エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

発達トラウマ障害の子ども達=拷問死 >> 毎日1人、子どもが虐待によって殺されているのが、ニッポンだ

2016-05-07 12:04:53 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
アメリカに行って気付いた、日本の「あれっ?」
  私が初めてアメリカに行ったのは、もう25年前、ニューヨークとニュージャージーが最初でした。当時は、知的障害のある子どもの施設で働いていましたから、アメリカでや...
 

 子どもの日の「視点・論点」で、山梨県立大学の西澤哲さんが、子ども虐待と児童福祉法の部分的改正について、報告してくれました。その中で、厚生労働省は、虐待死は50名位、一週間に一人ぐらいの割合で、子どもが虐待によって殺されていると言っているけれども、これは過小評価かもしれない、と指摘していました。日本小児学会などの調査に基づくと、全国で、その5倍、350人ほど、毎日1人、子どもが虐待によって殺されているのが、ニッポンだ、ということを明らかにしてくれました。私の肌感覚では、毎日1人の子どもが虐待によって殺されている、というのでも、過小評価ではないか、と感じます。

 発達トラウマ障害の子ども達は、直接、短時間で、殺されなくても、殺されている、と私は考えるからです。虐待とネグレクトは、人間が生きていくうえで、最も根源的な信頼、エリクソンの言葉で言えば、根源的信頼感が著しく傷つけられ、どんなセラピーをしても、回復はほとんど不可能、と思えるくらいの、眼には見えない傷を負うのです。ですから、発達トラウマ障害の子ども達は、時間を掛けてじっくり殺されている、ということが真実に近い、と私は考えます。すぐに殺すやり方よりも、十字架刑のように、あるいは、指を1つずつ、切っていき、しかも、それをインターバルを置いてやる殺し方の方が、遥かに残虐なのに似ています。

 実際、ヴァン・デ・コーク教授らの臨床研究によれば、発達トラウマ障害の人は、寿命が20年も短い、と言われます。

 そんなことも知らないで、最も重度の発達トラウマ障害の子どものセラピーに横やりを入れ、その保護者やセラピストを恫喝することが、いかに犯罪か! 泥棒、公金横領、収賄と同等か、それ以上の立派な犯罪を構成している、とキッパリ言っときましょう

 

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希望と勇気の身に着け方

2016-05-07 11:31:23 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 

 
苦しみの果てに、人の役に立つ恵みがある
  ルターは、慈しみ深い母親のような気持で説教をしていたのでした。 Young Man Luther 『青年ルター』p198の第2パラグラフ9行目途中から。...
 


 

 セラピーは、神様、仏さまのためになされるもの、個人や組織を超える存在のためになされるもの、だからして、はじめて、眼の前の人の為になるもの

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第20章 Finding your voice : communal rhyhtms and theater「自ふんの声を見つけてね:共通のリズムと劇場」p.335の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 音楽は、アメリカの市民権(市民の正義)運動の屋台骨でしたね。当時の人でしたら、デモ行進、繋がった腕と腕、「ウィー・シャル・オーバーカム(必ず勝ちまっせ)」を歌ったことを忘れられないでしょう。その時には、デモを阻止するために、徒党を組んだお巡りさんたちに向って、デモ隊は決然と歩いたものでしたね。音楽が人々を結びつけるのですが、音楽によって結びついた人々は、ひとりびとりは、怯えていたのかもしれませんが、集団としては、自分たち自身のためにも、他の人たちのためにも、強烈にモノ言う者になりますよね。話し言葉、ダンス、マーチ、歌とじっくりと向き合うことは、希望と勇気という感じを心に刻み込む、人間らしいやり方なのです。

 

 

 

 

 

 

 このような文書を読むと、ヴァン・デ・コーク教授は、単なる学者、単なる臨床家を超えていることがハッキリ分かりますでしょ。ブルース・ペリー教授も同様ですね。思想家の領域にある感じです。加藤周一さん程の思想家かは、まだ未知数ですが、同じオリエンテーションを感じますからね。

 日本の大学の「学者」の中には、例の無知無恥の「専門家」もいますしね。雲泥の差がありますね。狭い「専門」の中のごくごく一部、丸山眞男教授の言葉で言えば、タコツボの中の一部を少しやったくらいで、エベレストにでも登ったような顔をしてますからね。三流以下なんですね。

 話し言葉、ダンス、マーチ、歌と向き合うことが希望と勇気を身に着ける人間らしいやり方だとヴァン・デ・コーク教授は言いますけれども、これを人と共にやったら、それは、つい先日、ヴァン・デ・コーク教授自らご指摘の、あらゆる宗教の礼拝になりますよね。つまり、礼拝は、希望と勇気を身に着ける人間らしいやり方なんですね。

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イジメは学校文化の問題

2016-05-07 04:55:41 | 聖書の言葉から

 

 

 
アメリカに行って気付いた、日本の「あれっ?」
  私が初めてアメリカに行ったのは、もう25年前、ニューヨークとニュージャージーが最初でした。当時は、知的障害のある子どもの施設で働いていましたから、アメリカでや...
 

 

 人間のメンタルヘルスと社会連帯に欠かせないものが、協力し、共感し、自分が損をしても、他を助ける訓練です。

 ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog の第11章、「癒しのやり取り」のp.242の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 バラバラな地域社会と仮借ないほど競争ばかりに目を向けて来たことから直接生じてくる、と私は信じているのですが、トラウマになるようないろんな出来事があった後で、メンタルヘルスを向上させてほしい、と頼まれることがよくあります。トラウマになる出来事の中で、一番悲惨なのは、学校での銃乱射事件です。私が何度もこのような事件に気付くのは、勝者が全てを分捕る、学校文化です。そこは、イジメが至る所にあるだけではなくて、イジメがあってもしょうがないとされる場であると同時に、「負けた者たち」は理解と支援が必要な人とは考えられずに、仲間はずれ、のけ者にするのが当たり前と考えられてしまう場です。

 

 

 

 

 

 ブルース・ペリー教授も手厳しいですね。私も学校に対して厳しいと思ってきましたが、ブルース・ペリー教授の方がはるかに手厳しい。

 私は経済的、労働政策の貧困としてしか、トラウマになる出来事を見てきませんでしたが、ブルース・ペリー教授は、学校の構造的な問題と診ているところが手厳しく、かつ、深い。イジメの問題も、同様です。学校の構造的な問題です。

 

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インターメッツォ : 人を助けて下さる、神様のひな形

2016-05-07 03:16:53 | 聖書の言葉から

 
物にするやり方は、こうして学びます
  「無理矢理に入る」と「すべてを飲み込む」が3つめの舞台のやり方になります。 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』...
 

 今晩は、天才ジェームズ・ヒルマン James Hillmanから学びます(Insearh 『探求心』から)。

 

 

 

 

 

 神様はどこにでもおられますし、全能でもあられますから、あらゆるところに生きておられます。神様はご自分の息吹で宇宙を満たしてくださいます。じゃぁ、どうやって、創造するのかしらね? 神様がお出ましにならない、すなわち、神様がご自分からしゃしゃり出ることがないのは、そうなったら、この世には隙間、遊びが1つも無くなってしまうからでしょう。もしも、隙間、遊びがあれば、それは、神様が不完全であられること、すなわち、場が空であること、神がおられない場があることだ、ということになっちゃいますでしょ。ですから、神様は、隠れることによって、創造されます神様は神なき世界、他者を創造されるわけですね。それは、自己構築、集中によって可能になります。この指針から、神様の隠れた輝きに関する神秘的な考えがたくさん生まれましたし、また、より際立つこと、隠れること、外の世界から流浪することから、神の創造のお手伝いをする神秘の人にも、同様な神秘な考えがたくさん生じました。人間のレベルで申し上げれば、自分自身を引っ込めることによっと初めて、相手がイキイキ、ピチピチすることを手助けすることが出来る、ということになります。

 

 

 

 素晴らしいですね。ジェームズ・ヒルマンが一廉のサイコセラピストであるばかりではなく、超一流の学者であることがハッキリと分かる所です。以前、空 Tsimtsumで、意訳した部分を、もっと広範囲に、忠実に訳し直してみました。

 これは、1つには傾聴について、論じているところです。ですが、それだけではありません。これは、真実な意味で、祈りと礼拝のことを、明確に示しているのです。

 ですから、人との関わりで、それは、心理面接の場面に限ったことではありませんが、真の意味で傾聴ができた場合は、日常生活の中であっても、ささいなことであっても、一番深い意味で、その傾聴の場は、祈りと礼拝の時空になっている、ということになります。

 祈りと礼拝は、かくして、毎日の暮らしの中に、満ち溢れたものとなる訳ですね。

 不思議でしょ。

 

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