エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

良心の呵責なき世界

2016-03-13 22:26:31 | アイデンティティの根源

 

 

 
内村鑑三と教育
  内村鑑三。1861年、江戸時代末期に、東京小石川で生まれ、1930年、東京は柏木、今の地番で言えば、新宿北新宿一丁目で亡くなっています。70才でした(詳しくは...
 


 

突き抜けた悦びって、どうしたら伝えることが出来るのかしら?

 今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.261の、長~い引用部分の後、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 自分を確かにさせる青年期の危機と、まとめる力をもつ大人の危機を結び付けると、ひとりびとりが自分を確かにされるという宗教的人間の課題が、いまここに生きていることを確かにさせるという課題と同じになります。この課題は、ある程度は、青年期の後半の時期によくある未熟さを強調することにすぎません。宗教的指導者は、良心的呵責に対処するプロになります。この良心の呵責も、思春期を過ぎた真面目人間の多くには、一時の話です。この真面目人間も、後には良心の呵責から抜け出すか、良心の呵責で自分を失ってしまうか、良心の呵責と無の境地の間にある学問か芸術をみつけるか、のどれかになるものです。

 

 

 

 良心の呵責があれば、落ち着きませんね。でも、良心の呵責がなくなった個人と、良心の呵責がなくなった社会って、どんな人、どんな社会なんでしょうか?

 良心の呵責なき人間は、もはや人間の顔をしたケダモノだと私は考えます。またその社会は、いかに悲惨で、いかに息苦しく、人間が住むにはあまりにも苛酷なものか、今のニッポンのウソとゴマカシだらけを見たら、分かるはずです。

 

 良心の呵責なき世界とは、文字通り、普通の生活のようで、その実、地獄の日々です。

 

 

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死よりも辛い!

2016-03-13 07:54:52 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
信頼の中身が物を言う
  ルターは悪魔が大好きだった、なんてね。 Young Man Luther 『青年ルター』のp187のブランクのすぐ上、引用部から。 &n...
 

 

年寄りは、社会の悪化の影響をもろに受けやすい。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の、p.112の、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

このキツイ時期の終わりにさしかかって、ちょっと引っ込んでいたい気分になるかもしれませんし、それまで属していた家族や会社を失ったり、必要とされる生き甲斐をなくした経験にだけ浸っていたい気分かもしれませんね。80、90になって、周りの忙しく立ち回る人達に、思いがけず、求められる変化に、素早く対応するだけの力も、能力も、なくなってきます。generativity ジェネラティヴィティ《異性や次世代や立場の違う人や物事と、対話とやり取りをしながら、育むこと》 は、能動的な人が、ひとりびとり、自分の人生の中心にしてきたものですが、年寄りにはもはや、必ずしも期待されません。このおかげで、年寄りは、世話焼きをしないでも済むようにますます。しかしながら、当てにされないことは、役立たずの汚名を着せられた感じがあるかもしれません。やり甲斐のあることがなければ、 stagnation スタグネイション 《異性や次世代や立場が違う人や物事と対話が出来ず、支配したり、ホッタラカシにしたりする》  感じに苛まれても、仕方ありません。もちろん、この機会を、ちょうどいいお休み、と悦ぶ人もおられることでしょう。でもね、 generativity ジェネラティヴィティ《異性や次世代や立場の違う人や物事と、対話とやり取りをしながら、育むこと》 もなければ、創造性もないし、他の人を世話することもなければ、他者を気遣うこともなければ、それは、死よりも辛いことでしょうね。

 

 

 

 

 

かくして、年寄りになれば、力はなくなりますし、素早く対応することも難しくなりますでしょ。やり甲斐に感じていた仕事や会社や家族からも、離れる方が普通ですね。

このときこそ、試されているのが、幼い頃の《私》と、不思議を感じる心、センス・オブ・ワンダーなんですね!

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イメージの中にこそ、自分らしさはある

2016-03-13 02:22:44 | アイデンティティの根源

 

 

 
いのちの不思議 改訂版
  星や虫や鳥の名を知らずとも、自然を “感じる” ことができますし、自然を “感じる” ことが何よりも大事なんで...
 

 書くことで、自分が無心に欠ける場合がありますね。それはもう自分が書いているようで、自分を超えた何者かに書かされている感じになる場合があります。それは一種のトランス状態で、深い内省に通じます。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第14章 Languare : Miracle and Tyranny「言葉 :奇跡も残虐も(、もたらすもの)」p.240の、ブランク後の、第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 自由に書くこと(フリー・ライティング)と呼ばれることをする場合、自分の連想の流れに入るための、自分専用のロールシャッハテストとして、何でも使えますよね。単純に、最初に心に浮かんだことを書いていくのです。目の前にある物を見て、途中で止めたり、読み直したり、訂正したりせずに、見続けるんですね。カウターの上の木のスプーンが、おばあちゃんと一緒にトマトソースを作った思い出の引き金になるかもしれません。あるいは、子どものころに打たれたことを思い出すかもしれません。代々受け継がれている急須を見れば、当て所なく、亡くなった大事な家族のことまで思い出すことになるやもしれませんし、愛憎相見える家族のお休みのことを考えてしまうのかもしれませんでしょ。イメージがすぐに立ち現れるや、記憶が蘇って、それが言葉になります。何でも紙の上に示されたことは、あなたならではの思いを、ハッキリと示すことになる訳です。

 

 

 

 

 

面白いですね。思いのまま、気の向くままに書いていく。フリーライティング。連想が連想を呼びます。横道好き、脱線好きの私のブログも、このフリーライティングですね。私に示された使信を皆さまにお伝えしますと共に、自己確認をしていることになる訳ですよね。

 

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ウソとゴマカシのビョーキ

2016-03-13 01:18:22 | ブルース・ペリー教授の『犬』

 

 

 
内村鑑三と教育
  内村鑑三。1861年、江戸時代末期に、東京小石川で生まれ、1930年、東京は柏木、今の地番で言えば、新宿北新宿一丁目で亡くなっています。70才でした(詳しくは...
 

 

 代理によるミュンヒハウゼン症候群(MBPS)も、ウソとゴマカシから。

 ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog より、p.211、下あたりから。

 

 

 

 

 

 代理によるミュンヒハウゼン症候群の人たちが対処できないのは、子どもが成長することですし、それに伴って、次第に親に頼らなくなることと、次第に独立していくことなんですね。患者さんがこの問題を解決するのに、もっと幼い子どもや、もっと病気の重い子どもを産むか、養子にもらうかするのですね。しかし、マーレの場合、ジェームズに病気になっていてほしいニーズがあったみたいです。しかも、ジェームズは、反抗的で、逃げ出すしまつで、マーレが期待していたような医療従事者からの注目も支持も手に入れられませんでしたから、マーレにとっては脅威になってたんですね。幼い子どもが死んだ母親は、同情の恰好の的ですし、ジェームズの行動は、マーレの本性を暴き、他の子ども等の監禁が出来なくなることになるかもしれないので、マーレの生活は、ますます、危険にされされてたんですね。

 

 

 

 

 

 ジェームスがいかに、勇気があり、聡明だったかが分かります。それとは対照的に、マーレが、いかに、ウソとゴマカシにまみれ、手段を択ばなかったかもわかります。

 ウソとゴマカシのビョーキの恐ろしさ、無意識の暴力の恐ろしさ とは、このことですね。

 

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