青い銀河とオレンジの花 断片 2 生まれたころ 20200720
ぼくは今は静岡県浜松市で生きていますが、生まれは浜松ではありません。日本列島を遠く西日本へ、山口県光市というところです。
光市というと、共産党の宮本顕治さんの生まれたところ、と思う人もいるし、海軍工廠のあったところと思う人もいるでしょう。光市については父の自伝『落葉松』に詳しく書かれているので参考にして欲しい。『雨宮智彦のブログ』にも掲載しました。
ぼくの生まれたのは1951年(昭和26年)8月27日、光市浅江、中村住宅273号というところです。ずっとのち、30代になった頃になって「8月27日」は大好きな宮沢賢治さんの生まれた日だとわかって嬉しくなったことがありました。
父の書いてくれたメモによれば、次のようなふうだったそうです。たぶん父の書いている日記の転載だと思います。
「26年8月27日 予定通り本日、22時30分男児出生。由利夫【兄】の時より早し。助産婦を呼びにいったのが19時頃、一度来て、まだ間があるし、お客があるから十時頃又来ると云って帰ってしまふ。十時頃、痛み激しくなりてきたため、呼びにいきかけて【駆けて】来る。時に十時十分。生まれたのが25分頃、危い所なり。出るのが急なりしため、後腹が痛むよし。
講和を記念して名前は信頼と和解の講和より信和とつける。謝礼200000【20万円】なり。組合より50000祝あり。」
「9月27日 1ヶ月体重1010匁。由利夫と比較するに1ヶ月の増加が250匁ー100匁=150匁も多い。其の代り乳を良く飲むせいか足りない位である。」
「27年5月 はしか。発熱は二日のみ。由利夫よりずっと軽し。」
注) 1匁=3.75g、1010匁=3.78kg。
父が「講和を記念して名前は信頼と和解の講和より信和とつける」と書いているように当時は日米安保条約の締結交渉中で、新聞やラジオも大宣伝していたのでしょう。だからボクは本名の「信和」がすごく嫌いです。
雨宮智彦などのペンネームを多用するようになった原因かと思います。
秋10月だから、わずか2ヶ月のとき光から浜松へ移住しました。当然光市の記憶はまったくありません。ボクの小さい頃の記憶は、浜松の新町(しんまち)から始まります。