エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

最近の「追いかけっこ・鬼ごっこ」から見えたこと。

2015-01-29 13:30:43 | エリクソンの発達臨床心理

 

 私は小学校のカウンセラー。子どもには「遊びのオジサン」と呼ばれています。子どもたちが好きな遊びといえは、氷鬼やケイドロなど追いかけっこ・鬼ごっこ。英語ですと、chasing one another、あるいは、 playing tagになります。

 先日も部屋の中で、追いかけっこ。狭いスペースだから、子どもとの距離が校庭でする時よりも近い。15人くらいの子どもたちが、男の子も女の子も参加。何人もの子どもが、「ネェネェ、私を追いかけてね」と言ってくる。〈いいよ〉と遊びのオジサン。子どもたちはキャァキャァ言いながら、逃げ回る。遊びのオジサンは、捕まえては、足払いで横にしてから、お腹をコチョコチョ…。子どもたちはもう大悦び。時間になって〈さあ、お仕舞い〉となれば、「次もやってね」〈わかりました〉。

 昔から、子どもの遊びといえば、かくれんぼと鬼ごっこ。かくれんぼは以前このブログにも書きしまたように、「イナイ・イナイ・バー」の仲間で、「だるまさんが転んだ」「カンケリ」「ハンカチ落とし」など。鬼ごっこは、氷鬼、ケイドロ、高鬼など。でもね、「鬼さんこちら、手のなる方へ」は昔言った覚えがありけれども、「私を追いかけてね」といったためしがありません。自分を追いかけてもらいたい子どもが多い感じです。そして、タッチしてもらいたい感じ。自分が注目されて、追いかけられて、タッチされたい…

 子どもの遊びが、自分が受け入れがたい「受け身の体験」を「能動的に再体験する」ことならば、たくさんな子どもたちが、お母さんに注目して、追いかけて、タッチしようとしたのに、それに十分に応えてもらっていない、ということになりますもんね。

 今現在の日本。これが残念な現実です。

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脆さが強さになる時

2015-01-29 11:59:19 | アイデンティティの根源

 

 キリスト教の英雄時代は、パウロの時代らしい。

 p178の第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 初期キリスト教のパウロの時代について私どもが知っていることは、壊滅的な嵐の後にしか存在しない、無色透明な雰囲気を彼らは生きたという印象です。この嵐は、もちろん、キリストの受難です。キリストはすべての人のために死んだのでした。キリスト信徒たちにとっては、しばし、戦争と平和、祭りとカーニバル、興奮と懺悔という人間が繰り返すことを特色付ける、破壊と再生のメリーゴーランドはやみます。キリストの伝説が運ぶものは、あの、全うした人生と絶対的な超越です。これは人間の中に存在する最も希少で持っても力強い力です。僅かな、単純な言葉だけが、この世のゴマカシとミセカケを、ますます見透かしたのでしたが、その言葉とは、同時に子どもの言葉ですし、無意識の言葉ですし、あらゆるスピリチュアルな伝統にある、穢れのない真心から出た言葉なんですね。またもや、個人の魂が道徳的に脆いことがは、スピリチュアルな強さのまさにバックボーンとなったのでした。

 

 

 

 

 実に不思議な人生の真実が明らかにされます。人が持つ脆さが、強さになる、と言うのですから。

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豊穣なる土壌

2015-01-29 07:50:49 | 間奏曲

 

 感じることがあらゆる叡智の源です。カーソンさんとエリクソンは、この点で完全に一致しています。

 p56の2行目途中から。

 

 

 

 

 

 もしも、事実が知識と叡智を生み出す種だとするならば、情緒と感覚的な感じこそが、その種が必ず育つ豊穣なる土壌です。

 

 

 

 

 

 情緒と感じることは、遊びの中で体験できますね。今小学校に行くと、遊びがあまりにも軽視されていることに、驚きますね。「遊びのオジサン」である私が言ってんですから、間違いありませんよ。

 

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