エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

インターメッツォ : #バルメン宣言から学ぶ #お楽しみに!

2016-05-14 10:14:00 | 聖書の言葉から

 

 

 
キリストのまこと 「ガラテヤ書」から考えました 改訂版
  今日は、「キリストのまこと」について考えます。意外にこのテーマでブログを書いてなかったんですね。不覚でした。 昨日、当ブログの正しい翻訳が、正しい信頼、正...
 

 今朝は、#バルメン宣言、および、東北大学名誉教授 #宮田光雄先生から学びます(バルメン宣言の政治学)。ヒットラーとナチスに対して、命がけのレジスタンスをした、ドイツ告白教会の霊的支柱(精神的支柱)であり、ドイツでは敗戦後、多くのキリスト者の霊的指針であり続けているものです。20世紀最大の神学者と言われる、自分では「#神の愉快なパルティザン」と呼んだ、カール・バルトが起草したものです。「神の愉快なパルティザン」の一人を目指す私のとっても、この世を生きる指針です。

 ちょっと長めですが、非常に役立つと思いますよ。

 

 

 

 

 

 私たちは、現在、お互いに日々の生活の中で、世の成り行きに漠然とした不安を覚えて生きています。しかし、1人びとりは、孤立した私的空間におけるヴァーチャルな映像世界に分断されたまま、顔を持たない匿名(アノニマス)の支配者による《全体主義》に身を任せて、現実の成り行きに押し流されているだけです。

 この背後には、グローバルな市場世界の大きな影があり、その下に生産効率と高利潤を追求して止まない大企業の論理が立っていることは確実です。これこそバルメン宣言第二テーゼに言う「この世の神なき束縛」であり、それが、まさに現代管理社会の状況における私たちの間に拡がるアパシー(=無関心)やアノミー(=規範喪失)を生み出している元凶です。

 してみれば、私たち一人びとりが、かけがえのない個として生きる意味を再発見し、人間らしく生きていくためには、バルメン宣言の言う「神の唯一の御言葉」、すなわち、キリストの「福音」に立ち返るほかないのではないでしょうか。日常的な言葉で言い直せば、《生きる意味》は、1人びとりが人間らしく生きうる新しい豊かさを、身の回りから実感できるようになることから生まれます

 

 

 

 

 

 アパシー(=無関心)やアノミー(=規範喪失)って、「難しい」って思う人がいるかもしれませんね。アノミーは、政治家や金持ち、大企業など、有利な立場の人が、「バレなきゃいいや」とばかりに、ウソとゴマカシ(いろんな「偽装」)によって、「チャッカリ得している(もうけている)」ということです。アパシーとは、自分の頭で考えることを諦めて、「どうせ、(声を上げても、or 投票しても、or 行動を起こしても…)ダメだぁ」と諦めていることです。

 ですから、現代人の多くは《生きる意味》を見失って、目先の利益を確保するために、自分を押し殺しながら、生きている訳ですね。ヴァン・デ・コークが、「文化として、私どもは、本当に感じていることから、自分をきり離すように、仕込まれています」と言っていることと同じです。

 逆に、《生きる意味》は、宮田光雄先生がおっしゃるように、「身の回りから得る実感」が大事ですね。感じる力、感性、あるいは、直感です。それは、日々の内省とやり取りの中で、徐々にではあっても、研ぎ澄まされていくものです。そして、その感じる力、感性、あるいは、直感は、エリクソンが繰り返し繰り返し、教えて下さるみたいに、叡智になる訳ですね。

 すると、ウソとゴマカシを嗅ぎ分ける倫理的直感と、そのウソとゴマカシを明らかにして、真実をはっきりさせる倫理的行動力が、不思議に豊かにされるものですよね。

 お楽しみに!

 

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演劇=ティク・ナット・ハーンさんのマインドアルネス=カール・ロジャースの自己一致  改訂版

2016-05-14 07:40:13 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
高い高い、性のエートス
  女が弱みにつけ込まれるのは、文化状況の故ですね。その際には、女は男に頼らざるを得ない社会状況が背景をなします。 The life cycle cpmple...
 

 

 The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.337の、第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 それぞれのプログラムの違いに関わらず、こういった延元トラウマ療法のプログラムは、共通する土台があります。すなわち、人生の辛い現実に向き合い、ひとりびとりが分かち合う集団行動を通して、象徴的に脱皮することです。愛憎、攻撃と撤退、屈従と裏切りが、恐怖の元であり、トラウマの元なんですね。文化として、私どもは、本当に感じていることから、自分をきり離すように、仕込まれています。ティナ・パーカー、すなわち、「シェークスピアと仲間たち」の創立者の言葉で申し上げれば、「役者たちを鍛えることは、この自分の気持ちを避ける傾向に反逆するように人を鍛える、ということも含んでいます。単に、深い気持ちを感じろ、というのではなく、その場その場で感じている気持ちを、見に来た人たちに、手ずから届けるからこそ、見に来た人も、その場その場で感じている気持ちを感じることができる、というように鍛える訳ですね。その場その場の気持ちに逆らって、気持ちに蓋をすることじゃぁ、ありません。」

  

 

 

 

 素晴らしいですね。この件は、ティク・ナット・ハーンさんが、マインドフルネスを説いている件のようです。演劇は、禅にも通じる境地ですね。あるいは、カール・ロジャースにも通じるものじゃぁ、ないかしらね。

 味噌は、その場で感じている気持ちをまず、自分が感じていることを、意識することでしょう。すると、それが見ている人達にも、伝わっていくのだと思います。

 いまニッポンの学校や児童施設の多くでやっているような、大人が子どもをコントロールして、子どもが、その場その場の気持ちに逆らって、気持ちに蓋をさせるようじゃぁ、セラピーに逆行し、虐待になっちゃいますね

 演劇=ティク・ナット・ハーンさんのマインドフルネス=カール・ロジャースの自己一致なんでしょうね。

 

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本当の自分を待つこと、言葉にならない気持ちを大事にすること、≪約束≫に基づいて一貫した関わりに

2016-05-14 00:49:08 | ブルース・ペリー教授の『犬』

 

 

 

 
高い高い、性のエートス
  女が弱みにつけ込まれるのは、文化状況の故ですね。その際には、女は男に頼らざるを得ない社会状況が背景をなします。 The life cycle cpmple...
 

 

 発達トラウマ障害=愛着障害の子どもに、罰とエサ与えるような関わりは、虐待です。 

 ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog の第11章、「癒しのやり取り」のp.244の、第3パラグラフのから。

 

 

 

 

 

 心理的課題のある子ども達には、痛みがありますね。しかも、その痛みは、人をイライラさせたり、不安にさせたり、攻撃的にされたりする痛みです本当の自分が出てくるのを待つこと、言葉に出来ない気持ちを大事にすること、≪約束≫に基づいて一貫した関わりをすることだけが、心理的課題のある子どもに、効果があります。これは、3歳、4歳の子どもに当てはまることですが、それは、これが、10代の子どもにも当てはなるのと同じです。子どもが一つ一つ年を重ねるからと言って、罰を与えるような関わりが、芳しく、効く、というわけじゃぁ、ありませんからね。またまた、残念なことですが、社会の仕組みが、このことをよく分かっていないんですね。社会の仕組みは、「その場しのぎの弥縫策」をいろいろやりがちですし、その弥縫策がうまくいかない時は、いつまでも罰を与えるやりかたをしがちです。私どもに必要なプログラムとサービス資源は、罰を与えたり、何かを取り上げたり、強制したりする関わりは、心理的課題のある子ども達のトラウマの傷に塩を塗り込む所業であり、心理的課題をますますひどくさせるだけだ、ということを理解したプログラムであり、サービス資源なのですね。

 

 

 

 

 ニッポンの学校や児童自立支援施設などで、発達トラウマ障害≒愛着障害の子どもにやっていることの、ほぼすべては、ここでブルース・ペリー教授が、「悪い例」として取り上げている、罰とエサのやり方、あるいは、一時しのぎの弥縫策です。ですから、学校や児童施設は、税金を使って、発達トラウマ障害の子どもたちをさらに虐待しているのが、悲しいかな、今のニッポンの現状なんですね。特に悪い良心の大人は、この罰とエサ、その場しのぎの弥縫策に加えて、「その怒鳴り声を聴いたら、ションベン漏らすなぁ」というような怒鳴り声がプラスされます。その悪い良心の大人も、発達トラウマ障害の大人ですから、激しい怒りを隠しきれないで、ションベンちびりそうになる様な「激しい怒りがこもった怒鳴り声」を、あの夫婦のように上げる訳ですね。

 いま必要なのは、これを、本当の自分が出てくるのを待つこと、言葉にならない気持ちを大事にすること、≪約束≫に基づいて一貫した関わりに転換することです。

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苦しい言い訳 結局バレマッセ

2016-05-14 00:12:29 | エリクソンの発達臨床心理

 
キリストのまこと 「ガラテヤ書」から考えました 改訂版
  今日は、「キリストのまこと」について考えます。意外にこのテーマでブログを書いてなかったんですね。不覚でした。 昨日、当ブログの正しい翻訳が、正しい信頼、正...
 


 東京都知事、舛添要一さんの記者会見。見苦しいものでしたね

 舛添びいきでも、言い訳に次ぐ言い訳の山に、愛想が付くものだったろうと思います。ウソとゴマカシを感じた人が圧倒的多数だろうと思います。実際、上の写真の舛添さん、苦しそうですもんね。ウソと分かつて、つくウソですから、意識ではコントロール出来ないレベルで、「私はウソつきです」という "顔" になってますもんね。目が悲しそうでさえありますね。一度ウソをやったら、ウソをつきつづけなくてはならない。でも、現実ではない話ですから、どこかでツジツマが合わなくなりますね。ばれるのも時間の問題です。

 なぜ、舛添さんのことを取り上げたかと言ったら、それは、無知無恥夫婦の一件で、舛添さん同様の苦しい言い訳を聞く羽目になったからですね。その方は、あの無知無恥夫婦とは違って、良識的な人だとは感じます。しかし、真実よりも他に、庇わなくてはならないものがあるのだろうと想像します。話し合いの中で、思わず、言い間違いをしてましたしね。フロイトが無意識の言い間違えについて触れているところが、どこかにありましたよね。それを思い出します。真実を語りたい気持ちが、「いい間違い」という形で出ましたね。ホンネがポロリ、という、あれです

 舛添要一さんのケースにしても、無知無夫婦のケースでも、ウソとゴマカシをいくら重ねても、結局バレマッセ。その時が楽しみです

 

 

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