朝日ホールであった,「お別れの会」の写真。私も思いがけず,前の方の座席に座ることができました。ラッキー!
「ぜいたく」贅沢と言えば、何を想像されるでしょうか? 海外旅行が、すでに贅沢とは呼べないくらいになって久しい今、何を以て贅沢とするかは、意外に難しい問いなのかもわかりませんね。
人によっては、ブランドバックでしたり、一流と呼ばれるホテルに宿泊することであったり。あるいは、のんびりと温泉を楽しむことである場合もあるかもしれませんし、ご贔屓の和菓子屋さんで、お気に入りの和菓子にお抹茶がいい、と言う方も、あるいはおられるかもわかりません。私も甘党、和菓子にお抹茶が良い口です。
しかし、敬愛する加藤周一さんがおっしゃる「贅沢」は全くの別物。スケールが違います。これは、平凡社から出ている『加藤周一セレクション/5 現代日本の文化と社会』所収の「日本人の死生観」に出てきます(p122-123)。この文書は、6人の日本人エリート(乃木希典、森鴎外、中江兆民、河上肇、正宗白鳥、三島由紀夫)の生と死に対する態度を検討したものです。引用が若干長いですが、その箇所をお示ししておきましょう。
「日本のような集団志向型の社会で、その成員が集団の価値体系とは独立に、個人的に選びとった「イデオロギー」にもとづいて独特の価値観を信奉することは、その成員の生活を困難にし、安全を脅かし、極端な場合には「村八分」の危険をおかすことを意味するだろう。そういう条件のもとで、所属集団との妥協を捨て、「イデオロギー」による自己束縛の道をとるのは、おそらく社会の周縁部に生きることを決意した「エリート」だけに許されるぜいたくである。」
この確信に満ちた記述に接したときに、私は、身震いする感じ、ヌミノースを感じましたね。そして、私気付きましたよ。これは加藤周一さんの生き方そのものだということを。
論理的文書でも、自分の生き方がハッキリ出る、この加藤周一さんのような文章ほど、説得力とヌミノースを感じるものはありません。