「渋谷で最も高いビルが開業しました......」
近頃、そんなニュースがあちこちで流れていました。
以前「アイ・アム・アホ」という記事でも記していた、
某電鉄グループを中心に強烈に推し進められている東京、
渋谷の再開発......
「渋谷スクランブルスクエア」と名付けられた、
その新ビルのプロモーションは「未来」「IT」「新時代」
「新ライフスタイル」「食」「ファッション」「エコ」
「エンタメ」「東京展望」......
という様なことを軸に展開されています。が、
1番の売りは、まごうことなく、
「渋谷で一番高いビル」
ただ、それだけです。
「利益を生み出す床面積を最高に多くとっちゃいまちた!」
ということです。
パトロールにも行ってみたのですが、
新たな渋谷のランドマークとなるような、
想像を超えてくれるようなものは特に無いように思えました。
国からの特別なサポートなどは殆ど無いでしょうから、
ドバイフレームとかガウディ建築のような
アートフルな建物は作れても作れないのでしょう。
故に、メディアインタビュー等に出てくる開発担当者の言葉や
テナント内容はとても◯◯◯ぺ◯◯印象でもあって。
でわ!
もんだひ!(`・ω・´)/
この◯の中にはなんという字が入るでしょーか!?
なんて。
ね。
このビルや渋谷をターミナルとする電鉄会社の電車に乗ると、
誰もがすぐに感じられることがあるのですが、
その一つは、駅の改札口が最小限の数になっていて、
人件費も含め運用コストが徹底的に抑えられていること。
利益追求を本旨とする企業において、
これは正義なのでしょうが、
電鉄会社の場合はとても公共性の高い事業であって。
元を辿れば、
私鉄も含め国の認可を要する国家事業でもあるわけです。
特に、この電鉄会社の場合は、
歴史的にも駅を中心とした地域開発を大規模で始め、
完了させ、住民や訪れる人を意図的に劇的に増やし。
しかし、その後は駅の乗降者数が激増しようが、
どうなろうが、駅改札や改札口を増やすというようなことは
最後の最後までやりません。
人が溢れている階段やプラットフォーム、
エスカレーターの拡張や増設、
高齢者や身体的弱者に対するユニバーサルなインフラ整備など、
街の開発と同時にやるべきことは全て最小限で後回し。
延々と作られないようなことも。
地域開発の名の元に行われていたのは、
自らの不動産や商業施設への誘引であったということが、
そのための改札口であったというようなことが、
浮き彫りになっていくことも多々見受けられます。
そんな状態なのに、それらの問題の解決を成す前に、
増やされた資本はまるでウイルスの如く次の街へ、
次の駅へと、新たな獲物を狙うかのように移っていきます。
電鉄会社の会長や社長の目標が1000億円の預金通帳の公開!?
だったりしなければよいのですが......
もう一つは、最近、
電車に乗っていると、
しょちゅうこんなアナウンスが流れることです。
「◯◯駅において体調を崩された方がおり、
その救護にあたっていたため、
この電車は◯◯分の遅れが生じています」
当たり前です。
沿線の駅を全て開発し、都市化して、
地価を上げ、会社資産を上げていく。
ターミナルの駅周辺には超高層化されたビルをいくつも作り、
そこに商業店舗やビジネスオフィスを極限まで入れていく。
結果、
その土地が抱えられる許容人数を遥かに上回る人々が集まり、
動くことにもなって、
それを根本要因とした様々なトラブルが起きてくる。
異様すぎる満員電車の根本原因は、
電鉄沿線のビルや住宅の超高層化以外のなにものでもないのです。
しかし、ビルを建て、
高層化もすることによって拡大された資本から
問題解決に充てられる額は極めて少なく。
反省もなく。
収益の多くは企業ブランディングや地域住民の虚栄心を煽り、
育む美辞麗句戦略に使われ。
そして、
また同じような地域開発や商業施設モデルに投下されていき、
結果......
「◯◯駅で気分の悪くなったお客様の救護に当たっておりまして......」
愚かとは?
こんなことを言うのでしょうか?
こんな状況でもそんな沿線に住まわざるをえない
弱き自分自身のことでしょうか。
こんなことを全く伝えない、
問題提議もしない、
スポンサードシステムにがんじがらめにされた
メディアのことを言うのでしょうか。
団体組織票と献金と企業税金に支えられた
国家政府のことでしょうか。
「桜を見る会」の話の半分だけでも
時間を充てられないものでしょうか。
大規模地域開発ができるほどの資本を有するのであれば、
その前に、
電鉄として世界をリードするモノを作れる可能性も
あるのではないのか?
音の出ないリニア都市電鉄とか、
路線の高層化や地下化によって踏切をゼロにした郊外路線とか。
北海道の廃線を救うとか。
そんなイノベーティヴな路線を作るのも、
鉄道会社としては都市開発以上に大切な使命なのではないのか?
と。
とはいえ、小市民の僕には嘆きこそあれ、なんともしようがなく。
全てをしょうがない、と?飲み込むしかないのでしょうか。
だからこそ、何よりも、
そんな自分自身が無力で愚かであるということ以外、
今のところ言葉は見当たらないのです。
とても悲しいのです。
(TωT)ぐすん。
異様な満員電車とは、
昭和後期的価値観が生み出した病気なのだ、と。
敗戦意識と、そこを起因とした自国文化や歴史の一時的否定、
劣等意識などが混じって生まれた価値観による病気なのだ、と。
しかし、それも慢性化し、病気であることも分からなくなり。
やがて成功者意識へと転変し、
盲目的な国家自尊心や慢心を育み、
長く維持もさせ続けてしまった罪でもあるのだ、と。
皆で早く気づいて、
対処しないと、本当に、
東京は大変なことになってしまうような気がしてしまうのです。
それぐらい、
都心の電車の混雑度や不快度は臨界点に達しているように思います。
街の根本は、そこに住んでいる人々なのだ、と。
決して、企業や資本や国家都合が根本ではないのだ、と。
早く、一人一人がそんな概念で行動できるようにならないと、
政治を動かすようにできないと、
このままだと国は企業と化してしまいそうです。
そうなったら、
国とはなんのなのでしょうか。
国家とはなんと?説明されるのでしょうか。
日本も今、
国家概念の再確認をするべき時ではないでしょうか。
見えにくいだけで、香港やイギリス、
パレスチナや宮古島で起きていることと同じ意味のことが
起きているのでは?ないでしょうか。
この国でも、水を引き、田畑や学校を作り、
安いお金で医療を施すような人が違う形で、
見えないところで撃たれているということは無いのでしょうか。
利得をひたすら追及する企業国家を目指すのか。
幸せとは何かを追及する人間国家を目指すのか。
今の渋谷開発はそんなことごととも比して捉えないと、
もしかしたら、道を誤ってしまいそうで......
なんだか怖いのです。僕は。
ま、超個人的な感覚、感慨という程度のお話ですが......
そんな東京の渋谷とは対極にありそうな、
宮崎県の都農(つの)という町の片隅にある
「新田うなぎ」という鰻屋さん。
僕が訪れた時はおばちゃんが一人できりもみしていました。
地元で育った美味しいうなぎを出してくれます。
「フグ丼」という言葉も妙に引っ掛かかるのでちゅが......
お店に入ると、この時は客は誰もいなくて。
僕は一人、ポツンと、テーブルに座りました。
メニューを見ると「うな重」があったので、
僕はそれを頼み、
出されたお茶を飲みながらのんびりと待っていました。
お茶は急須ごと出してくれて、
「無くなったら言ってくださいね。
お湯足しますからね、、」
と。ウナギは、どうも、
注文を受けてから丁寧に焼くらしく。
おばちゃんは焼き出した途中で、
「ゴメンね。
火も入れて、焼くのにちょっと時間がかかるから、
コレでも食べてまっててください。
時間は大丈夫です?」
と言って、
今度はうなぎの骨を揚げたせんべい的なものと、
新鮮でとても美味しい「肝焼き」を出してくれました。
そこに、ふらっと、
ファーマーキャップをかぶった、
動きのゆったりとした、
近所のおじいちゃんと思しき方がお店に入ってきました......
続きます。
☆過去のウナギクライシスはコチラ☆
「ウナギクライシス」
「ウナギクライシス 2」
「ウナギクライシス 3」
「ウナギクライシス 4」
「ウナギクライシス 5」
「ウナギクライシス 6」
近頃、そんなニュースがあちこちで流れていました。
以前「アイ・アム・アホ」という記事でも記していた、
某電鉄グループを中心に強烈に推し進められている東京、
渋谷の再開発......
「渋谷スクランブルスクエア」と名付けられた、
その新ビルのプロモーションは「未来」「IT」「新時代」
「新ライフスタイル」「食」「ファッション」「エコ」
「エンタメ」「東京展望」......
という様なことを軸に展開されています。が、
1番の売りは、まごうことなく、
「渋谷で一番高いビル」
ただ、それだけです。
「利益を生み出す床面積を最高に多くとっちゃいまちた!」
ということです。
パトロールにも行ってみたのですが、
新たな渋谷のランドマークとなるような、
想像を超えてくれるようなものは特に無いように思えました。
国からの特別なサポートなどは殆ど無いでしょうから、
ドバイフレームとかガウディ建築のような
アートフルな建物は作れても作れないのでしょう。
故に、メディアインタビュー等に出てくる開発担当者の言葉や
テナント内容はとても◯◯◯ぺ◯◯印象でもあって。
でわ!
もんだひ!(`・ω・´)/
この◯の中にはなんという字が入るでしょーか!?
なんて。
ね。
このビルや渋谷をターミナルとする電鉄会社の電車に乗ると、
誰もがすぐに感じられることがあるのですが、
その一つは、駅の改札口が最小限の数になっていて、
人件費も含め運用コストが徹底的に抑えられていること。
利益追求を本旨とする企業において、
これは正義なのでしょうが、
電鉄会社の場合はとても公共性の高い事業であって。
元を辿れば、
私鉄も含め国の認可を要する国家事業でもあるわけです。
特に、この電鉄会社の場合は、
歴史的にも駅を中心とした地域開発を大規模で始め、
完了させ、住民や訪れる人を意図的に劇的に増やし。
しかし、その後は駅の乗降者数が激増しようが、
どうなろうが、駅改札や改札口を増やすというようなことは
最後の最後までやりません。
人が溢れている階段やプラットフォーム、
エスカレーターの拡張や増設、
高齢者や身体的弱者に対するユニバーサルなインフラ整備など、
街の開発と同時にやるべきことは全て最小限で後回し。
延々と作られないようなことも。
地域開発の名の元に行われていたのは、
自らの不動産や商業施設への誘引であったということが、
そのための改札口であったというようなことが、
浮き彫りになっていくことも多々見受けられます。
そんな状態なのに、それらの問題の解決を成す前に、
増やされた資本はまるでウイルスの如く次の街へ、
次の駅へと、新たな獲物を狙うかのように移っていきます。
電鉄会社の会長や社長の目標が1000億円の預金通帳の公開!?
だったりしなければよいのですが......
もう一つは、最近、
電車に乗っていると、
しょちゅうこんなアナウンスが流れることです。
「◯◯駅において体調を崩された方がおり、
その救護にあたっていたため、
この電車は◯◯分の遅れが生じています」
当たり前です。
沿線の駅を全て開発し、都市化して、
地価を上げ、会社資産を上げていく。
ターミナルの駅周辺には超高層化されたビルをいくつも作り、
そこに商業店舗やビジネスオフィスを極限まで入れていく。
結果、
その土地が抱えられる許容人数を遥かに上回る人々が集まり、
動くことにもなって、
それを根本要因とした様々なトラブルが起きてくる。
異様すぎる満員電車の根本原因は、
電鉄沿線のビルや住宅の超高層化以外のなにものでもないのです。
しかし、ビルを建て、
高層化もすることによって拡大された資本から
問題解決に充てられる額は極めて少なく。
反省もなく。
収益の多くは企業ブランディングや地域住民の虚栄心を煽り、
育む美辞麗句戦略に使われ。
そして、
また同じような地域開発や商業施設モデルに投下されていき、
結果......
「◯◯駅で気分の悪くなったお客様の救護に当たっておりまして......」
愚かとは?
こんなことを言うのでしょうか?
こんな状況でもそんな沿線に住まわざるをえない
弱き自分自身のことでしょうか。
こんなことを全く伝えない、
問題提議もしない、
スポンサードシステムにがんじがらめにされた
メディアのことを言うのでしょうか。
団体組織票と献金と企業税金に支えられた
国家政府のことでしょうか。
「桜を見る会」の話の半分だけでも
時間を充てられないものでしょうか。
大規模地域開発ができるほどの資本を有するのであれば、
その前に、
電鉄として世界をリードするモノを作れる可能性も
あるのではないのか?
音の出ないリニア都市電鉄とか、
路線の高層化や地下化によって踏切をゼロにした郊外路線とか。
北海道の廃線を救うとか。
そんなイノベーティヴな路線を作るのも、
鉄道会社としては都市開発以上に大切な使命なのではないのか?
と。
とはいえ、小市民の僕には嘆きこそあれ、なんともしようがなく。
全てをしょうがない、と?飲み込むしかないのでしょうか。
だからこそ、何よりも、
そんな自分自身が無力で愚かであるということ以外、
今のところ言葉は見当たらないのです。
とても悲しいのです。
(TωT)ぐすん。
異様な満員電車とは、
昭和後期的価値観が生み出した病気なのだ、と。
敗戦意識と、そこを起因とした自国文化や歴史の一時的否定、
劣等意識などが混じって生まれた価値観による病気なのだ、と。
しかし、それも慢性化し、病気であることも分からなくなり。
やがて成功者意識へと転変し、
盲目的な国家自尊心や慢心を育み、
長く維持もさせ続けてしまった罪でもあるのだ、と。
皆で早く気づいて、
対処しないと、本当に、
東京は大変なことになってしまうような気がしてしまうのです。
それぐらい、
都心の電車の混雑度や不快度は臨界点に達しているように思います。
街の根本は、そこに住んでいる人々なのだ、と。
決して、企業や資本や国家都合が根本ではないのだ、と。
早く、一人一人がそんな概念で行動できるようにならないと、
政治を動かすようにできないと、
このままだと国は企業と化してしまいそうです。
そうなったら、
国とはなんのなのでしょうか。
国家とはなんと?説明されるのでしょうか。
日本も今、
国家概念の再確認をするべき時ではないでしょうか。
見えにくいだけで、香港やイギリス、
パレスチナや宮古島で起きていることと同じ意味のことが
起きているのでは?ないでしょうか。
この国でも、水を引き、田畑や学校を作り、
安いお金で医療を施すような人が違う形で、
見えないところで撃たれているということは無いのでしょうか。
利得をひたすら追及する企業国家を目指すのか。
幸せとは何かを追及する人間国家を目指すのか。
今の渋谷開発はそんなことごととも比して捉えないと、
もしかしたら、道を誤ってしまいそうで......
なんだか怖いのです。僕は。
ま、超個人的な感覚、感慨という程度のお話ですが......
そんな東京の渋谷とは対極にありそうな、
宮崎県の都農(つの)という町の片隅にある
「新田うなぎ」という鰻屋さん。
僕が訪れた時はおばちゃんが一人できりもみしていました。
地元で育った美味しいうなぎを出してくれます。
「フグ丼」という言葉も妙に引っ掛かかるのでちゅが......
お店に入ると、この時は客は誰もいなくて。
僕は一人、ポツンと、テーブルに座りました。
メニューを見ると「うな重」があったので、
僕はそれを頼み、
出されたお茶を飲みながらのんびりと待っていました。
お茶は急須ごと出してくれて、
「無くなったら言ってくださいね。
お湯足しますからね、、」
と。ウナギは、どうも、
注文を受けてから丁寧に焼くらしく。
おばちゃんは焼き出した途中で、
「ゴメンね。
火も入れて、焼くのにちょっと時間がかかるから、
コレでも食べてまっててください。
時間は大丈夫です?」
と言って、
今度はうなぎの骨を揚げたせんべい的なものと、
新鮮でとても美味しい「肝焼き」を出してくれました。
そこに、ふらっと、
ファーマーキャップをかぶった、
動きのゆったりとした、
近所のおじいちゃんと思しき方がお店に入ってきました......
続きます。
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