広島の中学3年生が、自殺したというニュースが盛んに流れます。「またか」と思います。「自殺がまたか」じゃぁないですからね。「学校の〇〇がまたかぁ」と思う訳ですね。〇〇に何が入ると思いますか? ニュースをあなたも耳にしましたでしょ。まだな方は、次をどうぞ。
1)http://www.asahi.com/articles/ASJ383R87J38PTIL005.html
2)http://mainichi.jp/articles/20160309/k00/00m/040/135000c
2)の毎日新聞の記事は、一歩踏み込んだ記事で、教員の関わり方が、子どもの死を招く「指導死」が繰り返されている事実を伝えています。
しかし、私は、それだけではない、と考えている訳ですね。大川小学校で70名以上の子ども等が殺された事件がありましたでしょ。この大川小学校事件と、今回の広島の中学3年生自殺事件も、同じ病気が出たな、と感じます。ですから、さっきの「〇〇」は「病気」です。
今の教員は、とにかく忙しい。いろんな縛りもあります。カリキュラムという縛り、管理職からの眼という縛り、今の子どもの対応の仕方が分からない縛り…です。忙しいので、一番大事にしなければならない筈のユーザーの子どもの気持ちが、どうしても後回しになりがちです。とくに、あまり気持ちを出さない抑制タイプの子どもたち、抑制タイプの愛着障害の子どもたちの気持ちは、ほとんど考慮されないくらいです。
教員と子どもの関係は、従って、「指導」中心です。教科の指導、ルールなどの指導、「指導」中心の関わりになります。この「指導」と言う言葉は、もともとガイダンス 道案内 ガイドから来ていることを忘れてしまってんですね。旅行ガイドを見て、それに強制を感じませんでしょ。本来ガイドには、強制はないわけです。しかし、学校の「指導」には、「上下関係」「強制」が、深く結びついています。なぜなら、その教員らは、「人間を上下2つに分けるウソ」の猛毒にやられてしまっている場合が多いからです。管理職や時の政府から言われていることに対して、「NO」が言えない、無責任体制ができやすい。これが病気です。
大川小学校に津波が来る前に、「『山に逃げよう』と6年生らが言った」と、数少ない生き残りの5年生が証言しています。しかし、急な山を、子ども等に登らせて怪我をさせるかもしれないことを恐れた誰かが、その意見を否定したはずですね。その否定に対して、子どもの意見を尊重しようとした教員がいなかった…。
今回の広島の中学3年生自殺事件でも、担任が5回も子どもと話をしていたというのに、子どもの気持ちや子どもが知っている事実を聴きだすことが出来ませんでしたね。それは、「指導」に馴らされた教員と、子どもとの関係が「上下関係」、ワンウェイ・トリップ「一方通行」になっている証拠です。
いずれにしても、やり取り関係にならずに、「上下関係」が支配的なところ、子どもの心の声を≪聴く耳≫のない教員が多数派・支配層になっていることが、今の学校の病理であり、その根源には、エリクソンが教えてくれているように「人間を上下2つに分けるウソ」が厳然と、無意識裡に働いている、ということです。しかも、これがレアケースかといえば、むしろ、「上下関係」・「一方通行」が多数派だと言うところが、今の学校の病理の深さを示してんですね。
ついでながら申し上げれば、≪聴く耳≫のある教員が少数ながら、存在しますが、それ人たちは、周囲から、なかなか理解されずに、サイコセラピストに相談するケースが、結構ありますよ。その場合は、私は「あなたがしていることが、子どものポテンシャルを引き出すという意味の本物の教育です」といつも申し上げています。子どもの心の声に≪聴く耳≫のない教育など、決して存在するはずもないからですね。