人生の中で、私どもを支えてくれる宝物
宗教と人生の間 「内なる光」は慈しみ深い神を知る場でした。 p183のブランクの6行目途中から。 &n...>続きを読む ......
サイコセラピストとして一番大事にしているのが,陽気で楽しい,プレイフル playful。エリクソンと子ども等に教えてもらった,サイコセラピーの根源的なスピリット。
プレイフルでいると,子どもの声が善く聴こえてくるんです。しかも,それは,「声なき声」です。これに応えていると,押し黙っていた子もしゃべり出し,入ってきた時には,暗い重たい顔だった子も,晴れ晴れとした笑顔で出かけていきますね。プレイフル,plaufulのスピリットって,自分も人も,イキイキ,ピチピチさせてくれる賜物ですよね。
でもね,声は外から聞こえてくるものだけではないのですね。内なる声 inner voiceと言ったりする場合もありますね。 驚いたことに,サイコセラピストを自任している人たちに,そういう話をしても,「理解不能」みたいな顔をする人や「自分はそうしてない」という人がいるんですからね。率直で,パレーシアな私ですから,「申し訳ないけれども,それだと,半人前(のサイコセラピスト)ですね」と申し上げました。でも,それは非常に控えめな表現で,ヤブ医者以下の医者のことを「タケノコ」といいますけれども,この手の人は,タケノコ・セラピストだと言いたい気分でしたね。サイコセラピーの古典,ウィリアムズ・ジェームズの『心理学』(岩波文庫でも読めます)も,エリクソン(翻訳は間違いだられですが,みすず書房の本でも読めます)も,ユング(人文書院のものもあります)も読んだことすらないんですからね。
『新約聖書』の初めにある「マタイによる福音書」にも,その声の話が出てきます。前田護郎先生の翻訳です。
「 十人のおとめの譬え
25章 1その(終わりの)時の天国をたとえれば、十人のおとめがめいめい明りを持って花むこを迎えに出かけるのに似る。2その五人は愚かで五人は賢かった。3愚かなほうは明りを持ったが油をたずさえなかった。4賢いほうは油を器に入れて明りとともに持って行った。5しかし花むこがおくれたので皆まどろんで眠っていた。6すると真夜中に叫びがした、『見よ、花むこ、迎えに出でよ』と。7そこでおとめらは皆起きてめいめい明りを整えた。8愚かな女は賢い女にいった、『あなた方の油を分けてください、わたしたちの明りは消えます』と。9賢い女は答えた、『いいえ、あなた方とわたしたち皆には足りますまい。むしろ店に行って自分のをお買いなさい』と。10しかし、彼女らが買いに行っているうちに花むこが来た。そして用意のいいおとめが彼とともに婚宴に入った。そして戸が閉ざされた。11あとでほかのおとめたちも来ていった、『ご主人、ご主人、わたしたちを入れてください』と。12彼は答えた、『本当にいう、わたしはあなた方を知らない』と。13それゆえ、目を覚ましていよ。あなた方はその日もその時も知らないのだから。」
ここからも解かりますように,前田護郎先生は,「叫び」とやっていますが,「声」としても良いところです。これは,外の声ともみなすことができますが,実際には「内なる声」とすると善いでしょう。この内なる声は,真夜中に聴こえてくる,というところがとても大事です。ですから,眠っていたり,ボヤッとしていたり,タケノコであったりしますと,聞き逃してしまいます。聖書は,人の心を深く知っている人が書いていることが,こういうところからも解かります。
目覚めて,意識して,内なる声は聴くものです。「細く小さな声」だからです。内省,自己内対話,あるいは,祈りはそういうものです。
その内なる声を日ごろから味わっていますでしょ。そうすると,子どもの「声なき声」もハッキリしてきて,子どもが笑顔になりますからね。
あなたも,ぜひ,声のご馳走,をどうぞ。
チアーズ cheers