雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

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落葉松』「文芸評論」 ㉒ 「浜松詩歌事始 後編 大正歌人群 1」

2017年09月18日 11時54分53秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「文芸評論」 ㉒ 「浜松詩歌事始 後編 大正歌人群 1」


 Ⅲ 6 大正歌人群 ー浜松詩歌事始 後編

 大正十三年一月三日、「新年遠江短歌大会」が弁天島の泊砂亭で開かれた。この歌会は聖樹(せいじゆ)社(磐田中泉)、落葉松(からまつ)社、谷島屋タイムス社、犬蓼短歌会の連合で開催された。その頃、遠江の短歌界は最盛期で、歌人たちはそれぞれ精進して、ここに大連合して一同に会した。

 平成二年三月十日付『静岡新聞』の「懐かしの写真館」に「遠江の歌人ら大連合」の見出しで、その時の写真が載った。

 参列者は、後列は、花井陽三郎、白井善司(しらいぜんじ)、野沢虎造、赤井哲太郎、旭赤光(あさひしやくこう)、柳本城西(やなぎもとじようせい)、袴田恵丹(けいたん)、近藤用一、蒲清近(かんばせいこん)、宮崎狐星、江間作一、山本誠一、林俊三。

 前列は、永田武之(たけし)、宇波(うなみ)耕作、瀬川草外(そうがい)、加藤雪膓、鈴木肇(はじめ)、松山草平、中津川空郎(あきお)、世話役の中谷福男。当日出席していた久野養、石川新作、他一名の三氏は写真欠。合計二十四名でした。城西、草外の医師は洋服姿、他は全員和服姿でした。弁天島の松林も懐かしく、当時を偲ぶ一枚の写真でした。

 子規直門の県下一の俳人と目された雪膓が単価に転じたのは明治四十四年であった。大正二年に伊藤紅綠天らと「曠野会」を設立、「第三者」なる機関誌を発行した。紅綠天は大正四年に二十二才の若さで死去し、遺詠『雁來紅(注1)』を雪膓の「彼の純な心境と清い風格とを永遠に偲ばんとするものである」を結語として第三者社より刊行した。

 雪膓は明治三十五年、文検に合格して中等教員となり、明治三十八年以来、浜松中学校(現浜松北高校)教諭だったが、大正五年八月、十四年間に及ぶ教員生活に別れを告げ、明石合名会社(石油販売)に入社し、大阪出張所長として大阪に赴任し、一人で専ら短歌に精進していた。大正十一年、出張所閉鎖により帰浜したが、ちょうど浜松地域に近代短歌の芽ざしが出始めた時であった。

 大正十一年四月一日に、当市の青年歌人奥村晋・細田西郊等の同人の手により短歌雑誌「まんだら」が創刊された。(『谷島屋タイムス』第三号(大正十一年三月))

 二号は五月、三号は六,七月合併号として七月に発行されたが、三号で終刊となった。寄る辺を失った歌人たちは、画策を考えたが「木犀(もくさい)歌会」なる名目で歌会を大正十二年一月三日、浜松城跡の天守閣楼上で行うことにした。ちょうど頭首の「新年遠江短歌大会」の一年前のことであった。当時の天守閣には畳敷きの部屋があった。当日は雪の降る寒い日であった。この歌会を「天守閣歌会」といった。

 雪膓と浜松歌人たちとの接触はこの時からで、雪膓宅で毎月歌会が開かれた。当時雪膓の住まいは中沢町の楽器中通りにあり、入り口の受付に卓子があり、令息の万古刀氏が玄関番をしていた。歌会では同人たちが夜の更けるまで過ごした。議論は大抵雪膓と草外の間で行われ「異論のある方は遠慮なく言ってくれ給え」という雪膓の鋭い舌鋒に立ち打ち出来るのは、東北人特有のねばり強さを持つ草外より他に無かった。

 草外は本名を瀬川深と言い、岩手県盛岡中学校の出身で、同窓の石川啄木と親交があった。「谷島屋タイムス」九十七号(昭和十一年十一月)に「啄木の追憶」の一文を寄せた。

 「僕が啄木を知ったのは中学二年からで、啄木は三年であった。当時、盛岡中学校の先
輩には及川古志郎(海軍中将)、野村胡堂(作家)、金田一京助(国文学者)等がおった。」

 「啄木が中学を去り上京する三十五年十月まで僅か三年間、僕は絶えず啄木と往来し渋民村へも何回も行って泊まったりした。」

 中公文庫『日本の詩歌③石川啄木』の年譜(明治三十四年 十六才)に「十二月三日『岩手日報』に石川翠紅(すいこう)の筆名で友人の瀬川深らと「白羊会詠草(一)夕の歌」を発表、啄木の活字になった最初の作である」とある。啄木と号するようになるのは明治三十六年(十八才)、『明星』に長詩を発表したときからである。

 草外は昭和十三年十一月十八日、誠心高等女学校での講演(『谷島屋タイムス』の編集人でもあった同校教諭中村精の要請によるものと思われる)でも「私が啄木と仲よくなりましたのは啄木が三年生で私が二年生の時でした。しかし、私は啄木の研究者ではありません」と言っている。(文献①)

 草外は伝馬町の羽公宅に下宿して俳句もやり、のちに元城町に小児科医院(京大医学部卒)を開業した.戦争で消失するまであったように思う。

 『まんだら』廃刊よりちょうど一年経った大正十二年七月、『落葉松(からまつ)』が創刊された。同人は中谷福男、近藤用一の両人で、発行所は東伊場八十八番地の中谷福男宅であった。

 「かねてから心に計画はあったが、こう突然的に創刊号を出し得るとは思わなかった。之は全く加藤雪膓、瀬川草外両先生始め皆様の深い御援助と近藤用一君の努力の賜(たまもの)であります。私達は乏しい力を奮って軌道の為につくす積もりです。華美より質素に、到達すべき彼岸は遠いが長い歳月は必ず我らの望みを入れて下さる筈です」(福男)

 「明るい小ぢんまりとした中谷兄の二階で机にむかって、よねんなく之から生まれる「落葉松」の編集をしている。隣りのトタン屋根にさやる雨の音を聞きながら,包みきれぬ喜びをおさえ集まった歌稿を整理している。一月雪膓先生を訪ねて、かねての計画について意見を発表した。先生は両手をあげんばかりに賛同して下さった。私等の歩みはおそい、けれどもたゆまぬ努力をしてこの芽生える「落葉松」も諸兄のいつくしみある御同情によって青々とした緑の繁らん事を望んでやまない次第です。表紙の誌名及びカットは相生垣貫二氏(注3)が特に私達のために描いて下さいました。厚い御同情をお礼申します」(用一)

 本誌はアート紙八頁の緑色印刷であった。出詠者は宇波耕作・川島菊子・加藤雪膓・江見孝子・松倉水声・袴田惠丹・山田千之・細田西郊・松浦辰治・亀井静子・蒲清近・奥村晋(遺稿)・近藤用一・中谷福男の諸氏であった。

 大正十三年五月の十一号を以て誌名を『はりはら』と改め、九月に十二号を発行した。用一は同人を退き、雪膓・草外・寂村・武之・福男の五氏が同人となったが、十四年五月の二十号を以て終刊となった。

 その後、東城・福男の二人で『アカシア』をガリ版刷りで発行したが、之も翌十五年の九月に九号を以て終えた。

 
< 続く >


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