エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ダメなことをしがちな、発達トラウマ障害≒愛着障害の子ども達

2016-05-24 06:57:06 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
丸山眞男教授を読んで、私も「からだ中がジーンと熱くなった」
  丸山眞男教授。会ったこともありません。ただ、今でこそ、臨床心理の仕事をしてますが、学部時代の専門は、政治思想史、藤原保信教授のゼミで学んでいました。姜尚中さん...
 

 

 

 「発達トラウマ障害≒愛着障害」と診断・アセスメントすることの大事さを、改めて考えていただけたらいいですね。

 今朝も、今から7年前、311(2011)を遡って2年前、ヴァン・デ・コーク教授が、2009年に出した、発達トラウマ障害(DTD : defelopmental trauma disorder)をDSM-にハッキリと入れてね、という提案書(http://www.traumacenter.org/announcements/DTD_papers_Oct_09.pdf) の45目。

 今朝は、妥当性と信頼性の章の16日目。

 

 

 

 

 

(c)発達トラウマ障害の診断基準の、行動をコントロール出来ないことは、PTSDの回避の症状や過覚醒(怒り、過覚醒、集中できない)症状と一致する問題が含まれるが、自傷、攻撃性、危険な行為や禁止事項をすること、自分を落ち着かせること、PTSDには特定できない、間違ったことを目的とする行動に伴う課題に着目する

 

 

 

 

 

 この(c)の「行動をコントロール出来ないこと」では、攻撃性や、危険な行為と禁止事項をやることが、私の臨床では、多い感じですね。

 そんな子どもがクラスに数人いたら、一斉授業のニッポンの学校の教室は、もお、授業になりませんね。

 

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恥の鎧の外し方

2016-05-24 02:53:20 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

花札ではありませんよ。

                                                        

 
許されてビックリ
  「詩編」第31篇2節の聖句を授業で講義しようとした時に、マルティンは、宗教改革者マルティン・ルターになったのであって、「95箇条の論題」と呼ばれるものを出した...
 

 

  発達トラウマ障害≒愛着障害の子ども達が、金子みすゞさんの詩のように、人が鏡になることを意識することが、そのセラピーでとても大事になります。なぜなら、意識的に鏡になることは、相手を信頼していることの表現になるからです。

 The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.339の、第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 トラウマを負わされている子ども達と退役軍人たちは、見られたり、自分が感じていることに触れられたりすると、恥ずかしく感じますから、お互いに1m程度の距離を取ろうとします。どの舞台演出家の仕事も、セラピストの仕事みたいに、物事をゆっくり進めて、役者が、自分自身と、自分自身の身体と関わる関わり方を確かにしようとします。演劇は、あらゆる感情と、隅から隅までの感覚とに繋がる、独特の方法ですから、トラウマを負わされた子ども達は兵隊さんたちが、今まで身に着いた「形」の身体との関わり方で関わることばかりではなくて、今までとは異なる、人生との関わり方を試してみることにもなります。

 

 

 

 

 

 演劇も総合芸術なのでしょう。迫真の演技は、現実生活では忘れがちな、あらゆる人間らしい感情や、様々な感覚を、追体験することを可能にしてくれます

 音楽座のミュージカルを始めてみた時、あるいは、こまつ座の舞台を見た時の、言葉では言い表すことができない感じ、悦び、悲しみ・・・、を味わえた悦び

 トラウマで、内的なことを隠し立てしたい恥が強まっているところに、その恥の鎧が幾重にも重ね着した心を、演劇は解きほどいてくれるはずですね

 

 

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理解に徹する態度

2016-05-24 02:38:44 | ブルース・ペリー教授の『犬』

 

 

 
まるで光でしょ
  赤ちゃんであおむけにされている時には、あ母さんの世話に頼りっぱなしだったけれども、自分の足で立ち、まっすぐに立つことを確かにするときには、子どもは自由で独立し...
 


 

 発達トラウマ障害=愛着障害の子ども達。家族を、組織を、社会を民主化して、人を大事にするものにすることが必要不可欠です

 今日から、ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog の第6章、本のタイトルにもなっている「犬として育てられた少年」のp.125の第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 

 私がジャスティンに会ったのは、1995年、ジャスティンが6歳の時でした。ジャスティンは、小児集中治療室(PICU)に入れられていました。私は、PICUのスタッフに呼ばれて、ブードゥー教のおまじないみたいにどんな方法を用いても、ジャスティンがそのスタッフに、オシッコやウンチを投げつけるのを止めさせてほしい、ということでした。PICUは、いつでも満床で、典型的に、年中無休の忙しさでした。看護士、精神科医、助手、家族で、その病室はごった返していました。医療機器、電話からの音や会話で、病室はいつでも、ゴチャゴチャした音で満ちていました。灯りがいつも点いていて、人々はいつでも動き回りっていました。もっとも、ひとりびとりは、目的があって動いていたのでしたし、どの会話も1つの話題を巡るものでしたが、全てが重なって、ごちゃごちゃしていたのでした。

 

 

 

 

 ジャスティンは、小学校に上がるか上がらないかの年回りの、発達トラウマ障害≒愛着障害です大小便を病院のスタッフに投げつけて、止めない、という、一番厄介な行動をしていたといいますね。

 こういう子どもを前にすると、「頭が変だから」、こういうバカができる、と考える人もいます。

 逆に、この子どもは、糞尿を投げなければいられないほどの辛い経験をしてきたはずだから、その辛い体験がどんなものかを、探りながら、できれば、それを理解しようとして、関わる人もいますね。

 ブルース・ペリー教授は、本書の中で繰り返し述べている通り、後者の、理解に徹する心の姿勢で貫徹している、本物の臨床家な訳ですね。 

 

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インターメッツォ : 神の約束と全き信頼

2016-05-24 02:08:14 | 聖書の言葉から

 

 

 
丸山眞男教授を読んで、私も「からだ中がジーンと熱くなった」
  丸山眞男教授。会ったこともありません。ただ、今でこそ、臨床心理の仕事をしてますが、学部時代の専門は、政治思想史、藤原保信教授のゼミで学んでいました。姜尚中さん...
 

 今日も女性の言葉から。マザーテレサの言葉です。マザーテレサは、施設経営者であると同時に、施設のスタッフですね。どんなお気持ちで、「仕事」をしていたのかを、この言葉は良く物語ってくれていると感じます(『祈り ―信頼の源へ―』ブラザー・ロジェとの共著から)。

 

 

 

 

 

 わたくしたちの修道会では、食べ物がないからとか ベッドが足りないから と言って、だれかを拒絶したことは一日たりともありません。それでも、数千人の人びとと向き合っています。わたしたちのところには 五万三千人のハンセン病患者がいますが、だれ一人として追い出された人はいません。わたくたちには月給も収入もありません。何もないのです。自由にいただき、自由に差し出すのです。これは実にすばらしい神の贈り物です。

 神の摂理への信頼は、神が私たちを必ず助けて下さるという、強い生き生きとした信頼です。神がわたくしたちを助けることがおできになるというのは確かです。神は全能だからです。そして、実際に助けてくださるということも確かです。聖書のたくさんのことばの中に、神はそう約束なさっているからです。神は限りなく約束に忠実なお方です。

 

 

 

 

 

 

 確信に満ちた言葉ですね。

 日本の施設でしたら、定員か決まっていますから、定員以上の人を迎え入れたら、法令に違反することになります。日本の施設でしたら、一部上場企業の三分の一にも満ちませんが、月給も出ます。型通りの仕事をすることが、ある意味大事です。

 マザーテレサには型がありません。自由ですね。「型」を習得してから、その「型」を自分流の形にした訳でもなさそうですね。

 神様からプレゼントしてもらったものを、それはプレゼントであり、自分の努力で獲得したものではないから、自由に、惜しむことなく、他の人にプレゼントできる

 たとえ母親が見捨てることがあっても、神様は決して見捨てることができない。単純な信頼です。子どものような信頼です。神様が約束に忠実なことを信頼する。ギリシア語では、この≪忠実≫と≪信頼≫はいずれも、πίστις ビスティスです。つまり、「約束に忠実」「相手との関係に忠実」=「信頼」ということです。

 

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