新・本と映像の森 335 三島由起夫『潮騒』新潮文庫、1955年
新潮社、158ページ、定価80円。
三島由起夫『潮騒』は愛知県の歌島の自然を舞台にした恋愛小説です。
主人公は島に育った久保新治という若者と宮田初江という志摩の海女にもらわれ島へ呼び戻された少女。
新治の敵(かたき)役が青年会の会長で名門の生まれの安夫。安夫は初江を結婚相手としてねらっている。
「ダフニスとクロエ」のようなギリシア的恋愛物語という世間と評論家の批評で、ボクもそれを信じていたが、その後、三島由紀夫さんの軌跡と右傾化とホモセクシャル指向を知るにつけ、50年経過して『潮騒』も一筋縄ではいかないのではないか、と思うようになりました。
いま感じるのは久保新治と宮田初江が人形のように感じられ、自分の思考と自分の感覚があまり感じられないということ。
それが正しいのかは、わからないが。ボクは自分の感覚と自分の思考をだいじにしたいと思っています。
いま手元にある古い新潮文庫版は表紙カバーもなくなり、「雨宮蔵書1970年3月4日」という赤いインクの大きなハンコが押してあります。その前ぐらい、19才のときに買ったことは確かです。
初江を新治と安夫、2人の若者で取り合う構図になるが、実は小説にはさりげなく描かれた男性への視線が存在する。
第七章で新治の弟の宏が関西への修学旅行に出発した連絡船神風丸で鳥羽港から島へ春休みで東京から戻ってきた千代子である。
千代子は灯台長の娘で東京へ大学に行っている。島には珍しいインテリだ。いうなら三島由紀夫さんにもっとも近しい存在ではないのか。
千代子が自己の女としての肉体に自信がないのも、自分の男性としての肉体に自信がない三島由紀夫さんと相似ではないのか。
もっと言ってしまえば小説で三島由紀夫さんが自分を千代子に仮託し、若い男性=新治に恋するものとして「告白」したのではないか。
もうひとつは共同体や伝統や信仰がMなぜ小説にはあらわれないのか、ということです。つまり「歌島」.。
小説の冒頭では「八代神社には六十六面の銅鏡があった。」(p6)と述べられています。それは小説の単なる背景として書かれているだけです。
そのような三島由紀夫さんが、なぜその後の「天皇信仰」に入っていったのか、ボクはやはり共同体や伝統や信仰を無視していたもとが原因の1つなのではないかと思います。
このことは後日あらためて展開するつもりです。
この2つの考えを絶対化するつもりもありません。もっと三島由紀夫さんのことを探索してみたいです。手始めに浜松市立中央図書館にある『三島由紀夫全集』を読んでみたいです。
なお、作品のおわりに「一九五四年四月四日」と書いてあるのは何か意味があるか?