雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

新・本と映像の森 336 G・ガルシア・マルケス『戒厳令下チリ潜入記』岩波新書、1986年 20200705

2020年07月05日 10時23分43秒 | 雨宮日誌

新・本と映像の森 336 G・ガルシア・マルケス『戒厳令下チリ潜入記』岩波新書、1986年 20200705


 後藤政子/訳、副題「ある映画監督の冒険」、225ページ、定価480円。

 チリクーデターは1973年の9月11日に起きた。偶然の一致だがアメリカでの同時多発テロは2001年です。まったく関係はないですが。権力者の陰謀という意味でならあります。

 チリクーデターで「死者4万、行方不明者2千、亡命者百万」(p218)といわれています。

 映画監督ミゲル・リティンさんはクーデターで危うく銃殺を逃れ国外へ脱出、12年後の1985年に6週間チリに公然と入国、映画撮影を監督しました。

 これを作家G・ガルシア・マルケスさんがインタビューしミゲル・リティンさんの語り・ドキュメントとしてまとめた極めて興味深い記録です。

 ミゲル・リティンさんは「金持ちのウルグアイ人」に変わり、身近な人々も気がつかないくらい巧みな変装で祖国へ帰る。

 なにしろチームの人間でヨーロッパで出会っていてもミゲル・リティンさんと気づかず、トラブルを起こしそうになったのだ。

 そして偶然、サンチアゴの街頭で義母(妻の母)と至近距離ですれちがうが、ついに気づかれなかった。

 全編にわたってチリの息吹に満ちているが、やはり大統領サルバドール・アジェンデと詩人パブロ・ネルーダの声や行動がつねに響いていて、胸をうちます。

 モネダ宮やイスラ・ネグラはとくに。

 チリでは「この本が1万5千部ほど焼かれたそうです。」(『朝日ジャーナル 1987年9月25日』p92,千本健一郎「ミゲル・リティン インタビュー」)

 ボクはまだ見ていないリティンさんの映画『チリの全記録』を見たいと切に思う。



雨宮日記 2020年7月4日(土) 球磨川が大氾濫

2020年07月04日 16時45分21秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 2020年7月4日(土) 球磨川が大氾濫

 お昼のニュースで九州の熊本県球磨川が大氾濫。

 大水害も異常高温も超大型台風も、同じ地球異変のあらわれ・現象だということが大事だと思う。

 これはきちんと展開したい。

 パソコンの打ち過ぎなのか、左腕の筋肉が痛い。連続使用は注意しないと。

    ☆

 則子さんにコジマでプリンターインクを買ってきてもらった。4色で1つ1000円くらい。4年以上、ブラックインクだけでガマンしていたので、カラーインクを買うのはたぶん5年以上ぶり。



雨宮日記 2020年7月3日(金) 政治も社会も動いている

2020年07月03日 16時39分10秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2020年7月3日(金) 政治も社会も動いている

 イージス・アショアミサイルの日本配備中止。安倍内閣の凋落か。

 コロナ新型ウイルスでふたたび危機?香港で中国政府が強権発動か。政治も社会も動いている

 きのうの2日は午前2時半ごろ、関東上空で「大火球」が落ちた。音も聞かれた。

 東京では横田基地でアメリカ軍のパラシュートが基地外に落ちた。




新・本と映像の森 335 三島由起夫『潮騒』新潮文庫、1955年

2020年07月02日 21時33分31秒 | 本と映像の森


新・本と映像の森 335 三島由起夫『潮騒』新潮文庫、1955年


 新潮社、158ページ、定価80円。

 三島由起夫『潮騒』は愛知県の歌島の自然を舞台にした恋愛小説です。

 主人公は島に育った久保新治という若者と宮田初江という志摩の海女にもらわれ島へ呼び戻された少女。

 新治の敵(かたき)役が青年会の会長で名門の生まれの安夫。安夫は初江を結婚相手としてねらっている。

 「ダフニスとクロエ」のようなギリシア的恋愛物語という世間と評論家の批評で、ボクもそれを信じていたが、その後、三島由紀夫さんの軌跡と右傾化とホモセクシャル指向を知るにつけ、50年経過して『潮騒』も一筋縄ではいかないのではないか、と思うようになりました。

 いま感じるのは久保新治と宮田初江が人形のように感じられ、自分の思考と自分の感覚があまり感じられないということ。

 それが正しいのかは、わからないが。ボクは自分の感覚と自分の思考をだいじにしたいと思っています。

 いま手元にある古い新潮文庫版は表紙カバーもなくなり、「雨宮蔵書1970年3月4日」という赤いインクの大きなハンコが押してあります。その前ぐらい、19才のときに買ったことは確かです。

 初江を新治と安夫、2人の若者で取り合う構図になるが、実は小説にはさりげなく描かれた男性への視線が存在する。

 第七章で新治の弟の宏が関西への修学旅行に出発した連絡船神風丸で鳥羽港から島へ春休みで東京から戻ってきた千代子である。

 千代子は灯台長の娘で東京へ大学に行っている。島には珍しいインテリだ。いうなら三島由紀夫さんにもっとも近しい存在ではないのか。

 千代子が自己の女としての肉体に自信がないのも、自分の男性としての肉体に自信がない三島由紀夫さんと相似ではないのか。

 もっと言ってしまえば小説で三島由紀夫さんが自分を千代子に仮託し、若い男性=新治に恋するものとして「告白」したのではないか。

 もうひとつは共同体や伝統や信仰がMなぜ小説にはあらわれないのか、ということです。つまり「歌島」.。

 小説の冒頭では「八代神社には六十六面の銅鏡があった。」(p6)と述べられています。それは小説の単なる背景として書かれているだけです。

 そのような三島由紀夫さんが、なぜその後の「天皇信仰」に入っていったのか、ボクはやはり共同体や伝統や信仰を無視していたもとが原因の1つなのではないかと思います。

 このことは後日あらためて展開するつもりです。

 この2つの考えを絶対化するつもりもありません。もっと三島由紀夫さんのことを探索してみたいです。手始めに浜松市立中央図書館にある『三島由紀夫全集』を読んでみたいです。

 なお、作品のおわりに「一九五四年四月四日」と書いてあるのは何か意味があるか?




過去現在未来のメモリーノート 85 「銀河鉄道」の「車室」とは? 20200701

2020年07月01日 20時06分12秒 | 過去現在のメモノート


過去現在未来のメモリーノート 85 「銀河鉄道」の「車室」とは? 20200701

 今日から7月。宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜」は「ケンタウル祭」の夜のおはなしです。たぶん「七夕」の夜のおはなし。

 ますむらひろしさんのマンガ「銀河鉄道の夜」は『赤旗日曜版』で連載されているが、いまジョバンニが銀河鉄道に乗ったところ。

 そのシーンでますむらひろしさんは、列車のなかの席を通勤電車風の橫1列に描いている。

 ボクは銀河鉄道の中は1つの車両のなかを4人がけの車室に分けられていると思っていたので、あれ?と思った。

 宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜」は第4次原稿まである。第4次原稿の「六 銀河ステーション」のところから引用しよう。

 「ほんとうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓の外を見ながら座っていたのです。車室の中は、青いびろうどを張った腰掛けが、まるでがら明きで……すぐ前の席に、ぬれたようにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供が、窓から頭を出して外を見てゐるのに気が付きました。」

 ≪ 鎌田東二『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』<岩波現代文庫>、岩波書店、2001年、p182~183より ≫

 「軽便鉄道」というと通勤席だけしかないようにも思えますが、ジョバンニとカンパネルラとの関係性からいって、互いに正面を向いて座っているほうが2人の心にふさわしいと思うのですが。

 それに通勤席では、外の風景はふつうでは向こうの窓に見えて、後ろの窓を見るには振り向かないといけない。

 まあ、ますむらさんはいろいろ考えてこうしたんだろうから、ボクも固執はしません。静かに見守りましょう。