雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 8月27日 ボクの誕生日でしたが(59才)

2010年08月28日 05時26分10秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 8月27日 ボクの誕生日でしたが(59才)

 小さい頃、「なぜボクの誕生日は夏休みの終わりなんだろ」と呪ったことがあります。だいたい、8月の末で、忙しくて見捨てられます。
 それは今も同じですね。
 夜の9時頃になって台所でN子さんが「今日、智彦くん、誕生日だったね」というので、「うん」と答えておきましたが。
 夏は睡眠がとれないので少し寝て起きたら、午後11時半でした。
 階段のところにいた長女のIさんが「お父さん、誕生日おめでとう」と言うので「ありがとう。お母さんは?」というと「寝たんじゃない?なに?」「うーん、何もくれずに寝ちゃった」というと笑って「明日に期待したら?」と。

 まあ、あんまり期待できませんが、N子さんに「○○○○が欲しい」と言ってみようかな?

 さわやかに、スッキリと生きたいと思いますが、なぜか「雨宮日記 8月26日(木) ベキベキ通信・ネバネバ通信」の補足です。

 なぜ「べきべき人間」「ねばねば人間」になれるのか、です。
 それは、やはり長い間、指導部的な位置にいたりして、他人に指図するのが身についてくる、別のことばでいうと「自分が偉い、いつでも他人を指導する正義の人間なんだ」という「物語」を信じてしまうからではないでしょうか。

 国同士が人口や国力が大きかろうと小さかろうと、対等平等であるように、政党同士が対等平等であるように、人間同士も能力があろうとなかろうと対等平等なのですが、そういうこともわからなくなってるのではないでしょうか。
 
 だから絶対命令である「べき」とか「ねば」ではなくて、「したいです」とか「してみたら」とかいうソフトな提案・相談ならいいんですけどね。
 
 自分が、自分の正しさを確信するあまりに、他の道の可能性を否定していないか、科学の目で、N子さんやほんとの「旅の仲間」と相互点検をして生きていきたいと思います。
 そういう自分たちを保持するためには、自分たちのなかの弱点・欠陥を平気で捨ててしまう覚悟はいりますね。
 ちゃんと、そういうごみを捨てることができれば、すごくスッキリして身軽になれます。これはぼくたちの経験です。

 N子さんが言うには「だからね、智彦くん、部屋の不要な物を捨てれば、すごくスッキリするよ。これは命令じゃなくて、提案です」と。
 はい、提案は少しづつ実行します。ありがとうございます。

 写真は早朝の馬込川です。
 最近、こういう「空」にこっています。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。