突き抜けた悦びって、どうしたら伝えることが出来るのかしら?
今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.261の、長~い引用部分の後、第2パラグラフから。
自分を確かにさせる青年期の危機と、まとめる力をもつ大人の危機を結び付けると、ひとりびとりが自分を確かにされるという宗教的人間の課題が、いまここに生きていることを確かにさせるという課題と同じになります。この課題は、ある程度は、青年期の後半の時期によくある未熟さを強調することにすぎません。宗教的指導者は、良心的呵責に対処するプロになります。この良心の呵責も、思春期を過ぎた真面目人間の多くには、一時の話です。この真面目人間も、後には良心の呵責から抜け出すか、良心の呵責で自分を失ってしまうか、良心の呵責と無の境地の間にある学問か芸術をみつけるか、のどれかになるものです。
良心の呵責があれば、落ち着きませんね。でも、良心の呵責がなくなった個人と、良心の呵責がなくなった社会って、どんな人、どんな社会なんでしょうか?
良心の呵責なき人間は、もはや人間の顔をしたケダモノだと私は考えます。またその社会は、いかに悲惨で、いかに息苦しく、人間が住むにはあまりにも苛酷なものか、今のニッポンのウソとゴマカシだらけを見たら、分かるはずです。
良心の呵責なき世界とは、文字通り、普通の生活のようで、その実、地獄の日々です。