『落葉松』「文芸評論」 ㉔ 「浜松詩歌事始 後編 大正歌人群 3」
福男は「アララギ」に入会したとき、岡麓を選者に選んだ。アララギも初期の頃は雑誌代を払えば何首でも自由に歌を載せることが出来たが、大正二年(第六巻)から会員組織にした。特別会員は五十銭出資して五十首、普通会員は三十銭で二十五首を投稿できた。
大正四年(第八巻)編集担当が茂吉より赤彦に代わると同時に、選者を赤彦・千樫・憲吉・茂吉の四人が分担して選歌を掲載することになった。これは会員が増えたためであった。しかし専属的な制度にすると、党派的な弊害が生じるであろうと投稿者を順廻りに各選者に廻していたが、いつしか自然的に師弟の関係が固定するようになっていった。福男が麓を選者に選んだのも自然の成行きであった。
子規没後十五年程歌を離れていた麓が、憲吉の進めで復帰したのは大正五年であった。根岸派としては左千夫、長塚節亡きあと子規直門の最長老として麓を迎えた。茂吉はこの大正五年を以て、歌壇の主汐流をアララギが形成したと考える、と言っている。
大正十一年の選者は麓・赤彦・千樫・憲吉・文明・土田耕平の六氏であった。茂吉は文部省在外研究員としてドイツに滞在(大正十~十四年)していた。
「岡麓 通称三郎 明治十年三月三日本郷金助町に生る 三谷ともいえり はじめ傘谷(からかさだに)という 歌を詠み書を教えて一生をおはる」
これは麓が自分の写真の裏に書きつけた自伝である。岡家は代々幕府の御典医で、祖父は十三代将軍家定付の漢方医であった。長兄、次兄が他界したので岡家を継いだ。生家は歌を離れているとき手放して出版社を経営したが、武士の商法で失敗し、聖心女子学園で周治担当の教師を、代々木山谷の自宅では書道塾を開いていた。前編で多田親愛に仮名書を習い、後年生活の資となったと話したのはこのことである。
「都雅で軽妙なところがあると思えば、奥の方に渋みがあり、艶もあり、円味もあり、深いあわれもある」と茂吉は麓の歌を評した。
すみすりてよこれたる手をあらはむと
月夜あかりにこほりをたたく
麓直筆の短冊が掛軸に表装されてわが家に残されている。
庭すみに束ねられたる紫陽花の
新芽に今朝も氷雨(ひさめ)ふりつぐ
その麓に師事したのが福男である。
「アララギ浜松短歌会の主導的人物といえばこの人にまず指を屈するだろう。浜松市書店主・歌人 中谷福男氏。浜松市の谷島屋書店の番頭を二十年間つとめ歌道に入ってから三十年という歌歴の持主。気分の転換や頭の大掃除には歌がなによりの良薬という。
自然美や人間美を深く広く表現したいと理屈抜きで親近感の歌が得意のこの人は、みえすいたお世辞がいえず俗気がなさすぎて経済的には貧困だという。練達の写実精神が商道に生かされたらと評している人が多い。「金に執着していては立派な歌は出来ません。早い話が点のつけどころ、句読点のおきどころで別の意味になる」とごく平凡に〝平凡の開眼〟をしてくれる。
東京開成中の出身で同校の先輩斉藤茂吉博士に師事(一年生のとき、茂吉は五年生であった)。雅号はなく、浜松市新町に書店を持ち、晴耕雨読が日常の仕事。お酒は好まず甘党。軽妙なしゃれも得意だが、反面〝失笑症〟ではないかといわれるほど謹厳なところがある。極端な考え方の出来ない典雅な人というのが一般の評。引佐郡の産(編注①)、本年六十五才。」
以上は、某新聞。県版の「顔」欄に載った(昭和二十八年、月日不明)。大体的を射ている。茂吉を訪ねた時の歌がある(昭和九年)。
をやみなき秋雨のなかたずねつつ
脳病院に今ぞ参りぬ
(世田谷区松原の青山脳病院)
< 続く >