新・古代史ノート 6 過去記録3 西区雄踏町の息(おき)神社 20210203
< タイトルが前後して錯綜したため、すべて統一して掲載し直すことにしました。一度いや何度か読んだ方はごめんなさい。20210203 >
「雨宮ブログを検索すればわかることですが、遠州古代史の過去記録が膨大になるため自分で書いた原稿をみごとに忘れている場合もあります。自分の再認識のためにも「過去記録」の再掲載をしていきます。
過去に1枚しか使えなかった写真も掲載していきたいと思います。
新しい叙述は、もっと記録を勉強してからでないと、できません。
あるいはこれまで掲載しなかったものもボクのファイルのなかには、あるかもしれません。
「遠州の遺跡・寺社・地名 西区雄踏町の息(おき)神社の2
この息神社には、南北朝時代の2つの獅子頭(ししがしら)と、室町時代の7つの古面が伝わっています。獅子頭というのは獅子舞の踊りに使う木製の獅子の頭です。古面は、もちろん仮面劇で使われる、顔にかぶるお面のことですから、推測では、冬至の「能舞台」で使ったもの、あるいは能で使われることを想定して作られたか、奉納されたものということでしょうか。
獅子頭には「永和元年乙卯十月吉日」「応安七甲寅七月一日」とあるので、永和元年は南北朝時代の北朝の年号で、西暦1375年のこと、応安七年は1374年ですから、近接する1年3ヶ月くらいの間隔で2つの獅子頭は作られたか、奉納されたことになります。
この年代が「製作年月日」なのか「奉納予定年月日」なのかは、不明です。
☆
今日、書きたいのは、能面の方です。7つの能面のうちの1つの「女面」には、なんと「いらこ里う志ん参」という文字が記されているのです。
「いらこ里」とあるのは、この雄踏から船でそう遠い距離ではない、渥美半島の先端「伊良湖岬」の「いらこ」でしょう。だとすると、問題は「里」です。
8世紀初頭から、それ以前の「国ー評ー里」制から「国ー郡ー里」制へ替わり、さらに「国ー郡ー郷ー里」制に変わったのが、霊亀元年(西暦715年)です。そして郷の下の単位としての「里」が廃止されたのは天平十二年(740年)ごろですから、「里」の呼称は、正式にいえば、西暦740年以前ということになります。
「8世紀半ば以前の古面」??
観阿弥や世阿弥による「能」自体が室町時代なのに、「8世紀の能面」というのは形容矛盾ですね。でも、室町以前でも、日本列島には踊りもあり、仮面劇もあり、たぶん「面」もあったろうと思います。
「面」は、すべて室町時代以後の「能面」ということは言えないと思います。
☆
この面も含め、7つの面の「木材の科学的検査など」、現代科学による分析をおこなっていただきたいと思います。少なくとも、この「古面」の木材年代を推測することは可能ではないでしょうか。
☆
現時点で、可能な推測を言うなら、ここ雄踏の地の水軍ともつながりを持つ、渥美半島先端の「伊良湖岬」付近の「いらこ里」の女性、もしかしたら「う志ん(うしん)」という名前の女性が「女面」を作らせ、この息神社に奉納したのでは、ないでしょうか。
「う志ん参」は「う志ん参(うしん参る)」つまり、「う志ん」が息神社にお「参」りした)と解釈していいのでは?この「伊良湖里」の「う志ん」は、いったい何世紀の女性なのでしょうか?何才くらいの?どんな女性だったでしょうか?」
「遠州の遺跡・寺社・地名 西区雄踏町の息(おき)神社
バス停「宇布見浅羽」からへ → 信号 → バス停「図書館」 → 信号を南へ → 1本目の狭い道路を左(東)へ入ると、息神社です。もう少し東には、室町時代からの豪族の旧家「中村家」があります。
「延喜式神名帳」に載っている古い神社です。南向き。
どうして「息神社」が「おき神社」なのでしょうか?「さっぱり、わからない」と思っていたのですが、現地に行って、少し分かりました。
神社に立っていた説明版には、祭神が「志那都比古神、志那都比メ神、宇迦之御魂神、猿田彦神、大宮比メ神」の6神とありました。「主神夫妻」の志那都比古神、志那都比メ神」ですが、『古事記』の「国生み」の後の「神生み」の中に「風の神、名は志那都比古神(しつなひこのかみ)を生みたまふ」とあります。
つまり「風の神」なのです。『古事記』では、ここに1回だけ名前が出てくるだけで、いっさい伝承がありませんが、風の神なら神社名の「息神社」と合っています。
つまり「風の息」です。松本清張さんが『風の息』という現代史に題材を取った推理ドキュメンタリーを書いています。」
< タイトルが前後して錯綜したため、すべて統一して掲載し直すことにしました。一度いや何度か読んだ方はごめんなさい。20210203 >
「雨宮ブログを検索すればわかることですが、遠州古代史の過去記録が膨大になるため自分で書いた原稿をみごとに忘れている場合もあります。自分の再認識のためにも「過去記録」の再掲載をしていきます。
過去に1枚しか使えなかった写真も掲載していきたいと思います。
新しい叙述は、もっと記録を勉強してからでないと、できません。
あるいはこれまで掲載しなかったものもボクのファイルのなかには、あるかもしれません。
「遠州の遺跡・寺社・地名 西区雄踏町の息(おき)神社の2
この息神社には、南北朝時代の2つの獅子頭(ししがしら)と、室町時代の7つの古面が伝わっています。獅子頭というのは獅子舞の踊りに使う木製の獅子の頭です。古面は、もちろん仮面劇で使われる、顔にかぶるお面のことですから、推測では、冬至の「能舞台」で使ったもの、あるいは能で使われることを想定して作られたか、奉納されたものということでしょうか。
獅子頭には「永和元年乙卯十月吉日」「応安七甲寅七月一日」とあるので、永和元年は南北朝時代の北朝の年号で、西暦1375年のこと、応安七年は1374年ですから、近接する1年3ヶ月くらいの間隔で2つの獅子頭は作られたか、奉納されたことになります。
この年代が「製作年月日」なのか「奉納予定年月日」なのかは、不明です。
☆
今日、書きたいのは、能面の方です。7つの能面のうちの1つの「女面」には、なんと「いらこ里う志ん参」という文字が記されているのです。
「いらこ里」とあるのは、この雄踏から船でそう遠い距離ではない、渥美半島の先端「伊良湖岬」の「いらこ」でしょう。だとすると、問題は「里」です。
8世紀初頭から、それ以前の「国ー評ー里」制から「国ー郡ー里」制へ替わり、さらに「国ー郡ー郷ー里」制に変わったのが、霊亀元年(西暦715年)です。そして郷の下の単位としての「里」が廃止されたのは天平十二年(740年)ごろですから、「里」の呼称は、正式にいえば、西暦740年以前ということになります。
「8世紀半ば以前の古面」??
観阿弥や世阿弥による「能」自体が室町時代なのに、「8世紀の能面」というのは形容矛盾ですね。でも、室町以前でも、日本列島には踊りもあり、仮面劇もあり、たぶん「面」もあったろうと思います。
「面」は、すべて室町時代以後の「能面」ということは言えないと思います。
☆
この面も含め、7つの面の「木材の科学的検査など」、現代科学による分析をおこなっていただきたいと思います。少なくとも、この「古面」の木材年代を推測することは可能ではないでしょうか。
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現時点で、可能な推測を言うなら、ここ雄踏の地の水軍ともつながりを持つ、渥美半島先端の「伊良湖岬」付近の「いらこ里」の女性、もしかしたら「う志ん(うしん)」という名前の女性が「女面」を作らせ、この息神社に奉納したのでは、ないでしょうか。
「う志ん参」は「う志ん参(うしん参る)」つまり、「う志ん」が息神社にお「参」りした)と解釈していいのでは?この「伊良湖里」の「う志ん」は、いったい何世紀の女性なのでしょうか?何才くらいの?どんな女性だったでしょうか?」
「遠州の遺跡・寺社・地名 西区雄踏町の息(おき)神社
バス停「宇布見浅羽」からへ → 信号 → バス停「図書館」 → 信号を南へ → 1本目の狭い道路を左(東)へ入ると、息神社です。もう少し東には、室町時代からの豪族の旧家「中村家」があります。
「延喜式神名帳」に載っている古い神社です。南向き。
どうして「息神社」が「おき神社」なのでしょうか?「さっぱり、わからない」と思っていたのですが、現地に行って、少し分かりました。
神社に立っていた説明版には、祭神が「志那都比古神、志那都比メ神、宇迦之御魂神、猿田彦神、大宮比メ神」の6神とありました。「主神夫妻」の志那都比古神、志那都比メ神」ですが、『古事記』の「国生み」の後の「神生み」の中に「風の神、名は志那都比古神(しつなひこのかみ)を生みたまふ」とあります。
つまり「風の神」なのです。『古事記』では、ここに1回だけ名前が出てくるだけで、いっさい伝承がありませんが、風の神なら神社名の「息神社」と合っています。
つまり「風の息」です。松本清張さんが『風の息』という現代史に題材を取った推理ドキュメンタリーを書いています。」