脳脊髄液減少症患者のつぶやき、「とりあえず、生きてみよか・・・。」

過去から現在へ、脳脊髄液減少症、体験克服記。

悲しかったこと。

2011年11月11日 | 心の葛藤

今日は震災から8カ月めだ。

 

被災地から遠ければ遠いほど、

何事もなかったような平和な日常の中で、

震災のことは、

人々の記憶から薄れはじめていることだろう。

 

今年悲しかったこと。

もちろん、震災も原発事故の影響も、

心が壊れてしまいそうになるくらい悲しかった。

 

でも、同時にずっと前から、

消えない悲しみも続いていて、

その悲しみは今年になってさらに増した。

 

その悲しみは、

今でも、肉親でさえ、

脳脊髄液減少症の私の苦しみが、あまりわかっていないってこと。

 

関心をあまりもってもらえていないと感じること。

 

私のために一緒に泣いてくれる人も、

私を抱きしめて、思い切り泣かせてくれる人も、

 

泣いても、背中をさすってなぐさめてくれる人も

私には誰もいないってこと。

 

ともに怒り、一緒に理不尽さに泣き、

一緒に悲しんでくれる人もいない。

 

私のために、脳脊髄液減少症患者の現実を

私の代わりに社会に訴えてくれる人も、

身近にはいないってこと。

 

私のまわりに、人はたくさんいるのに、

ひどい孤独を感じること。

ひとりぼっちを感じること。

 

ただ、無関心な人たち。

この事故後遺症のこと、何もわかっていない。

 

私という患者がこんなに近くにいるというのに。

 

ひとりぼっちだから、

自分で自分をだきしめ、悲しみに耐え、

自分で自分を励まし、

自分で自分を勇気づけなきゃならないってこと。

 

ブログだって自分で書かなきゃ、

私の家族なんて

私に代わって、誰も社会にこの理不尽さを訴えてはくれない。

 

兄弟は他人より遠い。

 

書いたこのブログの存在を伝えても、

家族は誰も読んでもくれない。

 

何も感想も言ってもくれない。

 

私は泣きたくても、

いまだ、思い切り泣くことさえできていない。

 

感情にふたをしてしまっている。

こんなことは

後々心の回復にかえってよくないことはわかっている。

 

でも、今の私には、自分ひとりでできることは、

ただ、現状に耐えることだけ。

 

それが、とてもつらい。

 

 

それが、ものすごくつらい。

 

助けてくれる家族がいるから、今私は生きていける。

それはわかっている。

 

私は恵まれているから、

こうして何度も自費のブラッドパッチ治療を重ね、

座っていることもなまならなかった最悪の状態から、

こうしてパソコンに向かえ、キーボードが叩けるまでに

回復した。 

 

私は、昔の事故被害者の中では幸運だ。恵まれている。

それもわかっている。

 

わかっているのに、

どうせ、

誰にもわかってもらえていないと感じてしまう。

 

 

今年、治療退院して家に戻った日、

肉親から浴びせられた言葉は忘れられない。

 

あまりに悲しくて、悔しくて、言われたことを書きとめた。

 

「(あなたは)病気を理由に逃げ回っているだけ。残念だけど。

(入院して家に)いない方がせいせいする。

 

何でもかんでも、すべてを、これ(脳脊髄液減少症)を理由にして、

(逃げ回っているだけ。)

それが(あなたの)悪いクセ。

そんな大声出せる人が、病気なわけないだろう。」

 

そんなことを言われた。

 

それが本心から出た言葉ではなく、

「売り言葉に買い言葉」であることはわかっていても、

やっぱりショックだった。

 

本当は、血のつながった人たちにだけは、

たとえ誰が症状を信じてくれなくても、

病名がなくても、わかってほしかったし、

たくさんの優しい言葉をかけてほしかった。

 

私はブラッドパッチ治療前は声を出すのもつらい時期があり、

ささやくような小さな声しか出ない時もあった。

呼吸が苦しくて、話すのもつらい時もあった。

 

舌もまわらず、声も出にくく、

しゃべるのもつらく、誰とも話したくない時期もあった。

 

人の普通の話し声も、耳につらくて、嫌だった。

 

でも数回のブラッドパッチ治療で

本当に大きな声が出せるようになった。

 

だからこそ、普通に口ゲンカもできるほどになった。

 

退院して家にもどった日に嫌みを言われて、

私も黙っていられず、言い返した結果、上のような言葉で

とどめを刺された。

 

肉親や親族からの無理解な言葉なんて、

今にはじまったことじゃない。

 

いつものことで、慣れてはいる。

 

交通事故事故直後から、

今までの長い年月の中で、

何回も何回も言われつづけた。

 

だから、いまさら何を言われても驚かない。

 

事故後、働けないで毎日横になってふせっていれば、

「早く自立しろ!」と怒られ、

「ただ飯食い」とののしられ、

 

今思えば、意識障害か過眠症状で、

こんこんと何時間も昼間から眠っていれば、

「若いのに眠ってばかりいる。」と怠け者扱いされ、

 

家の中で突然激しいだるさで動けなくなり

その場に倒れこんで横になっていれば、

「そんなところに倒れこんで寝ているな邪魔だ」と

足でまたがれただけで、しらんぷりされたっけ。(確かに通路でじゃまだったが)

 

光がまぶしくて、カーテンを閉め切って寝込んでいれば、

訪ねてきた親族が、

「こんな、カーテンを閉め切って部屋に閉じこもっているからダメなんだ。」と

大声で言いながら、カーテンと窓を開け放たれたっけ。

 

医師には

「あなたの性格が生んだ病だ。」と言われたっけ。

 

私の兄弟は、私の事故での加害者と同級生で、知り合いで、

私のために一緒に加害者を怒るどころか、

加害者をかばったし。

 

 

いろんなことがあった。

 

いままで無理解な言葉に傷つくたびに、

「 ちがう、ちがうんだよ。

私は嘘を言っていないのに・・・・・

誰もわかってくれない・・・。」と絶望した。

ものすごい孤独感だった。

 

でも、そのたびに絶望して死んでいたんでは、

私の命はいくつあってもたりなかった。

 

脳脊髄液減少症の病名がなかった時代だから、

しかたがなかったとはいえ、

 

脳脊髄液減少症という交通事故後遺症に苦しんでいた私が

当時受け続けた無理解の心の後遺症は

今も癒されない。

 

長期の無理解にさらされた脳脊髄液減少症患者の、

心のケアまでは

まだ遠く及ばない脳脊髄液減少症の治療現場。

 

ブラッドパッチでさえ、今だ健康保険適用にならないのだから。

 

あの事故以来、

脳脊髄液減少症のせいで、

周囲からいろんな言葉で傷つけられつづけた。

医師の無理解も本当につらかった。

 

だから、

今更、どんな言葉を言われても投げつけられても驚かない。

驚かないけど、

ただ、ただ悲しい。

 

こんなことを言われ続ける、脳脊髄液減少症という、

理解されにくい病態が、ただ、悲しい。

 

今後の患者さんが、

私のような目にあわないように、

 

さまざまな症状を体験しつつも生き残った患者の私が、

その症状を詳しく書き記して

社会に

医療界に、理解してもらえるよう、

これからも伝えなければと思う。

 

 

 

 

 

 

コメント (10)
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