エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

マチャミのお仕事

2015-06-29 04:52:48 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 
内なる父母
  子どもは、母親から信頼を、父親から規律を学べば、独立して生きていける。福音です。 p41の五行目から。 &nbs...
 

 

 マチャミ、こと、久本雅美さんが、対談番組「達人達」で、歌手のJUJUさんと対談するお話。昨年くらいから、JUJUさんの歌を聴くようになったので、どちらかというと、JUJUさんって、どんな人なんだろうかぁ?と知りたいし、もしかしたら、歌も聴けるかしらぁ?と思って、土曜日の夜、見たんですね。JUJUさんの歌声に、何となくいいものを感じていたからですね。久本雅美さんのことも、もちろん知っていたけれども、知っているというだけで、舞台をテレビでさえ、見たこともありません。JUJUさんのコンサートは行ったことはないけれども、WOWWOW等で、ジュジュ苑やBLUE NOTE TOKYOのコンサートは何度か見たことがあります。

 JUJUさんは、ニューヨークで、歌を歌っている時に、ソニーの人の眼に止まって、メジャーデビューすることになった、と番組で言ってました。でも、最初は売れなかったみたい。ジャズが好きで、ジャズの歌い方をしていたらしい。しかし、歌い方を変えて、日本語がハッキリ伝わるように、「奇跡を望むなら...」を歌ったそうです。それがロングヒットになっちゃった。めでたしめでたし。

 でも、それだけじゃぁないんですね。加藤周一さん張りでしょ。「それまでは、自分が歌が好きだから、自分のために歌ったいた」。「奇跡を望むなら...」を歌って、初めてリスナーからお便りを貰うようになって、お客さんに喜んでもらうことが、どれだけ嬉しいことかと感じたと言います。それで、「聴いて下さる方のために歌いつづけたい」と思うように変わったそうです。しかも、そうしたら、自分の喉が自然にできてた、とも言いますね。ジャズを歌う時と違う喉が出来てた、という訳です。実に不思議ですね。

 かたや、久本雅美さん。おバカに徹して、お笑いをやってる訳ですね。でも、久本さんは、「聞き役が好き」だと言いますね。「人の話を聴くのが好き」だとも言いますね。根っからのカウンセラーなのかもしれません。おバカは、アベシンちゃんのような本当のバカには務まらないみたい。そのむかし、小学校5年生の時に、藤山寛美さんの舞台を称して、担任の中島学山先生が、「バカはバカには出来ない」とおっしゃっていたのを思い出します。

 最後の方で、久本雅美さんがとっても大事な話をしてくれました。今日は、それが言いたくて、このブログを書いている訳ですね。それは、人見知りで、緊張しいのJUJUさんが、「どうやったら、人の懐に入っていけるんですか?」という質問に、応えるものでした。久本さんの応えは「誠実に」です。日頃おバカをやっている人が真面目に応えてくれてます。そして次のように言葉を継ぎます。「相手が好きか嫌いかに振り回されない自分になることが大事」。これって、”自分を確かにする”という、一般に「アイデンティティ」と呼ばれる、心理的課題について、ハッキリ言ってることになりますね。「自分に正直に、…また、相手を尊敬し誠実に接したことが次に繋がっていく」という訳ですね。下手な心理学の講義や、道徳の授業よりも、日常生活で役立ちますね。

 

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「救い」の時

2015-06-28 11:47:27 | エリクソンの発達臨床心理

 

 能動的に受け身になる、と言われても、はてな?と感じる人もいるかしらねぇ。それは言ってみれば、「意識して聞き役に徹しよう」っと感じ。自分がいろいろ話すんじゃなくて、相手が話しやすい様に、相手を肯定しながら、聴き続ける感じ…。

 とっても大事なところがまだまだ続きます。

 Young Man Luther 『青年ルター』p208の下から3行目途中から。

 

 

 

 

 

意義深い意味が失われているのが、passivity 受け身になる、という何気ない言葉なんですね。この意義深い意味の中でも、他者を認めながら、心がささやく声に悦んで従って、「苦労を引き受ける」、Passion パッション、すなわち、キリストの十字架を生きる、という全人格的な態度がなくなっちゃってるんですね。すなわち、全人格的に受け身になること、それは、人が、じっくり考えた結果、自己を犠牲にし、自分を超越することに向かい合うことを通して、無価値なものと向かい合いながらも、能動的な立ち位置を取り戻すことなんですね。そして、人は、このようにして、救われるわけですね。これって、「自分から損するなんて、バカね」という「十字架のバカ」という叡知なんですが、心理学では謎になってることのひとつですね。

 

 

 

 

 不思議でしょ。能動的に振る舞った方が幸せだと思いがち。救いもそうやって能動的に手にいれるものだと思うでしょ。でも実際は真逆なんですね。

 心がささやく声に喜んで従うことは、「人が嫌がること」「損をすること」であることが多いけれども、心がささやくことに従うことが、救いに繋がるからですよね。 でも、日本語でも「損して得取れ」という言葉もありますでしょ。そして「徳は得なり」もありますしね。

 損することを意識的にしていくことの中に、救いがある、ってわけですね。

 あなたもどうぞ、お試しあれ!

 でも、「救い」ってなんだっけ?

 

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大人が真面目にやってることが、子どもの遊びに及ばない?

2015-06-28 09:35:40 | エリクソンの発達臨床心理

 

 遊びは、人間が、過去に自分の経験したことに折り合いをつけ、現在の課題や人間関係を自分でコントロールしようとする力を、人間らしく発達させるために、なくてはならないものです。勉強よりも、ましてや、今の多くの小学校がやってるようなカリキュラムを、一方通行に押し付けるようなことよりもはるかに、この遊びが大事なんですね。遊びは、子どもにとってエッセンシャルなんですね。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p51の10行目途中から。

 

 

 

 

 

大人であっても、また、過去の経験と予定のいろんな課題によって「プレイ 遊ぶ」のに、考えるという本人の側面で活動することから始めることが、大人の仕事の中で、とても大事な側面になります。しかし、それ以上に、隠し立てのない物語の中ばかりではなくて(まるで「戯曲という意味のプレイ」や作り話の中でのようですね)、実験室の中や製図版の上でも、私どもは、過去を糺して(直して)、分かち合うという、見通しの利く視点をもって、将来を発見的に見通すのです。まるで、私どものいろんな失敗から自由になり、私どもの希望を強めるかのようですね。そうする中で、私どもは遊び道具を受け止め、それで間に合わせるようにならなければならないのは、明らかです。その遊び道具が、おもちゃでも、考え方でも、天然資源でも、発明した技術でも同じことです。この遊び道具は、歴史の中の私どもの時代の、文化的、科学技術的条件に委ねられている訳ですね。

 

 

 

 

 面白いでしょ。大人が真面目にやってることが、むしろ、子どもの遊びのバリエーションです。それは、大人が真面目にやってることが、うまくいった場合が、遊びになるのであって、下手をすれば、子どもの遊びにも及ばない訳ですね。

 エリクソンてすごいでしょ。「私どもは、過去を糺して(直して)、分かち合うという、見通しの利く視点をもって、将来を発見的に見通すのです。まるで、私どものいろんな失敗から自由になり、私どもの希望を強めるかのようですね」。アベシンちゃんの悪魔の仲間たちは、この逆をやってる訳でしょ。人間心理を知ると、歴史と未来を、希望に満ちた物にもできるんですね。

 今の日本の学校は心配でしょ。自分達がやってることは、この下手な場合が非常に多いんですからね。あれだけバカにしている、見向きもしない 子どもの遊びにも、自分達が仕事としてやってることが及ばないですからね。しかも、多くの教員はそれにも気付かない場合が、ほとんどでしょ。

 それが日本の現在の危機の深刻さの一端を物語っていますね。

 何故なんでしょうかねぇ?

 

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愛着障害と≪陽気で楽しい≫プレイフル

2015-06-28 07:44:12 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ≪陽気で楽しい≫。それは子どもが愉しそうに遊んでいる時の気持ちです。しかも、これはエリクソンが、臨床で最も大事にした態度、playful プレイフル を私が翻訳した言葉でもあります。どこぞの東大の先生は、これを「遊戯性」と訳してんですから、もう呆れて呆れて…。臨床をやったことがないから、分からない。分からないでは、みすず書房からの仕事がきませんから、したがって、印税収入が入りませんから、分からないことをゴマカすために、小難しい言葉を使うんです。東大の先生もアベシンちゃんの御親戚です。

 子どもの最も大事な特性は、このプレイフルなんです。これは、眼には見えない心の傷の研究の世界的権威のヴァン・デ・コーク教授が、今回の震災後に、眼には見えない心の傷をいやすために紹介したプロジェクト・ジョイの資料に、あります。

http://www.hugly-lovely.jp/kiso/file/projectjoy_appendix.pdf

この翻訳もちょっと…という感じです。訳がこなれていません。でも、役立つことでしょう。

http://kennedykrieger.org/sites/kki2.com/files/is-it-in-you-the-role-of-playfulness.pdf

 これによれば、子どもの頃に、日常生活の中で繰り返し、眼に見えない心の傷を負うと、どうなるのか? 「〔1〕情緒的にも、〔2〕認知の面でも、〔3〕対人関係の上でも、障害が生じる」という訳ですね。その他にも、「早死に」などの影響が深刻ですが、今回は割愛します。

 〔1〕「情緒的な障害」とは、1)自分の気持ちを出さないこと、と、2)怒りの爆発です。1)自分の気持ちを出さない わけですから、表情が暗い、笑わない。 でも、時に、あるいは、頻繁に、2)怒りを爆発しますから、お友達を打ったり、蹴ったり、喚き散らしたり、ということが起きます。

 〔2〕「認知の面の障害」とは、いつでも、眼には見えない心の傷を受けた場面に対する緊急発進、スクランブルの状態ですから、3)恐怖と緊張が続いています。ヴァン・デ・コーク教授らが言う、右脳が「サバイバル脳」になって、活発に動いていますから、4)左脳で認知することが妨げられてしまいます。認知の力が弱いと、日本の学校では、ずくに「発達障害」ということになっちゃうけれども、眼には見えない心の傷が、認知に障害をもたらす、ということに対する無知があるからです。実際、「眼には見えない心の傷がある場合、認知が悪影響を受け、学習面で遅れが出ます」と言っても、教員たちの中にも、なかなか認めない人もいるくらいですらかね。その教員が計画していることに、差し障りがあるからだと感じます。せっせと 5)「発達障害」とレッテルが張れれば、普通学級から「支援学級」に移す口実になりますからね。排除の論理です。それだけ、愛着障害だらけで、学校現場に余裕がなくなっているから、ということもありますが、教員の認識不足のためでもあります。

 〔3〕「対人関係の障害」は、6)脱抑制型愛着障害の子どもの場合には、誰彼かまわず、関わって、少しでも関わってもらいたい、関心を向けてもらいたい、というパタンーンとなります。あるいは、7)少しでもいいから認めてもらいたいので、スポーツでも勉強でも行事にも熱心に見えます。 抑制型愛着障害の子どもの場合には、8)人との関わりを避けたり、眼には見えない心の傷がひどい場合は、8)不登校や引きこもりになりますし、9)スポーツに対しても、勉強に対しても、行事に対しても、消極的、否定的で、「やる気がない」と言われる場合が多いですね。

 ですから、このような「〔1〕情緒的にも、〔2〕認知の面でも、〔3〕対人関係の上でも、生じる障害」を子どもから取り除いていくことが必要になりますよね。その際にとっても大事なのが、子どもの一番の特性、プレイフル、陽気で楽しいを生かすことなんですね。なぜならば、

 〔1〕陽気で楽しいと、子どもは安心し、認められたと感じやすいので、気持ちを表現できるようになりますし、笑顔が増えますから。

 〔2〕陽気で楽しいと、子どもは、スポーツでも、勉強でも、行事でも、関心を持ち、熱心に取り組むようになりますから。

 〔3〕陽気で楽しいと、子どもは、一人の人との陽気で楽しい関わりを基にして、いろんな人との関わりも楽しめるようになるますし、人に譲ることを学びますから。

 ですから、これを読んだあなた、今日からあなたも

 陽気で楽しく ね!

 

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ルターは動的受動態

2015-06-27 10:44:52 | アイデンティティの根源

 

 眼のキラキラは、うつります。

 お母さんが気前がいいと、その子どもも気前が良い。

 気前の良さも、うつります。

 大事なところが続きますね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p208の第4パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルターはpassiva ラテン語の「受身形」 だとか、passivus ラテン語の「苦しみ」 だとかいう言葉をまさに使ったのが、ルターがラテン語を話す時ですが、このラテン語は、passive 「受け身になること」と翻訳することが、正しいとされているはずです。でもね、ドイツ語では、ルターは、passivisch、すなわち、「動的受動態」という言葉を使うことが多かったんですね。さしずめ、passific(英語にはない言葉を、エリクソンが、英語っぽく作ってみた言葉です) 「受け身になる」のようなものです。passive 受動態と active 能動態の古い文法上の違いは、実際には、erleben 経験することと、handeln 役割を果たすこと の差だと思うんですね。

 

 

 

 

 

 

 ルターの受け身は、単なる受け身ではない。受け身になることを“選択する”ということです。

 これは、心理臨床では、要の態度ですね。

 宗教と心理臨床の近さです。

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