、それも、ガンディーの「課題解決法」についてお話しましょうね。

 アーメダバードで私は、サバマティ川に跨る、ガンディーのアシュラムを訪れる機会がありました。それから間もなくして、私が気付いたことは、アーメダバードで、神聖だけれども、非常に具体的な出来事がおきた、ということです。それは私が常日頃から申し上げていることを具体的に示すものでしたね。もちろん私は、ガンディーが、1918年の製粉工場の労働者たちのロックアウトやストライキで指導力を発揮したことや、公的な理由で、ガンディーが初めて断食したことに触れます。この出来事は、世界中の工業関係の歴史ではよく知られていることですし、すべての教養あるインドの方々にも、何となく知られています。しかしながら、私が信じておりますのは、アーメダバードの、今もご存命の、その現場をじかに見ていた方で、今も続いている施設でだけ、あの出来事の「精神」を、この地域の工業関係においても、インドにおける影響力においても、特に、バラバラになった人間の働きが新たに出会うことになったことにおいても、永遠の成功体験として推し量ることができる、ということです。

 

 

 

 

 

 ガンディーのルール、「課題解決法」。それはロックアウトやストライキをやりながらの「解決法」。それは永遠の成功体験とエリクソンが言うものですね。詳しくは、明日。

 

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