本と映像の森 267 内田樹『邪悪なものの鎮め方』<文春文庫>、2014年
この本で内田さんが語る「邪悪なもの」とは、むろん悪魔とかゾンビーとかエイリアンとかそういうものではありません。内田さんいわく「どうしていいかわからないけれど、何かしないとたいへんなことになるような状況」です。
その「どうふるまっていいかわからないとき」に適切にふるまうことができる人がいる。
「「邪悪なもの」をめぐる物語は古来無数に存在します。そのどれもが、「どうしていいかわからないときに、正しい選択をした」主人公が生き延びた話です。主人公はどうして生き延びることができたのでしょう。
私自身のみつけた答えは「ディセンシー(礼儀正しさ)」と、「身体感度の高さ」と、「オープンマインド」ということでした。どうしてそういうことになるのか。それについては本文をお読みください。」【雨宮注 たぶんそうだろうと思います。たとえば「ゲド戦記」、アニメ映画はそれが監督がそれを理解できなくて、ひどい話になってましたね】」
以下、内田語録です。本文全体を読んで欲しいです。
「「システム」はもともと「人間が作り出したもの」である。それがいつのまにかそれ自身の生命を持って、人間たちを貪り喰い始める。」(p19)
「私が今あるような人間になったことについて私は誰にも責任を求めない」(p25)
「年齢や地位にかかわらず「システム」に対して「被害者・受苦者」のポジションを無意識に先取するものを「子ども」と呼ぶ。「システム」の不都合に際会したときに、とっさに「責任者出てこい!」という言葉が口に出るタイプの人はその年齢にかかわらず「子ども」である。」(p43)
「現代日本は「子ども」の数が増えすぎた社会である。もう少し「大人」のパーセンテージを増やさないとシステムが保たない。‥‥「そういうのだったら、私やってもいいです」という奇特な方が若い人の中から少しばかり出てきていただければ、それで頭数としては十分である。」(p44)【雨宮注:小松左京さん原作・コミック『日本沈没』全20巻、はまさしく「私やってもいいんです」という物語である】
「宗教的経験は「よくわからないもの」の宝庫である。それはさまざまな仮説の生成をうながす栄養豊かな培養器のようなものだと私は思っている。」(p82)
「以前精神科医の春日武彦先生から統合失調症の前駆症状は「こだわり・」プライド・被害者意識」と教えていただいたことがある‥‥ご本人はそれを「個性」と思っているだろうが、実は「よくある病気」なのである。統合失調症の特徴はその「定型性」にある。‥‥健全な想念は適度に揺らいで、あちこちにふらふらするが、病的な想念は一点に固着して動かない。その可動域の狭さが妄想の特徴委なのである。」(p93)
「こういうのはある種の身体的感覚のようなものだと思う。ときには「全体を俯瞰し、最適解だけを選び続けるスマートネス」を断念しないと身体が動かないという局面があること。どこで、誰が自分を必要としているかを直感する力、頼れる人と頼りにならない人を識別する感受性がこういう状況ではたいへん高くなるということ。そういったことを私は震災経験から学んだ。」(p122~123)
「道徳律というのはわかりやすいものである。それは世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、愉快にくらしていけるような人間になるということに尽くされる。それが自分に祝福を与えるということである。世の中が「自分のような人間」ばかりであったらたいへん住みにくくなるというタイプの人間は自分自身に呪いをかけているのである。この世にはさまざまな種類の呪いがあるけれど、自分で自分にかけた呪いは誰にも解除することができない。」(p153~154)
「「詰め込み勉強」‥これは知性の実相とはほど遠い。知的パフォーマンスの向上というのは「陽気の中に詰め込むコンテンツ【内容】を増やすこと」ではないからである。ぜんぜん違う。容器の形態を変えることである。変えるといっても「大きくする」わけではない(それだとまだ一次方程式的思考である)。そうではなくて、容器の機能を高度化するのである。問題なのは、「情報」の増量ではなく、「情報化」プロセスの高度化なのである。」(p183)
「逆に、想像力の弱い人間は、個体としての自分の死さえうまく想像することができない。‥でも、「死んだ私」という想像的視座に立つことなしには、「今、この瞬間のリアリティ」を形成することはできないのである。」(p198)
「小成は大成を妨げるというのは甲野先生のよく言われるところであるが、それはほんとうで、局所的に機能する方法の汎通性を私たちは過大評価する傾向にある。「原則的に生きる人」はある段階までは順調に自己教化・自己啓発に成功するが、ある段階を過ぎると必ず自閉的になる。そして、どうしてそうなるのか、その理路が本人にはわからない。‥‥そして、知識があり、技能があり、言うことがつねに理路整然とした「幼児」が出来上がる。
若い頃にはなかなか練れた人だったのだが、中年すぎになると、手の付けられないほど狭量な人になったという事例を私たちは山のように知っている。彼らは怠慢ゆえにそうなったのではなく、青年期の努力の仕方をひたすら延長することによってそうなったのである。
これを周囲の人の忠告や提言によって改めることはほとんど絶望的に困難である。本人が自覚するということも期しがたい。そういう人を見たら、私は静かに肩をすくめて立ち去ることにしている。」(p266~267)