ドイツのメルケル首相とアベ・詐欺師ちゃんを比べたら
点検、また、点検 改訂版 吉本隆明さん。倫理について、自覚しているレベルと、自覚できない無意識的なレベルで、善悪が逆転しやすい、ということを指摘......
今宵は道です。
『新約聖書』の中にある4つのイエス・キリストの物語の最期が「ヨハネによる福音書」です。その第14章6節は、クリスチャンでない方もご存知の言葉かもしれませんね。前田護郎先生の翻訳では、そこは、
「わたしが道であり、真理であり、いのちである。わたしによらずして父に行くものはない。」
ここで「道」と言われていることは、日本語にしてしまうと解らないのですが、定冠詞がついて、ἡ ὁδὸς ヘ・ホドス となっていますから、「あの道」とか、「あの生き方」という意味になります。イエス自身は、自分のことを「人の子」と呼んだのですが、「神の子」とされますね。ここで「父」というのは、「神さま」のことです。ユダヤ教やイスラム教の神様と同じ神様のことですね。日本の八百万の神とは異なり、神様は1人しかしません。神様は1人ですから、神以外の存在を神とすることが一番ダメな話になりますね。
この聖書の言葉は、「イエス・キリストの生き方を見れば、神様の生き方が解かりますよ」というほどの意味でしょう。ですから、ἡ ὁδὸς あの道 あの生き方とは、「神さまの生き方」だということになりますね。
イエス・キリストの生き方が、どういう生き方かと言えば、正確には4つのイエス・キリスト物語を読んでいただくのが良いのですが、4つの物語、4つの「福音書」は、少し分量があります。
でも、今宵ご紹介した聖書の言葉から考えますとね、その生き方をすると、「真理といのちのある、神様の生き方ができる」、というほどのいみでしょうね。問題になるのが「真理」と「いのち」です。「真理」と言ったら、教室で教えてくれるものと勘違いする人が多い。でも、数学や物理でいう「真理」と、この聖書でいう「真理」とは全く違うものと考えた方が良い。前者を「科学的真理」、聖書が教えてくれる後者は、「人格的真理」と言えば、解りやすくなるかもしれません。科学的真理の方は、頭だけで理解することができます。でも、科学的真理を教えていたはずの大川小学校の教員たちが、ウソとゴマカシだらけの組織人で、人の風上にも置けない輩であったみたいに、私が会って来た教員で、人格的真理を兼ね備えている人は、殆ど例外的ですね。その多くは大川小学校のご親戚筋でしたね。それで、話しを人格的真理に戻しますとね、それは、頭だけでは、生きてみなければ、「本当だなぁ」と解らないものですよ。「真理」は、生きてみて、やってみて、はじめと「ホントだなぁ」=アーメンと言えるもの。自転車に乗るのと似てたりしますね。そして、その「真理」は、「腹の底から歓びが湧き上がってくる生き方」のことです。
もう1つ「いのち」も、生物的ないのちだったら、すでにお持ちでしょ。ここでいっている「いのち」は、そのような生物的ないのちのことじゃあない。学校や会社でも、よく、生きてんだか、死んでんだか、解らない人がいますね。先日立川駅北口の東側にある喫茶店「エクセルシオールカフェ」で、コーヒーを飲んで、オリオン書房で買った本を、走り読みしてたんですね。ちょうど店内の他の客がよく観察できる席だったんですね。だいたいの人が、スマホを見たり、ケータイをうっていたりで、「淋しい…」という声がする感じでしたね。生きているのに、死んでる…。
聖書の「いのち」は、晴れ晴れと生きること。雨の日も、雪の日も、嵐でも、「晴れ晴れと生きること」が「いのち」なんですよ。
あなたも良かったら、そんな生き方をしてみたいと思いませんか?