エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

現世考: 大竹しのぶさんのお話: 人智を超えた不思議

2017-02-11 07:55:02 | 間奏曲

 

 

 

 
恥と激しい怒り
   宮崎奕保禅師  宮崎奕保禅師、と言って、知っている方はどれくらいいるのでしょうか? かく言う私も、いまから十年ほど前、NHKスペシャルで「永平寺 ......
 

 今日の朝日新聞に,大竹しのぶさんが「ファミリーヒストリー」に出演して,気付かされたことが出ていますね。上の写真がその記事です。

 大竹しのぶさんが,アッシジに行って,「何よりも人々の顔が美しい」人たちに出逢った,とあります。その美しさは,自分の祖父,吉川一水に繋がり,それは自分にも流れていることに気づかされる…。

 また,ファミリーヒストリーに出演したおかげで,それまで知らなかった親戚とも〔エクボ で〕繋がっていたことを知らされる…。

 そこに流れているのは,この世にありながら,人智を超えた不思議を体験する,と言う不思議,でしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発達トラウマ障害(DTD)と言う診断名の提案

2017-02-11 07:09:01 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 

 
丁寧に丁寧に、
   2つにバラバラになっちゃったら、ダメよダメダメ!  縦の関係を横の関係に繋ぐもの、それが集会でありました。 Young Man Luther 『青......
 

  発達トラウマ障害(DTD)=愛着障害の子ども。ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.160の、最後のパラグラフから。

 

 

 

 

 2009年2月,発達トラウマ障害(DTD)と言う診断名を,アメリカ精神医学界に提案する提案をお示ししました。その添え書きの初めには次のような言葉があります。

 

 親から虐められ,捨て置かれた,現在進行形の危険の環境の中で育っている子ども達が苦しめられたままでいるのは,現在の診断システムのためです。その診断システムが,行動をコントロールすることに力点があって,対人関係でトラウマを負わされていることを考慮していないからです…。

 

 

 

 

 

 この提案書は,http://www.traumacenter.org/announcements/DTD_papers_Oct_09.pdf で読むことができます。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖書の言葉 : 見るを探す=人間

2017-02-11 06:29:48 | 聖書の言葉から

 

 

 

 
光のある生活 感謝感謝の暮らし
   2つにバラバラになっちゃったら、ダメよダメダメ!  縦の関係を横の関係に繋ぐもの、それが集会でありました。 Young Man Luther 『青......
 

 サイコセラピーをしていますとね,聖書の言葉が,実に人の心のことを言い宛てていて妙,ということにしばしば出逢います。「聖書の神様は,本当に人の心が解かる,ありがたい存在だ」,とつくづく感じます。

 今日の聖書の言葉,「見るを探す」,変だと思いますでしょ。最近繰り返し取り上げている,徴税人のザアカイのお話。『新約聖書』の3番目のイエス・キリスト物語「ルカによる福音書」に,背が低かったザアカイは,人の後ろにいたのでは,イエスが通るのが見えませんから,桑の木によじ登った話があります。第19章です。前田護郎先生の翻訳で,振り返っておきたいと思います。

「 ザアカイの入信

19章 1彼はエリコヘ入って町をお通りであった。2そこにザアカイという名の人がいた。取税人の頭で、金持であった。3イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低いので、群衆のため果たさなかった。

 
 この「見ようとした」というのが,逐語訳で訳すと,「見るを探す」になるんです。ギリシア語では,ἐζήτει ἰδεῖν エゼテイ・イデイン です。ἐζήτει は,「探し出す」を意味するζητῶ ゼトーのアオリスト三人称単数です。ἰδεῖνは,「見る」を意味するεἶδον エイドンの不定詞です。

 ザアカイは,イエスを「見ようとした」「見るを探した」訳ですが,それは同時に,自分を「見るを探す」ことに通じていたわけです。なんせ,仕事柄,人の金をかすめ取って,金持ちではあっても,「裏切者」と自分でも何となく思っていますから,心穏やかではなかったはずでしょ。自分でも自分をどこか責めていたんでしょう。でも,それでは落ち着きませんし,自分は死んでしまいます。

 ザアカイが心の底から欲しいのは,ですから,お金ではありません。自分を肯定する見方,自分を肯定してくれる味方です。そして,イエス・キリストこそ,その見方,その味方でした。

 ザアカイに限らず,人は「見るを探す」存在かもしれませんね。自分を肯定する見方,自分を肯定してくれる味方を探している…

 その見方,その味方をする存在,「共に見る」「共に見通す」存在が大事です。

 なぜなら,人の良心=こころは,「共に見通す」συνείδησις シュネーデシスだから

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 老人と子ども

2017-02-11 00:34:13 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 
関係こそが全て : 心の耳を澄ませてみれば
   不思議を共に感じる時  私どもは、馴れていることは見逃しやすい。ですから、「初心忘るべからず」なんでしょう。 『The Sense of Wond......
 


 エリクソンも感性が飛びぬけて鋭い詩人です。

 Toys and Reasons から。P.112。タイトルの由来となる,ブレークの詩になぞられているところです。

 

 

 

 

 

 私はブレークの詩を読むたびに,年寄りの分別は,最高ですと,陽気で楽しい単純さによって,(再び)恵まれる,ということが教えられます。

 

 

 

 

 

 年寄りで,頼りになる分別があるのに,子どものような単純さもある人。そういって思い出すのが,野村實先生ですね。昨日アクセスが多かった臨床では、倫理の力が決定的 で,写真の方です。内村鑑三最後の弟子のおひとりで,藤井武の集会にも出ていたと聞いたことがあります。

 子どものような単純さ,それは,キッパリした感じ,潔い感じ,跪く感じがあるんです。それは,野村先生のお祈りに,ハッキリと現われていたと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする