エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

現世考: なぜ、ニッポンの子どもはゲームばかりするのか?

2017-01-16 08:57:02 | 間奏曲

 

 

 

 
エリクソンの謙虚な物言い
   点検、また、点検 改訂版  吉本隆明さん。倫理について、自覚しているレベルと、自覚できない無意識的なレベルで、善悪が逆転しやすい、ということを指摘......
 

  小学校でサイコセラピーをしてますとね、誕生日プレゼントやお年玉で買いたいものと言ったら、3DSかWiiのゲーム・ソフトと相場が決まっています。男の子でも、女の子でも、だいたいそうですね。

 一見ゲームが流行っている感じがしますでしょ。

 でも、そうじゃないと私は感じてんですね。子どもは赤ちゃんの時から、父親も母親も家にいませんでしょ。爺さん、婆さんに見てもらっている場合もありますけどね。夕ご飯も、そこで食べたりして…。そうすると、テレビか、テレビゲームが、人間の代わりに、子どもの面倒を看ることになります。

 そうすると、なかには、ご飯を食べてるときにも、ゲームをやってる…なんてことになることも珍しくはありません。すると、親や爺さん婆さんは、それを叱ったりしますね。でも、どうでしょうか? 子どもにしたら、誰も相手をしてくれないから、やむを得ずゲームをしていたのが、習慣になって、ゲームをやってることが基本形になっちゃってんですよ。だって、そうでしょ。その子どもは、親の前にいるよりも、ゲームの前にいる方が、遥かに長いんですからね。そっちの方が落ち着くようになっちゃってんですよ。

 親の中には、ゲームを取り上げたりしますね。私にしてみたら、身勝手な親ですね。都合の良い時は、ゲームを与え、都合が悪くなったら、ゲームを取り上げるのですからね。

 その子どもの立場に立ったら、あなただったら、何を感じ、どうしますか?

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サルの実験室 その続き

2017-01-16 08:33:00 | 間奏曲

 

 

 

 
EMDR > プロザック(SSRI)
   国同士も、相手の国の歴史的個性に敬意を払ってね。改訂版  今の危機を突破するためには、倫理の力が必要です。 p241の9行目途中から。    しか......
 

 

  発達トラウマ障害(DTD)=愛着障害の子ども。ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.156の、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 現実の生活においては、攻撃的な行動、ビクビクした行動が、親の遺伝子のせいなのか? それとも虐待したり、ネグレクトしたりする母親のせいなのか? あるいは、その両方なのか? は、解りません。でもね、サルの実験室では、脆い遺伝子を生まれ持ったサルの赤ちゃんを、生みの母親から切り離して、世話上手の母親に育ててもらったり、お友達ざると一緒に遊び場で育てたりすることができますね。

 

 

 

 

 

 人間には出来ないことを、サルで実験したわけです。

 結果は、明日以降をお楽しみに!

 

 

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インターメッツォ: エリクソンの叡智 : セラピストの役割

2017-01-16 04:02:57 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 
舞台7「発見」!
   「三高」でも、幸せにはなれません!改訂版  自由恋愛は、人を大事にすることについて学ぶことに繋がらないことが多いらしい。 p3の3行目からる   ......
 

 今宵は、Identity and the Life Cycleから。p.144.

 

 

 

 

 

 セラピストは、人を嘲り、反抗的な若者に出逢ったら、赤ちゃんに、人生は信じるに値するものですよ、という関わりをしている母親みたいな役割をひきうけることになってます。

 

 

 

 

 

 セラピストが、人生は信じるに値するものですよ、と若者に以心伝心で伝えられるのは、人生は信じるに値するものですよ、ということを体験していなくてはなりませんね。なぜならば、人生は信じるに値するものですよ、ということは、人格的真理だからですよね。

 

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#聖書の言葉: ἡ ὁδὸς #あの道 #歓びが自ずから湧き上がってくるあの生き方

2017-01-16 03:22:05 | 聖書の言葉から

 

 

 

 
ドイツのメルケル首相とアベ・詐欺師ちゃんを比べたら
   点検、また、点検 改訂版  吉本隆明さん。倫理について、自覚しているレベルと、自覚できない無意識的なレベルで、善悪が逆転しやすい、ということを指摘......
 

 今宵はです。

 『新約聖書』の中にある4つのイエス・キリストの物語の最期が「ヨハネによる福音書」です。その第14章6節は、クリスチャンでない方もご存知の言葉かもしれませんね。前田護郎先生の翻訳では、そこは、

わたしが道であり、真理であり、いのちである。わたしによらずして父に行くものはない。

 ここで「道」と言われていることは、日本語にしてしまうと解らないのですが、定冠詞がついて、ἡ ὁδὸς ヘ・ホドス となっていますから、「あの道」とか、「あの生き方」という意味になります。イエス自身は、自分のことを「人の子」と呼んだのですが、「神の子」とされますね。ここで「父」というのは、「神さま」のことです。ユダヤ教やイスラム教の神様と同じ神様のことですね。日本の八百万の神とは異なり、神様は1人しかしません。神様は1人ですから、神以外の存在を神とすることが一番ダメな話になりますね。

 この聖書の言葉は、「イエス・キリストの生き方を見れば、神様の生き方が解かりますよ」というほどの意味でしょう。ですから、ἡ ὁδὸς あの道 あの生き方とは、「神さまの生き方」だということになりますね。

 イエス・キリストの生き方が、どういう生き方かと言えば、正確には4つのイエス・キリスト物語を読んでいただくのが良いのですが、4つの物語、4つの「福音書」は、少し分量があります。

 でも、今宵ご紹介した聖書の言葉から考えますとね、その生き方をすると、「真理といのちのある、神様の生き方ができる」、というほどのいみでしょうね。問題になるのが「真理」と「いのち」です。「真理」と言ったら、教室で教えてくれるものと勘違いする人が多い。でも、数学や物理でいう「真理」と、この聖書でいう「真理」とは全く違うものと考えた方が良い。前者を「科学的真理」、聖書が教えてくれる後者は、「人格的真理」と言えば、解りやすくなるかもしれません。科学的真理の方は、頭だけで理解することができます。でも、科学的真理を教えていたはずの大川小学校の教員たちが、ウソとゴマカシだらけの組織人で、人の風上にも置けない輩であったみたいに、私が会って来た教員で、人格的真理を兼ね備えている人は、殆ど例外的ですね。その多くは大川小学校のご親戚筋でしたね。それで、話しを人格的真理に戻しますとね、それは、頭だけでは、生きてみなければ、「本当だなぁ」と解らないものですよ。「真理」は、生きてみて、やってみて、はじめと「ホントだなぁ」=アーメンと言えるもの自転車に乗るのと似てたりしますね。そして、その「真理」は、「腹の底から歓びが湧き上がってくる生き方」のことです。

 もう1つ「いのち」も、生物的ないのちだったら、すでにお持ちでしょ。ここでいっている「いのち」は、そのような生物的ないのちのことじゃあない。学校や会社でも、よく、生きてんだか、死んでんだか、解らない人がいますね。先日立川駅北口の東側にある喫茶店「エクセルシオールカフェ」で、コーヒーを飲んで、オリオン書房で買った本を、走り読みしてたんですね。ちょうど店内の他の客がよく観察できる席だったんですね。だいたいの人が、スマホを見たり、ケータイをうっていたりで、「淋しい…」という声がする感じでしたね。生きているのに、死んでる…

 聖書の「いのち」は、晴れ晴れと生きること。雨の日も、雪の日も、嵐でも、「晴れ晴れと生きること」が「いのち」なんですよ

 

 あなたも良かったら、そんな生き方をしてみたいと思いませんか?

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