一緒にいると安心
子どもの世界はピカピカ 子どもって、従順で切ない。 、レイチェル・カーソンの『The Sense of Wonder 不思議を感じる感じ』から p53。 &......
「彼は生きている」。『新約聖書』の四つのイエス・キリストの物語の3つ目が「ルカによる福音書」です。その最後、イエス・キリストが「復活」して、洞窟のお墓から出て、女の人たちや弟子たちの前に現れるくだりがあります。第24章13節以下が、その部分です。ちょっと長いのですが、前田護郎先生の翻訳で確認しておきましょうか。
「 エマオへの道
13同じ日に弟子たちのふたりがエマオという村へ歩いていた。それはエルサレムから六十スタデオ離れていた。14彼らはこのすべての出来事を話しあっていた。15話したり論じたりしていると、イエスご自身が近づいていっしょに歩いておられた。16しかし彼らの目がさえぎられて、彼を認めえなかった。17彼はいわれた、「何のことですか、あなた方が歩きながら論じあっているのは」と。彼らは悲しい顔をして立ち止まり、18そのひとりのクレオパというものが答えた、「エルサレムにご滞在なのに、あなただけがこのごろそこでおこったことをご存じないのですか」と。19彼はいわれた、「なんのことですか」と。彼らはいった、「ナザレ人イエスのことです。彼は神とすべての民の前にわざとことばに力ある預言者でしたが、20大祭司や役人たちが引き渡して死刑にし、十字架につけました、21われらは彼こそイスラエルをあがなう方と望みをかけていましたのに。そればかりか、あのことがおこってからきょうでもう三日目です。22それに、仲間の女たちがわれらをおどろかせました。女たちは朝早く墓に行きましたが、23お体が見つからぬまま帰って来て、『彼は生きておられる』という天使の姿を見たと申します。24それで、仲間が何人か墓へ行って見ますと、女たちのいったとおりで、彼は見えませんでした」と。25すると彼はいわれた、「ああ、愚かで心の鈍いものよ、預言者のいったことを何も信じないとは。26キリストはこれらの苦難を受けてから栄光に入るよう定められていたではないか」と。27そして、モーセやすべての預言者からはじめて、ご自身についてのことを聖書全体にわたって彼らに説明された。28めざす村に近づくと、彼はなお先へ行く様子をされたので、29ふたりは無理にお引きとめしていった、「わたしたちのところにお泊まりください。夕暮は近く、日ははや傾きましたから」と。そこで彼らのところに泊まるために家に入られた。30共に食卓について、パンを取って讃美し、裂いて渡されると、31彼らの目が開けて、彼とわかった。すると彼は見えなくなった。32彼らは語りあった、「彼が道でわれらに語って、聖書を説かれたとき、心が燃えたではないか」と。33すぐさま立ちあがって彼らはエルサレムに帰った。すると、十一人とその仲間が集まっていて、34「本当に主は復活してシモンに現われられた」と話しているところであった。35それで彼らも、道であったことやパンをお裂きになって彼とわかったことを物語った。」
イエス・キリストが十字架で処刑され、女たち以外は、ペテロも含めて全ての弟子たちが逃げて、身を隠していました。自分も捕まったり、投獄されたり、あるいは、殺されたり、するのが怖かったんだと思います。想像できますでしょ。
ところが、この箇所の前に、マグダラのマリア他の女性たちが、生き返ったイエスに出逢って、そのことを他の弟子たちにも知らせました。ほとんどの弟子は信じなかったのですが、3回も「イエスのことを知らない」と裏切ったペテロだけは、洞窟の墓に走り寄って、イエスの死体がないことを確認します。
その後の弟子たち、女の人たちの生き方はどうだったでしょうか? 逃げたり、身を隠したり、し続けたのでしょうか?
そうではありませんでしたね。イエス・キリストが、死から蘇ったみたいに、弟子たちも、女たちも、コソコソ、ビクビク、ハラハラした、死んだような状態から、晴れ晴れとしていて、イキイキ、ピチピチした、はじけるようで、しかも、静かでもある生き方に、ガラリと生き方が変わりましたでしょ。
自分が生きた(我を張った)から、元気になったのではないことに注意が必要ですね。
彼(イエス・キリスト)が生きている ζῆν ゼーンから、女性たちも弟子たちも元気になったんですね。
ここに自分を確かにされる要がありますよ。