エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

お役所仕事という狂気 再改訂版

2015-01-02 22:30:06 | エリクソンの発達臨床心理

 

 さあ、本日のテーマはお役所仕事です。

 お役人のお仕事はいったいどういうものなんでしょうか? 私は簡単に申し上げると、お役人のお仕事は、「狂気」だ、ということを申し上げたいんですね。そこを今日は考えてみましょう。

 最近、「情報開示と情報操作」と言うタイトルでブログを書きましたでしょ。その中でも触れましたが、お役人は、情報を隠ぺいすることで、住民や国民を操作し、コントロールし、従属させようとしてんですね。お役人のお仕事は、基本が≪反民主主義≫、すなわち、民主主義をぶち壊すものです。

 原発放射能漏れ大事故は、「原発は放射能漏れ事故など起こさない、儲かりまっせ」と、大ウソを言ってきたことが背景にありますね。それは狂気ですよね。昨日(1.1,2015)朝日新聞(12版▲5ページ)に(他紙にも掲載されたでしょう)掲載された、岩波書店の一面広告。そこに、大江健三郎さんが書いてましたね。「(渡辺一夫)先生の声が『狂気』という時、それは『三・一一』の悲惨をもたらした構造についてであり、さらにその日起った国民的な反省を押しつぶしている強権についてです」と。その構造は、簡単に言ってしまえば、お役人がウソをいうことですね。それが狂気なんですね。憲法十五条第二項には、

すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない

と書いてあるのに、日立などの原発開発会社や、東京電力などのような電力会社に奉仕するために、お役人はウソを言ってる訳でしょ。そのウソのために、福島の12万以上の人々が故郷を失い、避難・転居してんですね。

 これは、大川小学校事件の際でも一緒ですね。「山に逃げない」ことを選択した責任者である教員(管理職か、教務主任などの役付き教員)のことを隠してんでしょ。裁判になってもならなくても、正直に話すことがない。只野君がテレビでも証言している「山に逃げようと言っていた六年生がいた」という証言は、公式の報告書からは抹殺されてんですからね。ウソとゴマカシ、ここまで至れり、ですよね。70人以上の子どもが死んでるのに、人命よりも、組織とメンツが大事なんですね。そのためには、ウソやゴマカシを平気でやる。一見冷静に見える教育委員会の受け答えが、いかに「狂気」に満ちているかが分かるだろうと思います。

 私どもは、正気でいなくちゃなりませんね。

 ですから、イエスは十字架に着く前の晩に繰り返し言ってたことは、本当に人間に大事なことを示し続けていますよね。

 「目覚めて(正気で)いなさい」

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今の日本の、偶像崇拝は、信念を失って不安になってること、モノ以上の目的を失くしちゃうことに出てる

2015-01-02 11:21:21 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 人を大事にしていることの証拠は、関係の深さと、関わるものがイキイキしてしなやかになること。

 p96の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 ロボットたちがお互いに大事にすることはあり得ないように、ロボットたちは神を大事に思えるわけがありません。「神を大事に思えないこと」は、それだけ人を大事にすることができない、ということです。この事実は、今の時代、宗教が再生していることをじかに見ている、という考えとハッキリ矛盾します。これ以上のことを、真実から導き出すことなどできません。私どもがじかに見ていることは(例外もありますけれども)、神を偶像崇拝することへと後退している、ということと、神を大事にすることが、よそよそしい性格に合う関係へと変質している、ということです。神を偶像崇拝することは、分かり易い話でして、人々が、原理や信念を失って、不安に思い、眼に見えるモノ以外の目的をなくしちゃっている、ということです。ですから、人々は、いつまでたっても大人のなれず、苦しくなったら、パパとママが助けに来てくれる、と思ってるんですね。

 

 

 

 

 まさに今の日本のことでしょ。日本はまさに、フロムがここで言う偶像崇拝そのものでしょ。原理や信念を失くして不安に思っていますし、カネ・モノなど眼に見える以上の目的を見失っています。そこんところに来て、東日本大震災と原発放射能漏れ大事故ですからね。

 東日本大震災と放射能漏れ大事故は、ハッキリとは眼に見えなかった日本の偶像崇拝の実態を、目の当たりで、ハッキリ示したものであると私はかねがね考えています。それは、2011年3月11日のずっと前から、日本人が、原理や信念を失くして、大きな不安にさいなまれてした、ということですし、モノ・カネ以上の目的を見失っていた、ということですね。

 ですから、私どもは今一度、神を大事にすることですね。こういうと何か特定の宗教を信じなさい、と申し上げているようでしょ? 私はキリスト者ですから、そりゃぁ、キリストを信じてくれたらうれしい。しかし、そういうことじゃぁない。そうじゃなくて、自分や組織を超えた≪超越≫を大事にしましょう、そう言う心構えを今一度、訓練を通して身に着け直しましょう、ということなんですね。

 よろしくね!

 

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臨床では、倫理の力が決定的

2015-01-02 06:32:49 | アイデンティティの根源

野村 實 先生

 「気質、知性、倫理がある程度一つになっているんですね。この3つが一つになることこそが、本当に偉い医者の特色です」と言われてもピンとこない、という人もあるかもわかりません。エリクソンが教えてくれたことを、簡単に申し上げれば、本当にえらい医者は、≪言ってること≫と≪やってること≫が一致してる、ということです。でもね、これは医者に限られたことではありませんよね。臨床心理士でも、学者でも、教員でも同じです。でも、この2つが一致している臨床心理士も、この2つが一致している学者も、この2つが一致している教員も、極めてまれだ、ということですね。

 p237下から4行目から。

 

 

 

 

 

 科学者としては、私どもが倫理を客観的に研究しなくてはならないことは、本当ですけれども、職業人としては、人格と訓練と確信を一致させることに全力を傾注します。これが一致するとはじめて、私どもは仕事がうまくやれます。同時に、人類と言う種を引き継ぐものとして私どもが記録しておかなくてはならないのは、私どもの時代の間違いをしでかしやすい方法と、私どもの実存が偶然の事情に晒されていることが私どもに気付かせてくれる、一番真実な意味ですね。この意味では、臨床の仕事を司る倫理や、倫理を臨床から研究する方法ばかりではなく、癒しの方向性に倫理が貢献することがある、ということですね(今までもずっとあった、ということですね)。さらには、治療者は、いまや、予防に全力を挙げてきましたし、栄養失調、病、早死にから守られた、あらゆる人生に、倫理が確かに当てはまることを保証する課題を避けて通れません。たまたまの考えを防ぐ、技術的能力と社会的解決法を人間が持つことによって、子どもひとりびとりが、社会的な責任というテーマを考えることができす。

 

 

 

 

 

 昨日も申し上げましたように、臨床には生き方がハッキリ出ます。それは高倉健さんが、「芝居には生き方が出る」と言ったのと同じです。日頃からウソと嘲りの、お役人生活をしていて、臨床場面だけ正直で誠実、なんてことは絶対にない。絶対にないんですね。正直で誠実をたとえ装っても、子どもはすぐに見抜きます、嗅ぎ付けます、聴き取ります。

 ですから、日ごろが≪言ってること≫と≪やってること≫の一致を心掛ける心構えが大事になります。それは、すなわち、「いたわり」と「人の痛みを感じること」と「やさしさ」が人間にとって大事だといった司馬遼太郎さんが言ったことと同じです。

 

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