エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

密集型軍事訓練の実力 ただし、今は個人の時代です

2016-05-11 06:51:50 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
根源的信頼感は、ルターに遡る
  聖書を原典(旧約聖書は主としてヘブライ語、新約聖書はギリシャ語)から翻訳し直して、ローマカトリックの間違いと、聖書の真理を発見したルターは、聖書から新たな力を...
 

 

 翻訳力がものを言いました

 The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.336の、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 モーリス王子は、密集型軍事訓練を始めました。それは、太鼓、フルート、トランペットを使って、みすぼらしい軍隊に施したものでした。集団の典礼によって、目的意識と士気を持つことが出来るようになったばかりか、複雑な大演習をすることもできました。密集型軍事訓練は、次第にヨーロッパ中に広まって、いまでは、アメリカ陸軍は、マーチングバンドを自由に使っています。ただし、鼓笛隊は今では戦闘部隊にはいません。

 

 

 

 

 

 マスゲームのように、一糸乱れぬやり方は、何か運動を伴う訓練には向いているのかもしれませんね。密集型軍事訓練は、辞書によれば、一番標準的な軍事訓練になっているとのことです。体育などでも、その名残がまだあるのかもしれませんね。

 でも、運動も、体育からスポーツに変わりつつあるように、個人と、個人の悦びを大事にする時代に変わっています。

 

 


 

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表情がない、怒りが止まらない…

2016-05-11 06:13:22 | 聖書の言葉から

 

 

 
男と女の性役割の習慣に疑問を持つことから、男女の解放が始まる
  性差をどれだけ認めるかで、男も女性も、性役割が変わってきます。 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p38の第...
 

 今晩も、今から7年前、311(2011)を遡って2年前、ヴァン・デ・コーク教授が、2009年に出した、発達トラウマ障害(DTD : defelopmental trauma disorder)をDSM-にハッキリと入れてね、という提案書(http://www.traumacenter.org/announcements/DTD_papers_Oct_09.pdf) の37目。

 今晩は、妥当性と信頼性の章の9日目。

 

 

 

 

 

 認知の仕方、感情の持ち方が、普通じゃぁないこと : 発達トラウマ障害は、特に、認知の仕方や感情の持ち方が普通じゃぁない、ということがあります。ただし、その認知と感情のいろんな症状は、今の神経生理学的な障害や情緒障害とは区別されます(すなわち、ポロック、2003 ; パイン等、2003 ; 2005 ; ライダーとチチェッティ、1999 ; クロマー等、2006 ; アユーブ等、2006 ; アンヤンウ等、2001)。

 

 

 

 

 

 何といっても、発達トラウマ障害の人の認知と感情の課題は、感情のコントロールが出来ないことでしょう。

 抑制タイプですと、感情を表に出しませんし、表情が極端に乏しい。アレキサイミア、感情を言葉にすることもできません。

 脱抑制タイプですと、激しい怒りが爆発したり、恐怖が何が原因か分からないままに、嵩じて、その場に居たたまれなくなったり、パニックになったりします。

 いずれにしても、普通の暮らしをする上で、大きな支障が、ご本人はもちろん、周りの人たちにも出てしまいます

 ついでながら、勉強も遅れます

 

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butな関わり : 「正しいこと」を口で教える前に、その子に素敵な関わりをプレゼントしてあげてね

2016-05-11 02:18:09 | 聖書の言葉から

 

 

 
沖縄と安倍晋三首相の関係はどっち?
   ≪人と人としての繋がり≫と≪ウソの繋がり≫  現代人、特に、平で働く人が、ものづくりをしなくなってしまった...
 

 

 発達トラウマ障害の負わされた愛着障害の子ども達が、家庭で、学校で、保育園や児童養護施設などの児童施設で、間違った対応=虐待をされる典型的なパターンを示してくれてましたでしょ。実際この件を、発達トラウマ障害=愛着障害の子どもがクラスにいる、ある教員(今のニッポンで、クラスに1人の発達トラウマ障害=愛着障害の子どものいないクラスなどありません)に、この件を紹介したら、「あるある」とばかりに、「自分のことを言われているみたい」とのことでしたよ。

 ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog の第11章、「癒しのやり取り」のp.243の、下から7行目途中から。

 

 

 

 

 

(発達トラウマ障害≒愛着障害の子どもに)罰を与えても、親切になったり、気前がよくなったり、人の気持ちが分かったりすることになど、なりませんからね。いろんな枠組みを設ける必要があっても、もしも、私どもが子どもに善くなってほしいと願うのであれば、まず私どもが、子ども達と善い関わりをしなくちゃね。大事にされて育てられた子どもでしたら、自分のまわりの人たちを幸せにしたいと願うものですね。なぜならば、その子は、「自分が幸せだから、人も幸せにできる」、とよく承知しているからです。その子は、罰は嫌だから従っている、という訳じゃぁありませんからね。子どもを肯定する時にできる循環が、子どもを否定する時にできる循環と同じくらい、強力なものですが、このような、子どもを肯定する時にできる循環は、いけない行動をすることは〇〇だからだと最初に了解し、対処することとは相いれない反応から、生まれてくる場合がままありますね。私は心から信じているのですが、もしも、レオンが2歳くらいになって、たとえ、母親からネグレクトをされても、それだけでは、私が会うことになったような、冷徹な人殺し、にはならなかったはずだ、ということです。

 

 

 

 

 

 「ダメだぁ」と言われるようなことをしでかすと、そのようなことをした子どもも「ダメな子」と見なされがちですね。すると「ダメな子として、大人は相手をする」ということになりがちです。それだと、否定的な循環しか生まれません。肯定な循環は、どこかで、but 「それにもかかわらず」が必要です。

 子どもが、「ダメだぁ」と言われるようなことをしでかすとき、but それにもかかわらずその子を「ダメな子」とはせずに、「良い子に違いない」と考える。いや、信頼し続けることです。悪い良心の人にはできない芸当ですね。根源的信頼感が豊かでないと出来ない芸当です。「ダメだぁ」と言われることをするからには、それ相当の辛い思いをしてきたはずだから、その痛みに手当てをするような関わりが出来ないかなぁ、と思いながら、そのような関わりを探しながら、関わることになりますね。すると、その子どもの方でも、すぐにこちらの心の動きが分かりますから、こちらのその心の動きが本物か、ウソとゴマカシのかけらもないか、試す様な「悪いこと」をまたやりますね。大人の私どもが試され続けることになります。「こんな僕(私)でも、信頼し続けることができますか?」。言葉にできる子どもに未だあったことはありませんが、私どもはその問いの前に立たされますね。私どもの真価が、子どもから、あるいは、神様から、問われているのです

 その問いに答え続けることが、サイコセラピストだけではなくて、子どもと関わる大人の責任(答え続けことが出来ること responsivility)なんですね

 

 

 

 

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インターメッツォ : 生命への畏敬という天恵

2016-05-11 00:53:23 | 聖書の言葉から

 

 

 
根源的信頼感は、ルターに遡る
  聖書を原典(旧約聖書は主としてヘブライ語、新約聖書はギリシャ語)から翻訳し直して、ローマカトリックの間違いと、聖書の真理を発見したルターは、聖書から新たな力を...
 

 今晩は、林竹二の言葉に学びたいと思います(『運命としての学校』より)。

 

 

 

 

 

 頼りない子どもたちがすくすくにびてゆくためには、彼らの成長に必要なものへの周囲の配慮が不可欠である。周囲にあたたかい配慮が欠け、恣意的におのれの欲するところを施すのに急であるならば、その結果は、生命の圧殺につながってゆく。生命あるもの、生命への畏敬だけが、教育をこの退廃からすくってくれる

 

 

 

 

 

 教育に携わるすべての人に、じっくり味わってもらいたい至言ですね。

 自分の嫁さんのためには、公の制度も、税金も、自分の意のままになる、などと思い上がった、無知無恥な夫婦は、すでに、最重度の発達トラウマ障害の子どもの生命を圧殺しているのです。もちろん、心の病に病識がないことが多いように、無知無恥のあの夫婦には、その「病識」のかけらもないことでしょう。

 生命への畏敬は、自分と向かい合い、小さな静かな声に耳を傾けた者に与えられる天恵なのでしょう。

 

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