儀間真常は、ウム(サツマイモ)の栽培方法を普及
後に日本全国にも普及されていく
木綿(きわた)の栽培法と木綿織の普及
そしてサーター(砂糖)の製法を全島に広め
琉球国の産業の基礎を、国の主要産業として発展して行く
浄土宗学僧、袋中良定が仏学を求め
明国へ留学を志していたが
その頃の国際情勢は豊臣秀吉が朝鮮に侵攻によって
朝鮮を支持していた明国とは外交関係は悪く
日本人が明国に入国する事は困難な時だった
明国と外交関係あった琉球に1603年袋中五十二歳の時渡り
度明の機会を待ったが、琉球、外国船も
日本人を乗せるのを恐れて乗船できなかった
袋中は3年琉球に滞在することに成る
袋中は渡船の機会を待つかたわら
浄土宗の教えを、熱心に布教活動を行った
時の王尚寧や王府高官始め多くの人々が浄土宗に帰依した
真常も袋中の教えに深く帰依し
熱心な信者に成ったと言われている
真常は袋中から多くの教えを受け
そうして袋中から直筆の受了証たまわっている
仏学の願い叶わず、1606年袋中帰国する
その三年後1609年薩摩藩の侵攻を受け
尚寧王は薩摩に連行され
その後尚寧王一行(髄員約百人)は
将軍徳川秀忠に謁見のため江戸への道中
京都の伏見で尚寧王、真常も袋中上人と親しく再会している
那覇市奥武山町にある世持神社に蔡温、野国総官とともに
国の恩人として儀間真常も祀られている
儀間真常は功績により紫冠に叙せられ
儀間真常と称した
1644年八十八歳の時死去