エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

自由の証

2016-05-08 11:48:16 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
子どもはみんな、バイセクシャル
  「ものにする」と言っても、「無理矢理入る」場合と「魅力的になって、相手が来るのを待つ」場合があり、男も女も、その両方をやっていたのです。 The life...
 

 

 私の友人に、大手化学メーカーをリストラされた人がいます。私よりも10歳位先輩です。今は独立の仕事をしています。その友人の名刺の肩書は「自由人」です。その人は、名詞に「自由人」と肩書がなくても、自由だと分かります。

 人の自由の目印とは何でしょうか?

 いろいろあるのかもしれませんね。

 でも、ニッポンの場合の自由の条件を考えてみました。

 ニッポンは、そもそもコンフォーミズム(同調主義)が唯一のイデオロギーと言っていい社会です。最近では、同調圧力が一層キツくなってますでしょ。同じ方向に「赤信号さえ、皆さんご一緒に」という時代です。ですから、自由の証の1つは、「群れない」ということだと考えますね。

 もう1つは、その延長かもしれませんが、パレーシアですね。弱い立場でも、強い立場に、真実をハッキリと伝えること。

 それから、インターメッツォ : 自由って、素晴らしい!でも取り上げたみたいに、自分が得することよりも、連帯を選ぶことでしょうね。加藤周一さんの言葉で言えば、「同志との連帯」>「裏切り」ということですね。お客を騙しても自分に得になることをやりがちな時代ですが、その時代に流されない、群れない、ということにもなりますが、「同志との連帯」「弱い立場の人との連帯」ということかもしれませんね。

 

 

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真実と和解 :トラウマのなった出来事を物語る言葉が見つかるまで

2016-05-08 10:49:15 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
日本を、これだけ「閉塞感」が満ち満ちた国にしてくれた自民党政権
    「多数派になったほうが得」では、なくならない不安  「平等」が操り人形なら、そんな平等はいりま...
 

 話し言葉、ダンス、マーチ、歌とじっくりと向き合うことは、希望と勇気という感じを心に刻み込む、人間らしいやり方みたいですね。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第20章 Finding your voice : communal rhyhtms and theater「自ふんの声を見つけてね:共通のリズムと劇場」p.335の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 動きの間を皆で合わせることに力があると分かったのは、デスモンド・ツツ主教が1996年南アフリカで、「真実と和解委員会」のための公聴会を開催するのを見た時ですね。この公聴会では、歌とダンスをやったんです。証人達は、語り得なかったいろんな残虐行為を物語りました。その残虐行為は証人たちとその家族を苦しめて来たものです。証人達が気持ちが高揚してどうにもならなくなった時、ツツ主教は、その証言を止めて、聴衆に、「祈りましょう」「歌いましょう」「踊りましょう」と呼びかけました。それは、証人達がすすり泣きを収め、崩れ落ちた身体を立て直すまで、続きました。そうすると、その人たちは、怖ろしかったことを再体験することに、行きつ戻りつを繰り返しながら、最期には、自分の身に起こったことを物語る言葉を見つけることが出来ましたツツ主教とこの委員会の他のメンバー達には、猛烈に仕返ししたかったことを押し留める力があった、と私は心から思います仕返ししたい気持ちがなくなることは、虐待や残虐行為の犠牲者たちが最終的に自由になる時には、よくあることです。

 

 

 

 

 

 ここの件もお見事ですね。仕返ししたい気持ちから自由になるって、本当に難しい。犯罪被害者じゃなくても、犯人を許せない、という気持ちを収めることって、難しいでしょ。「重罰にしろ」「刑務所に行け」と言いたくなりますものね。

 ツツ主教たちは、文字通り、真実と和解を実現していたのでしょう。仕返ししたい気持ちを押し留めることができたのですからね。

 ですから、いつでも、真実が大事な訳ですね。ウソとゴマカシと薄ら笑いは、そのとき、一切無くなりますからね。

 

 

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学校でイジメがなくならないのは、教員もイジメをしているからだ!

2016-05-08 08:35:09 | ブルース・ペリー教授の『犬』

 

 

 
ルターが講義をする時
  ルターは自分が苦しんだことを人のために役立てました。 Young Man Luther 『青年ルター』p198の第3パラグラフから。 &...
 

 

 トラウマになる出来事が生じるのは、社会の構造的な問題から

 学校でイジメガ絶えないのも、学校に構造的な問題があるから

 ブルース・ペリー教授の手厳しいご指摘です。

 

 ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog の第11章、「癒しのやり取り」のp.242の第3パラグラフの8行目途中から。

 

 

 

 

 

このような状況では、どん底にいる者には、紛れもない惨めな状態の原因となる、厳格に上下が決まった人間関係を作り、強化してるのは、10代の子ども達だけじゃなくて、教員達も、親達も、校長たちまでも、同様です。もちろん、人間はいつでも、上下関係を作る人種ですし、それは、人間の生態のもう1つの側面ですが、他のすべてを犠牲にしてでも、容赦ない競争を強調するとき、暴力をよしとする文化では、仲間はずれにされた者達が時々起こす暴力沙汰は、驚くほどの事ではありませんね。このような事件は、すべての生徒さんたちが学校に居場所があると感じることが出来るように、私どもが努力しない限り、失くすことはできない、と私は信じています。

 

 

 

 

 クリアーですね。

 学校でイジメがなくならないのは、教員も、親も、校長(教育委員会)も、イジメ集団だからです

 私は快哉を叫びたい気持ちですね。全くの同感だからです。

 大川小学校の教育委員会、広島の府中の教育委員会だけが、どうしようもない組織じゃぁないことが、日本の大きな危機の1つです。学校が、子どもの人権と福祉を守る場ではなくて、東電や三菱自工なみに、子どもや親を騙しても、上司におもね、上司のご機嫌取りをする組織に堕落している場合が非常に多いからですね。私自身多くの学校、多くの教育委員会に関わってきましたが、腐った組織の学校(教育委員会)方が、真面な組織のままでいる学校(教育委員会)よりも絶対多数です。

 

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インターメッツォ : #笑う神 #晴れ晴れと生きる

2016-05-08 06:22:31 | 聖書の言葉から

 

 

 
ルターが講義をする時
  ルターは自分が苦しんだことを人のために役立てました。 Young Man Luther 『青年ルター』p198の第3パラグラフから。 &...
 

  今晩は、ご存知の方は少ないかもしれませんが、当ブログの熱心な読者ならば、ご存知、リチャード・コート Cote, Rechard G. のHoly Marth : a theology of laughter 『聖なる陽気 笑いの神学』から。リチャード・コートは、カトリック司祭です。

 

 

 

 

 笑う神、というシンボルが心にあれば、不必要な思い煩いをしなくて済みます「どうだ、俺様は実力があるだろう」などと、いつもひけらかさなくちゃならない、というような、持ち味が死んでしまう圧力からも自由になれます笑う神、というシンボルのおかげで、私どもは自由になれますし、受け身になることもなく、心から自由で、陽気で楽しく、本物のキリスト者の生き方もできますからね。

 

 

 

 

 

 神様は、エンマ様みたいに、「怒れる神」と誤解している人が少なくありません。そうすると、「ダメと言われちゃいそう…」、などと思い煩いがひどくなりがちです。むかし、米沢興譲教会の、文字通りユーモラスな田中信生先生が、「思い煩いが、一番重い患いだ」と仰って、聴衆を笑わせたことがありましたけれども、まんざら笑い話ではないのではないですか? 思い煩いがある人ほど、人を裁きたくなりますし、露骨には裁きずらいので、人を嘲笑ったり、陰口をしたり、裏から手を回して意地悪して、せせら笑うような真似をのしがちです。あの無知無恥の夫婦みたいにね。コソコソが特色です。

 神様は「笑う神」。「笑う神」は私どもの自由、自由意思をプレゼントしてくれます。先日の西村先生や加藤周一さんが、自由意思を大事にした話を思い出してください。心から自由ですと、陽気で楽しくすることもできますし、そうしたら、人が、子どもが寄ってきますよね。私は、赤ちゃんでも,鳩や犬でも,寄って来る,と思います。触ってこようとしますからね。一歳ぐらいになりますと、その子が持ってるものを渡してくれますもんね。心から自由な人は、陽気で楽しいので、そういう「電波」,「風」,「香り」を出しているのだろうと思いますし、赤ちゃんでも、その「電波」,「風」,「香り」を感じることが出来る訳ですね。その「電波」,「風」,「香り」を換言すれば、decency(品の良さ、良識のある感じ)  the babit of being(生き方の習慣)と言えますね。いずれも、スコラ哲学の流れでしょう。

 すると、その「電波」,「風」,「香り」を出す、あるいは反射する当人も笑顔になりますし、その「電波」,「風」,「香り」をキャッチした人は、赤ちゃんでも、お年寄りでも、また、笑顔になり、生きる希望と勇気を手にすることができます。晴れ晴れが特色になります。

 

 

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