ノモンハンと大川小学校の間。
別に、距離の話じゃぁない。ノモンハン事件は、1939年5月から9月まで続いた、モンゴルと満州国の国境線をめぐる戦争です。関東軍が計画、大規模な戦争に拡大。部隊の76%が戦死するような壊滅的な犠牲が出ても、戦争を続けた結果、2万の犠牲者を日本軍は出した、といいます。しかも、その事実を「極秘」として隠ぺいした戦争でした。
司馬遼太郎さんが、ノモンハン事件のついて小説にしようとして、長年取材し、大量の資料を神田で買ったことは有名ですね。神田の古本屋から、ノモンハン事件の関する資料が、すっかりなくなっちゃった、といわれるくらいの資料を買ってったと言うんですからね。資料を買っただけじゃぁなくて、当時この愚昧な戦争に関わった人々にインタヴューもしています。
当時、東京の参謀本部作戦課長、まぁ、参謀の親玉みたいな人ですね、稲田正純さん。陸軍士官学校29期性で、陸軍大学教官、参謀本部作戦課戦争指導班長、参謀課長などを経て、陸軍中将まで上り詰めた職業軍人にしてエリート官僚ですね。こういう人が「日本史上最も陰惨な時代」と司馬遼太郎さんが言う時代を作ったんですね。インタヴューに同行した、中央公論社の山形眞功さんは、その時の様子を次のように述べています。この稲田さんの受け答えは「のらりくらりとしていた」と言います。でも「妖怪みたいな怖さ」もあったと述べています。司馬遼太郎さんは「午後6時くらいから11時くらいまでまでよくしゃべる方でした」、「ノモンハンのことを巧みに外した」語り口で話し、司馬さんが「ノモンハンのことを聞きだすと、なんだか官僚的な答弁が出るだけ」だったと言います。そして、次のように締めくくります。「要するに、官僚だということです。ああこういう人が、(ノモンハン事件以降の陰惨な歴史を)やったのかということであります」。
要するに、なぜ、あのようなバカな戦争をしでかしたのか、その理由も責任者も明確にしない「お役所仕事」。
かたや、大川小学校事件。
http://diamond.jp/category/s-okawasyo
70人以上の子どもが殺された事件ですね。日本語では「死んだ」ということが多いでしょうけれども、英語では、70 children were killed. 「殺された」とはっきり言いますね。在校生の68%が無残にも殺されたんですね。なぜ、あのようなバカな事件が起きたのか、その理由も責任者も明確になったのか?
このブログで何度か記しましたように、教育委員会の対応は、稲田正純さんと同様「のらりくらりとしていた」ですね。また、教育委員会の話は、大川小学校事件の真相と責任者のことを「巧みに外していた」語り口でしたね。また、大川小学校で6年生の娘さんを亡くした大川中学校(?)の佐藤敏郎先生が、石巻市教育委員会に入った先輩教員、戦争指導班じゃなくて、学校指導班の指導主事に対して、公の事件の説明会で詰め寄ったシーン、その先輩は「なんだか官僚的な答弁が出るだけ」でしたね。
要するに、なぜ、あのようなバカな事件をしでかしたのか、その理由も責任者も明確にしない「お役所仕事」。
これを政治哲学者のハンナ・アーレントと司馬遼太郎さんの言葉を借りれば、次のようになります。
自分の組織を超えて共有すべき世界への、労わり、痛みを感じること、優しさを亡くした、考えなし(無思考)で、平気でウソつく極悪非道な、いつもの「お役所仕事」(悪の凡庸さ)。