雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

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雨宮家の歴史 9 父の著『落葉松』 第1部の6 東京開成中学校

2013年05月04日 20時01分06秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 9 父の著『落葉松』 第1部の6 東京開成中学校

( 五 ) 朝富士夕筑波を眺め通いし
             少年時の墨堤(ぼくてい)今も眼に見ゆ
                    (  昭和四十六年  )

  「私は小学校を赤羽(あかばね)と向島(むこうじま)の二校で過ごしたが、いわゆるよそもので、同級生はおろか学校そのものの、その後も知らない」と、福男は回想している。赤羽は赤羽小学校であろうが、向島へはいつ移ったのであろうか。

 「赤羽倉庫在勤被差免    本廠附被申付
       明治三十年十一月十一日
               陸軍被服廠」

  被服廠は、日清戦争が始まると、麹町区霞ヶ関、京橋区築地その他に派出所・倉庫を建てて戦用被服諸品の調達、補給に任じた。戦後その内の本所区横網町の倉庫所在地に、被服廠庁舎を移して本廠とし、赤羽を支倉庫とした。それが明治三十年三月であったから、向島へは辞令の日付のように、その年の十一月であったろうか。

   本廠は、両国国技館の北に当たり、今は墨田区である。しかし、本所と赤羽の二っにわかれていると、いろいろと不便があった。その為赤羽に集中することになり、大正八年八月本所の本廠全機関も赤羽に移った。こうして被服廠は終戦まで赤羽にあった。もし本所に残っておれば、関東大震災時の被服廠跡の惨事は起こらなかったであろう。


  「大正十二年九月一日、旋風の大きさは国技館ぐらい、百ないし二百メートルという高さだったという。間もなく横網町の河岸に上陸した。被服廠跡の空き地に避難していた群衆の荷物、着物に燃え移り、火の海となった。たちまち、一場の焦熱地獄を現出し、三万八千余人の命を奪い去ったのである」(『墨田区史』)
  今、この跡地に、震災慰霊堂や今次の東京大空襲慰霊堂が建っている。

  向島は向島小梅町一九五番地で、言間橋(ことといばし)と吾妻橋の間の東岸に当たり、今は向島一丁目で、牛島神社がある。ここに陸軍官舎があった。小学校はその北側に現在ある墨田区立小梅小学校である。            

  福男は明治三十三年四月、東京開成中学校に入学した。              

 「私の住んでいた明治三十五、六年ごろは、隅田川の水もきれいで、冬の朝など霧が立ちこめて対岸が見えず、桜の名所の向島の堤の下では(天気がよければここから向こうに筑波山が見えた)小舟が三角形の網を使って小魚を捕っていた。また冬の天気の良い日には、遙か西空に白く雪の覆われた富士山が王者のように控えていた。

 隅田川を渡るには吾妻橋が一番近く、これを渡ると浅草観音で、有名な駒形どじょう汁の店も近い。当時の少年の私には、榎本武揚(えのもとたけあき)の存在が大きかった。屋敷もどこだか分からぬが、兎に角向島より奥の方である。(長命寺の近くであったー筆者)

 朝、神田の学校へ通うので、向島の堤を吾妻橋の方向かって行くとき、二頭仕立ての馬車に悠然と乗ってあごひげを左右に分け、風になびかせて行く姿には、あれが五稜郭の戦いで有名をとどらかせた人かと、仰ぎ見たのであった」(福男雑文集)。
 
 開成中学校は当時神田の昌平橋にあった。まだ市電も無く歩いて通った。一時間ぐらいかかった。その時見た筑波も富士も今は見ることが出来ない。神田の校舎は関東大震災の時焼けて、今は西日暮里に移った。
 

 神田の淡路公園に「開成学園発祥の地」と書かれた石碑がある。公園といっても、子供のブランコや滑り台のある遊園地で、その草むらの奥の方に埋もれている。校長は田辺新之助(おでこだったのでデコ新と言われた)、同級生にのち東大法学部長となった末広巌太郎がいた。ガンちゃんといって一緒に遊んだそうである。

  開成の校友会誌第三十号(明治三十六年二月)に「天竜川の夕」と題して福男の文が載った。

  「天竜川は洋々として、北より南に向かって流れている。向岸には面白そうな歌をうたっている船人が、一列になって、夕日にきらきら光っている小石をふみながら、綱で船を引っ張っている。川の中流には、船の割には大きい白帆を、北風に孕ませながら、一帆の舟が走っていたが、流れが早いためか、たちまちかくれてしまう。すると間もなく又、山と山の間から、夕日を浴びて見えてくる。

 日は今、西の森に沈もうとして、一筋の光が樹の間から洩れてくる。やがてその光もうすらいで、山寺の鐘が余韻を曳いて鳴りひびくと、山家の子どもが足でもそそぎに来たのであろう、熊笹を押し分けて降りて来た。其衣服は木綿のきれぎれを綴りあわせたものであるが、顔にはどことなく愛らしい影が宿っていた。」(現代仮名づかいに直してある)。

  卓二の生家、天竜市船明を訪れた時の事だと思うが、当時の天竜川の状景が鮮やかに浮かび上がってくるようである。

  福男が入学した時に、最上級生に斉藤茂吉がいた。無論その時は知る由もなく、後年アララギに入会した折りに知った。伊藤左千夫を中心にアララギが創刊されたのは明治四十一年であり、茂吉が東京帝国大学医科大学を卒業したのは四十二年、四十四年一月からアララギの編集を担当するようになった。


  向島にいたころ『少年世界』の愛読者で、毎号博文館から配達されてくるのを待ち続けた思いは今も忘れない、と言っている。『少年世界』は巖谷小波(いわやさざなみ)が童話の世界を開拓して創刊した雑誌である。

 開成の校友会誌の文章といい、文学少年だったようで、後年の書店勤め、アララギ入会、古本屋開業も、皆その尾を引いている。
 福男は、明治三十八年蛍雪の功なり、開成を卒業した。

 「 第八七四号     卒 業 証 書
          静岡県平民     中 谷 福  男
                     明治二十一年八月生
   中学ノ学科ヲ修メ成規ノ試業ヲ経テ正二
  其業ヲ終ヘタリ  ヨッテ此証書ヲ授与ス
       明治三十八季四月十五日
   東京開成中学校長    田辺新之助 」

  福男の卒業証書は先年、開成学園に寄付した。開成にも無いそうで、大判和紙づくりの立派なものであった。戦前には、平民という訳の分からない言葉があった。私たちも履歴書の名前の筆頭には必ず書かされたものである。この風習は昭和二十年八月の敗戦まで続いた。

 


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