雨宮日記 3月19日(土) 『資本論』学習会でチューターとして講義
浜松学習協でやっている『資本論』学習会で、チューターとして講義をしました。第1章第3節、第4節、第2章です。
マルクスが「困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、なにによって、商品が貨幣であるのかを理解することにある。」というところです。
つまり「どのようにして、なぜ、なにによって」ということですね。
なんとか終わりました。5ページの講義レジュメと5ページの参考資料をつくりました。この内容は、あとでまとめます。このブログに適当なかたちで掲載します。
午後は、ボクは疲れて2階で横になってグダグダしていました。則子さんは元気に静岡市へ出かけました。
浜松学習協でやっている『資本論』学習会で、チューターとして講義をしました。第1章第3節、第4節、第2章です。
マルクスが「困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、なにによって、商品が貨幣であるのかを理解することにある。」というところです。
つまり「どのようにして、なぜ、なにによって」ということですね。
なんとか終わりました。5ページの講義レジュメと5ページの参考資料をつくりました。この内容は、あとでまとめます。このブログに適当なかたちで掲載します。
午後は、ボクは疲れて2階で横になってグダグダしていました。則子さんは元気に静岡市へ出かけました。
イデオロギーを直ちに科学と理解するのはスターリニズムの一つの内容をなすものであるが、これは何よりもまず科学がどんな認識であるかを明らかにしないことにみられる。科学は事実の分析によって現象の本質を把握した認識である。従って、即自的な労働者階級のイデオロギーを直接に科学的認識であるということはできない。
見田石介は科学とイデオロギーの区別については、それほど詳しく展開しているわけではないが、『科学論』や『資本論の方法』などのその科学的認識論の展開はまず「科学とは何か」ということを明らかにすることによって、この区別の理論的基盤を形成したといってよい(P62)。
* 引用:『唯物論と現代』17号1996.8
見田石介先生における科学的精神とイデオロギー(上野俊樹)