エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

遊びが礼拝になる

2015-06-27 10:34:09 | エリクソンの発達臨床心理

 

 生真面目が好きな方には、陽気で楽しくは、不人気かもしれません。でも、陽気で楽しいは、うつるし、子どもを肯定することになるとは、何度でも言いたいことですね。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p51の3行目途中から。

 

 

 

 

 

ここではすぐに、形が決まった遊びという人間が作り出した偉業が、公平なルールと攻撃したい気持ちを組合わせたものですが、登場します。遊びは、ライフサイクルの発達の主たる傾向が、生涯を通して、広がれ、展開する、その仕方の好例なんですね。遊びが礼拝になる力は、モデルになる状況を作り出すことによって経験したことに折り合いをつけて、実験したり計画を立てたりすることによって、目の前の現実をコントロールする、人間の能力の子どもバージョンなんですね。

 

 

 

 

 

 遊びのことを、これだけ要約的に、しかも、非常に実践的に、記した文書を、私は知りません。プラトンの「遊びは飛び跳ねること」、という定義は、詩的な表現として優れています。でも、エリクソンは、それを見事に臨床的に解題してくれている感じです。

 このところは、私が心理臨床の仕事で、毎日毎日、お世話になっているところですね。

 でも、礼拝と言ったら、お寺か教会にいかなくちゃぁ、と思うでしょ。それもいいかもしれません。でもね、無教会でなくても、礼拝にわざわざお寺や教会に行く必要がないんですね。礼拝とは、場所や儀式ではないからですね。本物の礼拝は、人間関係の中で、人間を超えるものに真実に向かい合うこと、すなわち、2人の人が顔を見合わせながら、人間を超える存在、サムシング・グレート something Great を「共に見る」ことだからですね。

 不思議ですね。

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知恵の子

2015-06-27 09:11:24 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
遊びは芸術品
   目の前にいると同時に、心の中にもいる子ども  遊びには、一級の芸術を創造す...
 

 「知恵の子」と言われたら、何をイメージするでしょうか? 

 賢い小学生かなぁ? 「賢い小学生」と言われたら、IQ150以上の小学生を思い出しますね。三桁×三桁の計算をいともたやすく答える。こちらは電卓で、答えを確かめる。「合ってる」。でもその子は「普通学級」ではなくて、「支援学級」でした。前にこのブログでも書いたかなぁ。

 でも、この「知恵の子」は、そういう意味ではないらしい。昨日ブログでも引用した、山浦玄嗣さんの『イチジクの木の下で 上』によると、孫引きですが、Understanding the Difficult Words of Jesus: New Insights From a Hebrew Perspectiveの翻訳『イエスはヘブライ語を話したか』によると、これは、「議論の進め方」という意味だと言います。「なるほどなぁ」と思いました。

 これは「ルカによる福音書」第7章34節に出てくる言葉なんですね。フランシスコ会訳(カトリックの人たちが翻訳した聖書)では、

「しかし、知恵の正しさは、知恵の子らすべてによって証明される」

と出てきます。

 でも、この「知恵の子」は「賢い小学生」のことじゃぁなくて、「議論の進め方」でしたね。ですからこのフランシスコ会訳は、

 「しかし、知恵の正しさは、議論の進め方によってわかります」

ということだと、ハッキリ分かりますね。

 ここで、私はアベシンちゃんの議論の進め方を思い出したんですね。

 昨日の夕方、NHKで国会中継を見たり、また、ウェブ上の国会中継を見ていたんですね。そしたら、アベシンちゃんの話は、何回聞いても、「分かんない」んですよ。よく聴いてるとね、”「俺チャマのやろうとすることに、ツベコベ言うな」ということでしかない”、と、強く感じますね。議論をしているようで、現実には、暇つぶし、「80時間審議時間を取りました」という形を整えるアリバイ作りでしかない、と強く感じます。何故でしょうか?

 このヘブライ語から考えた聖書の言葉

「知恵の正しさは、議論の進め方によってわかります」

からすると、アベシンちゃんには、「知恵の正しさ」がないばかりか、あるのは、浅知恵でも猿知恵でもなく、さらには悪知恵ででさえなくて、愚かしさ(国会で証言された、憲法学者の小林節先生のご指摘通り、戦争法案を通せば、莫大な戦費が掛かって、それじゃぁなくても破綻寸前の国家財政が、確実に破たんすることになるでしょう)と狂気だけだぁ、ということが、ハッキリ分かって、スッキリしますね。

https://www.facebook.com/hideki.ishikawa.332/posts/391723644354037?notif_t=like

を参考にして、是が非でも、お腹と頭が弱いアベシンちゃんにお休みを挙げてくださいね。ビョーキですから、お休みしてもらいましょうよ。

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眼のキラキラも うつる!

2015-06-26 07:18:23 | アイデンティティの根源

 

 

 人間にとって、一番の悦びは、与える悦びです。大事なところのオンパレードのつづきです。

 今日のブログは「うつる」繋がり、不思議です。

 Young Man Luther 『青年ルター』p208の第3パラグラフ、下から12行目途中から。

 

 

 

 

 

聖書の中にルターがようやく見つけ出したのは、ルターが、「あっ、いるなぁっ」て気付いた、1人のお母さんだと思います。ルターは「人が気前良く出来る」のは聖書のおかげだとしました。気前よさにルターは心開くこともできましたし、ルターは、気前の良さを他の人達にもうつしていくこともできました。少なくとも、お母さんが気前良くしていると、そのお母さんの息子も気前良くなりますもんね。

 

 

 

 

 気前の良さって、与える人ってことですね。プレゼントする人です。プレゼントするのは、与える悦びを深く知っているからでしょう。

 「気前の良さ」、って、ヘブライ語では「眼が澄んでいる」って言うらしい(山浦玄嗣さん『イチジクの木の下で  上』p170)。素敵な表現ですね。でも、確かに気前が良い人って、眼がキラキラしていますからね。プレゼントをもらった人も、眼が自然にキラキラしますもんね。ですから、

 

 眼のキラキラも、うつる

 

ってわけですね。

 

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陽気で楽しいは、うつる!

2015-06-26 06:36:46 | エリクソンの発達臨床心理

 

 エリクソンは「プレイセラピーで大いに役立つのが、おもちゃのある遊びの小さな側面のおかげで、セラピーをする子どもは、危機をはらんだ願いやテーマを、隠さず表現できる、ということを見て知ることですね。」と言いますでしょ。慣れてくると、おもちゃがない、校庭で遊んでいる子どもでも、その遊びから分かる場合も出てきますね。面白いでしょ。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p50の下から4行目途中から。

 

 

 

 

 

そして、実際、おもちゃで遊ぶ、遊びの小さな側面でびっくりしたり、ガッカリしたりすると、その子どもは、自分の感覚で遊ぶ、遊ぶ本人の側面、すなわち、ボォッとしたり、指シャブリをしたり、マスターベーションをしたりすることに退行するかもしれません。ところが、発達的には、陽気で楽しいことは、人と遊ぶ、遊びの大きな側面に手が届きます。遊びの大きな側面は、他の人たちと分かち合う対人関係上の活動の舞台です。対人関係の活動の舞台で学ばなくてはならないものは、陽気で楽しく関わろうとすると、相手の人たちも陽気で楽しく関わろうとするようになるし、陽気で楽しいことを相手の人たちにも強いることになる、ということです。

 

 

 

 

 

 ここは、マイ・フェイヴァリットの1つですね。なぜなら、陽気で楽しいことは、うつる、と教えてくれるところだからです。 「うつる」といっても、インフルエンザではないんですからね(ただ、村瀬孝雄・近藤邦夫訳のみすず版は、例によって、滅茶苦茶です)。

 陽気で楽しいことはうつる、というのは、小学生までくらいは、とってもよく当てはまります。そして、陽気で楽しいことくらい、相手の小学生を肯定することはない、ってことも、非常に大事な点です。

 あなたも、子どもの相手をするときには、正しいこと(勉強やルールや躾など)を口にしたりなんかしないで、陽気で楽しく ね!

 

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平和は一歩一歩の歩み   マインドフルネス 再び

2015-06-26 02:44:24 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
遊びも、自分の源
   遊びの治癒力  自分の過去を正面から捉えることが、見当識の意識的選択と表裏...
 

 

 自分を確かにすることは、いつでも、平安と悦びの中で生きていく時には、なくてはならないものですね。あらゆるスピリチュアルの試みは、自分を確かにするためにある、と言っても、間違いにならないと思います。

 ティク・ナット・ハーンさんが唱える、マインドフルネス mindfulness も、自分を確かにするためにあるはずです。自分を確かにするためには、その自分が大事でしょう。なぜなら、その自分が、≪本当の自分≫、≪ありのままの自分≫でなくてはなりませんからね。親から期待されている自分や、会社や上司が喜ぶ自分や、友達に嫌われない自分をいつまでも演じていたって、≪本当の自分≫にも、≪ありのままの自分≫にもなれませんからね。

 マインドフルネスとは、マインドが満たされていることでしょ。≪いまここ≫に気付くこと、≪いまここ≫の自分に気付くこと。≪いまここ≫とは、≪本当の自分≫であり、≪ありのままの自分≫ですから、「自分が自分が…」と我に囚われていたり、自分が「正しい」と思ったりすることから、自由になることが必要ですね。

 そのためには、「自分を深く見つめること」、「自分に深く聴くこと」です。そうやって「自分自身に立ち返ります」(「立ち返って静にしているならば、救われる」(「イザヤ書」第30章15節)を思い出します)。そうすると、「慈しむ心が自分から、他の人へと広がっていきます」。まさにキリストの教えそのものですね。

「自分自身を大事にしなさい。そうすると、誰でも真実に大事にできますからね」

Peace is every step : A Practice for Our busy Lives, p.99

  『平和は一歩一歩の歩み(にあります): 私どもの忙しい暮らしのためにしておきたいこと』99ページ) 

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