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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

20年前の1月17日 改訂版

2015-01-17 14:21:41 | エリクソンの発達臨床心理

 

 20年前の1月17日。読者の皆さんは、どこで何をしていましたか? まだ生まれていない方もあるかもわかりません。

 私は、その前日、米沢興譲教会の田中信生先生の講演を、浦和の労働会館で初めて伺い、その後、その講演を一緒に聴いた友人と一緒に過ごして、朝帰りをした朝の事でした。空いた高速を飛ばして帰って、寝て起きてみたら、テレビで無残な神戸の姿が目に飛び込んできました。私はその日は年休を取っていたので、週末から4連休でした。

 一月ほどしてから、職場で順番に神戸市三宮近くに派遣され、1週間ほど震災支援をしてきました。近隣の独居老人を回って、声を掛ける、というボランティアでした。宿舎は賀川記念館の3階だか4階だかを借りて、シュラフで寝ました。余震がまだあり、電気は何とかついたものの、水もまだ来ていませんでしたね。トイレは、汲んだ水で流しました。東京から賀川記念館まで行く途中でも三宮も、10階建てくらいのマンションが倒れていたり、2階がつぶれて一階になり、一階の駐車スペースの車が、ペシャンコになっていたり。一端ことが起きる時は、立派に見えた街もこんなになっちゃうんだ、と感じました。でも、線路近くの商店街は、食べ物を売っていたりしましたね。また、近くの学校の校庭に、自衛隊がテントの銭湯を設置して、近隣住民に提供していました。その風呂をたくモーターの音が今も耳の奥に残っている感じです。

 一週間行ってみて、「形あるものは朽ちる」ということを改めて感じましたね。ですから、復興と言っても、外形的なもの、モノの復興には懐疑的になりましたね。もちろん、住む場所、、水や電気、食料、衣料、もう1つの医療。インフラは回復しなくちゃなりません。フロムじゃないけれども、眼に見えないものまでもが、交換価値で測られる現代。眼に見えないものが蔑ろにされがちでしょ。

 その後の日本の20年。「失われた20年」と言われます。何が失われたのか?

 20年前の日本が「天国」であったはずがない。そこにわずかにでもあった「人間らしい暮らし」さえ、この「失われた20年」の間に失われてしまいました。そこに東日本大震災と放射能汚染です。

 私どもは、道路整備やかさ上げや復興住宅を作るだけで、果たしていいのかな?

 20年前の1月17日を思い出しながら、ふとそんな疑念が浮かんできましたよ。

 

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人を大事にすることで学ぶべきものはない、との誤解

2015-01-17 11:30:43 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 

 人を大事にする時でさえ、交換して得することしか考えない。愚か者。

 p4の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 人を大事にすることなど学ぶことはない、などという前提に繋がる第三の過ちは、恋に「落ちる」最初の経験と、人を大事にするという、不変の状態、あるいは、人を大事にする事に「踏みとどまる」状態を混同している、ということですね。もし2人が見知らぬ同士で、私どもみんなと同じように、2人を隔てる壁を不意に壊して、親しみと一体感を感じるのならば、この一体になる瞬間が、人生の中で、最も気分爽快で、最もドキドキする体験の一つになるでしょう。その瞬間は、バラバラで、孤立し、人から大事にされたことがない人たちにとっては、なおさら素晴らしく、なおさら奇跡的です。不意に親しくなるという奇跡が生まれるのは、性的な魅力とセックスのクライマックスが結び付くか、端緒となるか、そのどちらかの場合が多いのです。しかしながら、この種の、人を大事にすることは、その性質からして、長続きはしません。この2人はお互い馴染んできますし、2人の親しみは次第に奇跡的な性質をなくしてきますが、終いには、2人は、敵意、失望、退屈さを感じて、最初のドキドキした感なくしていることに気づきません。お互いに「夢中」だと感じることが、2人がお互いに相手を大事にしている強さを証明するものと思われがちですが、お互いに「夢中」であることは、2人が今まで述べた一人ぼっちである、その程度を証するだけなんですね。

 

 

 

 相手に夢中になるのは、自分が1人ぼっちであることを示すだけ。相手を大事にすることにならない。セックスの最高潮の時に、最も親しくなった感じになるし、それは言葉にできないほどの素晴らしい奇跡的な経験だと感じるものです。でもね、それはフロムが言うように、一瞬で過ぎ去るもの。身体が離れれば、再び一人ぼっちを感じることになります。

 私どもはどうすれば、人を大事にする気持ちをずっと続けていくことができるのでしょうか?

 

 

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自分自身に気付く方法 +どこでも通用するやり取りの技術力

2015-01-17 07:44:01 | アイデンティティの根源

 

 黄金律はやり取りする際の鉄則。

 そろそろこの章も、終わりが近くなりましたね。

 p243の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 しかしながら、臨床の知のある人たちは、私がここで当然と見なしている次元に対する視点を見失ってはなりません。古典的な黄金律を読むと、最高善を目指して意識的に努力したくなりますし、とんがった意識でお互いに傷つけあうことのない様にしたくなるものですが、私どもはよくよく考えれば、倫理的な強さという土台が無意識にあることが分かると同時に、破壊的な激しい怒りという兵器庫も無意識にあることが分かります。前世紀において、動物の祖先からも、経済史からも、人間の内なる「敵たち」からも、無意識的な動機が出てくることを、人類は痛いほど人は気づきましたよね。しかしまた、前世紀においては、(あらゆる観点で)建設的に自己分析する方法もできました。こういったことは、自分を精密検査にかける方向へみんなが向かう傾向の、実用的な西洋版だと私は見なしていますが、その傾向は、アジアでは、このように高度なものにすでに達していました。自分自身に気付く方法を、新しい方法でも古い方法でも、どこででも通用する、微に入れ細にうがった、具体的なやり取りの技術力と結び合わせることが、次の世代の課題となるでしょう。

 

 

 

 自分自身に気付くこと、それを具体的に実践できる方法とむすびつけて、ひびじっせんすること。それが、いつでも、どこででも、やり取りをするための条件ですね。

 

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