雨宮智彦哲学経済学メモリー 28 20200402 人間・心・集団の学習 4 人間性と人格と労働・交通能力 20100403
「人間・心・集団の学習 4 人間性と人格と労働・交通能力
2010年04月03日 16時54分56秒 | 人間・生命・宇宙
「人間・心・集団の学習」の続きです。
「3」で森繁久弥さんが人間を「芸+人」でとらえるようになった話を書きました。
人間の中核、人間性の中心には人格(パーソナリティ)があると思うのですが、それが森繁さんのいう「人」です。
森繁さんのいう「芸」は人間が母親の体内で誕生(精子と卵子の結合)してから、身につけて習得していく能力をさします。
もちろん生まれながらの能力もあると思います。
この能力は、通常、大人では「労働力(労働能力)」として扱われ、いま地球上で生きている人間の大人の多くは、この労働力を月きめ、日ぎめで契約して会社に雇われて支払われた給料で商品を買って生きています。
そうでない、自分で生産した農産物で生きている人もいますし、自分で生産した商品を売っていきてく自営業種もいます。
問題は、この労働力と人格との関係です。
たとえば、芝田進午さん著『人間性と人格の理論』(青木書店、1961年、1990年第39刷)では、こう書かれています。
「この人間性の具体的現実存在、すなわちこれらの諸能力のにない手が,本来の「人格」(パーソナリティ)にほかならない。マルクスはいう。
「われわれが労働力または労働能力というのは、人間の身体すなわち生きた人格のうちに実存して かれがなんらかの種類の使用価値を生産するたびに運用する、肉体的および精神的諸能力の総計のことである。」」(第6章 人間性と人格の形成、129ページ)
そこから芝田さんは、「人格、あるいは労働能力」と、人格と労働能力を同一視します。
しかし、これはマルクスさんの労働力の定義の読み誤りではないでしょうか。
マルクスさんは「労働力」が「人間の身体すなわち生きた人格のうちに実存」すると言っているのであって、労働力は人格のことであると言っているのではありません。
たとえばマルクスさんは同じ『資本論』のもっと前の「第1章 商品」で、こう書いています。
「たとえば、1クォータ-の小麦=aツェントナーの鉄」「この等式はなにを意味するか?同じ大きさの1つの共通物が二つの異なった物のなかに、すなわち1クォータ-の小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも,実存するということである」(Ⅰa、63ページ、原書51ページ)。
つまり、マルクスさんは小麦と鉄「のなかに」、小麦や鉄とは異なった別のものが「実存する」と述べています。
すこしあとで、それは「価値ー商品価値」であると述べています。
もう一度,マルクスさんの文章を読みます。
「われわれが労働力または労働能力というのは、人間の身体すなわち生きた人格のうちに実存して かれがなんらかの種類の使用価値を生産するたびに運用する、肉体的および精神的諸能力の総計のことである。」
つまり「労働力または労働能力というのは、人間の身体すなわち生きた人格のうちに実存し」ている。
マルクスさんが労働力は人格ではないと述べていることは明白であると思います。
ただし、「生きた人格」という用語は、単純に「人格」そのものではないようにも思います。また学習します。
労働力は人格ではないということは、マルクスさんが労働者は労働力を限定的に契約で売るのであり、自分を丸ごと売るのではないという意味を『資本論』でも述べていることでも明らかであると思います。
私は人間を2つの部分に分け、人格(魂)と能力は別のもので、人格が人間の司令塔・判断能力をつかさどる重要部分であると思います。」