2017年最初の「折々の言葉」(朝日新聞 一面)は、Happy New Ears、「新たに聞く耳のある者にハッピーあれ」というほどの意味でしょうか?
鷲田清一さんは、「長く押し殺し殺されてきた声、出かけては飲み込まれた声、ぼそっと漏らされた短すぎる声、恐る恐る絞り出された声、今にも途切れそうな声。それらにじっと耳を傾けられる人に」と記されています。
最初の言葉として、実にふさわしく、今の時代に最も大事なことばです。
これを読む人は、電通の新人で、過労で殺された女性の声、沖縄高江の人々の声、福一から避難して、イジメられている子どもの声、「保育園落ちた日本死ね」に共感した人々の声…、を想像したかもしれません。でも、鷲田清一さんは、そういう「外なる声」のことだとは、言っていませんでしたね。
私は、サイコセラピストで、クリスチャンだからかもしれませんが、私は、皆さんに、「ご自分の声」に耳を傾けてくださいね、と申し上げたいと思います。敢えて「神の声」とは申しません。神様は、実に不思議で、人智を超えた存在です。映画さながらに、空から神の声が聴こえてくる場合も、あるやもしれません。残念ながら、私は、「貧しい者」だからか、そういう声は、今まで一度も聴いたことがありません。
しかし、心の中に語りかけてくださる存在とは、とても仲良くしてもらっています。最初は文字通り、a still small voice 「かぼそく小さな声」 ですから、良く聴こえません。忙しくしていたら、直ぐにかき消されてしまいます。しかし、何かそういう声がして、しかも、それが実現する予感めいたものを感じたことが、何度かありますね。それはそれは、実に不思議な感じです。しかし、その声には、なぜか 透明な感じ、透き通った感じ、静かなのにダイナミックなエネルギーを感じますね。私は、宮沢賢治が、「稲作挿話」の中で、「透明な力がその子どもにうつれ」と言った時の、「透明な力」がそれだ、と思っています。
その声のいくつかは、本当に実現し、そのいくつかは、まだ実現していません。
このブログの読者の皆様も、ご自分の底から湧き出てくる、「かぼそく小さな声」に耳を傾ける1年になりますことを、念じております。
2017年、良い年となりますように、ね。