エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

仕事を無視してきた精神分析は直しましょう

2013-10-26 03:42:36 | エリクソンの発達臨床心理

 

 心理療法、ないし、日常生活で人と正面から向き合うためには、裸の自分でいることだといいます。これは当たり前のようでいて、自分の仮面を意識するだけでも、エネルギーがいることではないでしょうか?

 

 

 

 

 さらに申し上げれば、若者達の治療をする時には、その若者達が、仕事やバイトで忙しくしていること、ないしは、忙しくしていないことを無視することはできません。多分、精神分析が一番顧みない問題は、理論の上でも、実際においても、仕事の問題です。あたかも歴史的なものの考え方の弁証法が心理学的なものの考え方の体系を秩序づけているようです。その心理学的なものの考え方は、個人とその個人が属する組織が生計を立てる手段を断固として無視するのは、マルクス主義が内省的心理学を断固として無視して、人の経済的な地位をその人の思想と行動の中心に断固として位置づけたのと同様です。何十年も臨床でケースを追ってきた歴史は、そのクライアントの仕事の歴史をなおざりにしてきたか、あるいは、クライアントの仕事をうわべでは重要でない生活領域と見なしたかでした。この領域ではデータがとがめられることなく誤魔化されています。しかし、病院に入った若者たちの職業生活に対する臨床的な実験が示すのは、「受苦的存在」であるクライアントは、自助、計画的な仕事、地域の交流という雰囲気の中で、役立つ資源に満ちていることを示しています。彼らがその意味で役立つ資源に満ちているのに、無いように見てきたのは、私どもの理論と信念は、それがない、としているからにすぎません。

 

 

 

 

 

 仕事は大事です。それは「人はパンのみにて生きるのではない」と言っても、パンの重要性を否定できないのと同じです。

 エリクソンは、精神分析が仕事の重要性を無視してきたのは、結果ではなくて、精神分析が仕込み段階から、仕事を無視してきたことに見ています。

 エリクソンって、実に爽やかでおおらかで柔軟です。

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1人の裸の個人として、正面から対すること

2013-10-25 03:40:40 | エリクソンの発達臨床心理

 

 精神分析、および、その流れにある心理療法は、クライアントに合わせて、自分の技法とその理論的根拠を変更し続けるものなのですね。それは、「受苦的存在」であるクライアントが一番大事だからでしょう。

 

 

 

 

 

 子どもでもなく、青年でもなく、さらには大人にもなっていない若者の「受苦的存在」であるクライアントの特色は、あらゆるセラピーの中で経験される傾向が強調されることです。若い「受苦的存在」であるクライアントたち(なかんずく、普通ではない若者たちは)は、自分自身に対して、あるいは、自分の身の回りの者たちに対して、かなり全面的な要求をするものです。つまり、そういう若者たちが要求するのは、自分自身のことを毎日毎日価値あるものと認めてほしい、ということですし、さらには、自分の意義ある将来において、あるいは、自分の意味を感じなかった過去において、価値あるものと認めてほしい、ということです。価値あるものと認めてほしいのは、かなり明白な徳・力においてだったり、弱さにおいてだったり、あるいは、その人ならではの持ち味が育つことにおいてだったり、自分を見失ってしまうどん底においてだったりします。非常に苦戦している若者たちは、「カウチ向け」(初期の精神分析の技法)ではないのです。こういった若者たちがあなたに求めるのは、親代わりとして、プロの支援者という仮面をつけて、自分と正面から向き合ってほしい、ということでもなく、1人の若者が一緒にいることができる、あるいは、絶望することになる、まったくの1人の裸の個人として正面から向き合ってほしい、ということです。不意に、このように心理的課題を抱えた若者に出くわすと、その精神分析家が初めて学ぶかもしれないことと言えば、正面から向き合うとはどういうことか、ということであって、1つの問題に直面することではありません。おそらく、マルティンの魂の師である、シュタウピッツ先生も、私が思っていることを知っていたのでしょう。

 

 

 

 

 ここは非常に大事なところです。クライアント、いいえ、1人の人と本当に向かい合おうと思った時、一番大事なことが書いてあるからです。それは、裸の個人として、その人と向き合うことです。それは、自分自身が、日頃から裸の自分と向き合っているからこそできることなのです。別の言葉で言えば、自分に正直になること、自分になるべくウソをつかないことです。

 これは何もセラピストの専売特許ではないのです。先日女優の大竹しのぶさんは「女優として大切にしていることは?」と問われて、次のように答えていましたね。

「お芝居でも、ウソはつきたくないけど、実生活でもうそつきたくない」、

「自分の心に嘘をついて生きたくない」

ってね。

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精神分析は「未来と自分を変えていく」

2013-10-24 03:33:07 | エリクソンの発達臨床心理

 

 エリクソンは、ルターが不安障害(神経症)の苦しみさえ、自分を確かにする(アイデンティティのために)ことに活用できる、偉大なる「受苦的存在」として、認めています。それは、エリクソン自身が、「父無し子」として生まれ、ユダヤ人として差別され、ジェノサイドの中でアメリカに亡命せざるを得ないという、苛酷な苦しみさえ、自分を確かにする(アイデンティティの)ために活用できたからこそ、ルターについてこのようにハッキリ言葉にすることができるのだと、私は考えます。

 

 

 

 

 

 私は私が掲げた副題を取り上げようと思います。この「精神分析と歴史における研究」という副題は、バラバラな歴史の断片を(ここでは、偉大な改革者の青年期ですが)、精神分析を歴史的道具として用いることによって、価値づけ直すことになるでしょう。しかし、それはまた、あちこちで、歴史研究の道具として、精神分析に光を当てることになるでしょう。この点に関して、数ページの間、主題のテーマから道を逸れなくてはなりません。それは、この方法論的副題に着目するためです。

 精神分析は、あらゆる学問体系同様、それ自身の内的な発展史があります。観察法として精神分析は、歴史を手に入れています。すなわち、1つの思想体系として、精神分析は歴史を作っているのです。

 私は序章において申し上げたことは、1人の精神分析家が、1つの新しい種類の「 受苦的存在」に対して自分の関心の焦点を移す時にはいつでも、たとえその種の人たちが、同じ年齢であっても、似たような育ちをしていても、あるいは、同様な臨床上の病理の犠牲者であっても、その精神分析家は、自分の技法を変更せざるを得ないばかりか、自分が技法を修正する理論的根拠が説明せざるを得ない、ということです。このようにして、技法に徐々に磨きをかけることから、心に関する1つの理論も完成するように思われます。これこそ、精神分析が依って立つ歴史的ものの考えです。

 

 

 

 

 

 精神分析、ないしは、その流れの心理臨床が、臨床から、あるいは、「受苦的存在」であるクライアントから、いつも何度でも学び続けることがハッキリと示されました。それは、臨床家がクライアントを変えるのではなく、臨床家が自分を変えていくことです。「過去と他人は変えられない」、すなわち、「未来と自分を変えていく」のです。

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偉大な受苦的存在ルター

2013-10-23 03:03:05 | エリクソンの発達臨床心理

 

 エリクソンが展開している心理‐社会的アプローチは、非常に学際的な学問です。近代科学では対応しきれない面がかなりあります。その一つは、クライアントとセラピストの関係性が、臨床ではものを言うのに、近代科学ではその関係性を原則として捨象しなくては(捨てなくては)ならないことでしょう。臨床の深くかかわる、心理‐社会的研究法は、近代科学に収まらない分、近代科学から見たら、あいまいな点や不純物と思われる点がどうしても出てきます。しかし、エリクソンは、新しい学問分野や、新しい方法論が生まれるためには、むしろ、そのようなあいまいな点や不純物が必要と言います。

 

 

 

 

 

 人間性を最もうまく研究できるのは、折り合いがつかない心理的課題がある時です。人が心に中で折り合いがつかないことは、主として特別な事情の下で、興味深い記録のこまごましたところまで注意するようになります。その特別な事情の1つが、心理面接です。心理面接では、苦しんだことが、確実な助けを得るために、事例史(既往歴)にならざるを得ません。もう一つの特別な事情が、歴史です。歴史においては、普通でない人物が、彼ら自身の自己中心的な工作の故に、あるいは、人類がカリスマを熱望する気持ちから、伝記(自伝)になります。臨床心理学者は、歴史学者と共に、二種類の記録された歴史(事例史〔病歴〕と歴史)の間をウロウロすることによって、学ぶことがたくさんあります。ルターは、いつもためになる人ですが、臨床心理学と歴史学に携わる者たちに、特別な気付きをもたらさずにはおきません。彼は一種の派手な自己顕示の中で年を重ねるにつれて、自分自身を楽しんだのでした。その自己顕示のおかげで、臨床家は彼が1人のクライアントと折り合いをつけようとしていたことを感じることができます。しかし、臨床家がこの感じに没頭する場合、この想像上のクライアントは、自分自身と折り合いをつけていたのだと分かります。なぜならば、ルターこそ、芝居じみた鋭い嗅覚によって自伝を書いた人の1人だからなのです。こういった自伝を書く人たちは、自分自身の不安障害(神経症)の苦しみさえ熱心に活用することができるのですが、自分自身を確かにすると、みんなが認めてくれる道(誰もが認めるアイデンティティ)を創りだすために、熱心な仲間たちからもらった手掛かりに自分の記憶を合わせてしまうのです。

 

 

 

 

 

 ルターも自分自身の不安障害(神経症)さえも、自分自身を確かにする道(アイデンティティ)に生かしたのでした。その意味では、ルターは偉大な「患者 受苦的存在 patient」なのです。ですから、エリクソンはここでルターを取り上げているのです。

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曖昧さと不純物は、肥やしになる

2013-10-22 03:25:02 | エリクソンの発達臨床心理

 

 エリクソンがルターという既成イメージが強烈にできている人を、別の視点から再構成しようとする、大胆で意欲的な試みをしようとしています。ここで、呼び名を「ルター」とせずに、当面「マルティン」とすることが述べられています。その使い分けの基準も示されています。しかし、エリクソンは、なぜ、このように、20台までの初期の名を「マルティン」としたのでしょうか?

 

 

 

 

 キルケゴールの言葉には、第二の部分があります。それは、キリスト教国にとって、非常に重要な部分です。これには、個別の「ケース」がどのように、重要な、歴史的な1つの「出来事」になるのか、を良く調べなくてはなりませし、ルターの時代に、北のキリスト教国が直面していた、スピリチュアルであると同時に、政治的に、自分を確かにする道(アイデンティティ)の危機に関して、明快に述べておくことも必要です。実際に私は、このようにしていれば、方法論的な不確かさや不純物を避けることができたでしょう。この方法論の不確かさや不純物が間違いなく生じてくるのは、1つの事例が、歴史的出来事の単なる付属品としか考えていない人たちに向けて、1つの事例史(既往歴)を書いたり、歴史的出来事を託したりすることを生業とする私の仕事をコツコツやるからです。しかし、私ども臨床家が最近学習したことは、1つの事例史(既往歴)は、歴史から引き離すことはできないということです。歴史家たちが、歴史的出来事の論理を、この歴史的出来事と交差する、人生の歴史の論理と分けようとする時、歴史家たちは、大事な歴史的課題をうっちゃらかしにしてはいまいか、とさえ、私どもは疑います。ですから、私どもは、リスクを冒さなければならないのかもしれませんね。そのリスクとは、ちょっとした不純物は、ハイフンで結ばれた、心理‐社会的な研究や、他のハイフンで結ばれた研究においては、付き物だ、ということです。多少の不純物は、今日の学際的研究の努力という、肥し作りに伴う熱なのです。この学際的研究の努力という肥しが、新しい学問という畑を豊かにするのを助けることになるかもしれませんし、新たな方法論的明確さという将来の花を育てる助けになるかもしれませんからね。

 

 

 

 

 近代科学は、中村雄二郎が述べるように、普遍性・論理性・客観性という強固な論拠を持ちます。したがって、方法論においても、不確かさや不純物を嫌います。しかし、相対性理論と核の登場以降は、この強固な論拠も非常に怪しいものになってきました。

 今近代科学が見落としたり、軽視したりしてきたことを、もう一度よく見て見る必要がある時代です。今日のところでエリクソンが述べていることは、まさにそのことです。ですから、臨床は、純粋科学では賄えない以上、当面(?)、不確かさや不純物を、新しい方法論や研究分野の肥やしとして必要としています。

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