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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

自分の人生の必然性、自分の人生を唯一無二と思えた人は幸いなるかな

2016-03-05 10:55:01 | アイデンティティの根源

 

 

 
瞳の美しさ
 このブログと全く関係のない子です  学校でクラスから飛び出す、教員のいうことを聞かない、授業に出ても、授業を「妨害」するような発言を繰り返す、校外で下級生に...
 

 

 まとめる力があると、人生に無駄はない、と分かるものらしい。

 今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.260の、長~い引用部分の7行目途中から。

 

 

 

 

 

「世の中の事にはすべて、秩序と意味があるもんだ」ということに対する揺ぎない確信は、自己愛の時期の後に来る、自我を大事にすることであって、≪本当の自分≫を大事にするものではありません。それは、いかなる代価を支払っても、世に中の秩序とスピリチュアルな意味付けをもらたしてくれる経験です。それは、自分の人生の巡り合わせを、そうならなくてはならなかったもの、必然として、他をもって代えがたい、たった一つの人生だとして受け入れる経験でもあります。

 

 

 

 

 

 自分の人生の必然性、自分の人生を唯一無二と思えた人は幸いなるかな

 

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自分に対する問いを問いながら、生きてる?

2016-03-05 09:55:16 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
一番ちっちゃな妖精
  「おとぎ話の鈴鳴らし」の声を聴いてみたい。 The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p91の第2パラグラフの5行目途中から。...
 

 

 何があっても大丈夫」と腹の底から感じられたら、セコムしなくても「あ~んしん」でしょ。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の、p.109の、ブランクから。

 

 

 

 

 

 自分を確かにさせることが出来ずに、何となく困っている状態 vs 自分を確かにさせている状態 : 関係に対して忠実・誠実である生き方

 

 

 

 

 

 自分を確かにさせる、ということは、生まれた瞬間に、赤ちゃんひとりびとりに、注意を払い、歓迎し、違いを認めますし、名付けることによって、赤ちゃんが自分を確かにさせることを、直ちに保証します。男の子は自分の名前を貰えるし、女の子が自分の名前を呼ばれれば、自分は女の子なんだと分かります。たくさんある名前の中に、「はい」と応える名前と、「僕(私)の名前じゃないもん」と言う名前が出てきます。私が出くわす最大の課題は、「自分らが、≪私たち(仲間)≫と考えるのは、どういう人達なのか(どの範囲の人たちなのか)?」 対 「よその人たちが、≪私たち(仲間)≫と考えるのは、どういう人達なのか(どの範囲の人たちなのか)?、あるいは、どういう人達であろうとしているのか(どの範囲の人たちを認めようとしているのか)?」 ということです。男も女も、「自分は何者?」と考えることは、厄介な、自分自身に対する問いでして、なかなかいい答えが見つからないもんですね。

 

 

 

 

 「自分は何者?」と言う自分自身に対する問いは、厄介な問いであることは確かです。知的に問うても、答えは見つかりません。いいえ、見つけたとしても、その答え通りには生きられません。

 「自分は何者?」という問いに対する答えは、自分達の中にあるのです。

 それは「神が支配されるところは、あなた方のただなかにある」(私訳)

     「見よ、神の国はあなた方のうちにある」(前田護郎訳)(ルカによる福音書第17章21節)

 ということと、合わせ鏡です。

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自分の物語を語り始めて

2016-03-05 03:13:45 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
エルサレムのアイヒマン
  今日、Amazonから『エルサレムのアイヒマン』Eichmann in Jerusalem が届きました。『人間の条件』The Human Condition...
 

 

 発達トラウマがありますと、自己評価はおしなべて低い

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第14章 Languare : Miracle and Tyranny「言葉 :奇跡も残虐も(、もたらすもの)」p.239から。

 

 

 

 

 

 しかし、私どもの患者が語る物語を聴いても、失業した後、彼女がなぜダメになったのかはわかりませんでした。ですから、私は、「五歳の少女が、『あなたの脳は病気だ』と言われることって、どういうことなのかしらね?」と尋ねました。その問いのよって、その女性は自分自身を内省するきっかけになったのは、その問いに対しての答えを持ち合わせていなかったからでした。抑えたトーンの声で、その女性が話してくれたのは、「私の診断が最悪なのは、その後、お父さんは、私になんの治療もしてくれなかったことよ」ということでした。「お父さんは、私を知恵おくれみたいに見たのよ」。「誰も私の味方になってくれないから、基本的に自分のことは自分でやらなくっちゃならなかったわ」ということでした。

 

 

 

 

 この話から、性的虐待はともかく、ネグレクトはありそうですね。必要な治療しないのは、心理的虐待になるばかりではなくて、身体的虐待かもしれません。この女性も自分の物語を語り出して、自分の症状の背景について、自分でも気づくようになるのでしょうか?

 

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子どもには、非常に高い目的がある

2016-03-05 02:18:58 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 
瞳の美しさ
 このブログと全く関係のない子です  学校でクラスから飛び出す、教員のいうことを聞かない、授業に出ても、授業を「妨害」するような発言を繰り返す、校外で下級生に...
 

 

 心理のところに来る子どもは、何かしらの「問題」を指摘されて来ます。まるで「悪いのはこの子です」と言うが如し、です。しかし、「問題」も「障害」と同様に、その子どもに帰属するものではありません。いろんな人間関係の中で生じているものなんですね。ですから、基本がその子の「悪いと所」を完全するのではなくて、主として「母子関係」と、それが内面化された「自我と良心の関係」のいずれか、ないしは、その両方を調整するのが、サイコセラピストの腕の見せ所、ということになります。

 ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog より、p.209、下あたりから。

 

 

 

 

 

 課題を負わされた子ども等の治療に携わる私どもは、1つの状況に関する先入観に、常に用心しなくてはなりません。「困難を負わされた10台の子ども」は、別の視点から見たら、「性的虐待の犠牲者」かもしれませんし、子どもにつけられたラベルは、その子どもがどのように関わられてきたのかを物語っていることが多いんですよ。「ダメだ」と見なされた一人の子どもは、「キチガイ」と見なされた人とは別の処遇をされるでしょうし、2人とも、臨床医が1人の「犠牲者」と見るのか、それとも、「悪者」と見るのか、によって、別々の視点で見ることが出来る行動をします。さらには、どういう視点で見るかと言う視点次第なので、全く同じ行動が、「家出」とも、「助けを求めること」とも、枠づけることが出来ますし、子どもをどう見立てるかということは、その子どものために何をしたらいいのか、その子どもにとってなすべきことは何なのか、を決めることに、根源的な影響をもらたします。

 

 

 

 

 コラムの「瞳の美しさ」で取り上げた小学生も、「学校一の問題児」と見立てられて、私のところにやってきました。でも、その子の瞳が最初から気になっていましたね。学校が付けている「学校一の問題児」というラベルはおかしい、と直感的に感じました。家庭的な問題から、大人のウソを見抜く動物的な直感が、人一倍強いことが次第に分かりました。そういう見立てをすることと、その見立てに従った関わりをすることで、あるいは、その見立てに従った関わりを教員にしてもらうことで、その子どもは非常に変わったんですね。

 ことほど左様に、子どもをどのように見立てるのか、ほとんどの場合、子どもには非常に高い目的があると思って子どもの様子を見立てることが、状況の改善に繋がりますね。

 

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