雲は完璧な姿だと思う。。

いつの日か、愛する誰かが「アイツはこんな事考えて生きていたのか、、」と見つけてもらえたら。そんな思いで書き記してます。

オーバーツーリズム 2

2024-04-19 00:01:57 | セツナイ
お話はもう一回、最近公開された映画
「オッペンハイマー(OPPENHEIMER)」
の物語なども絡めて続かせていただくことにいたしまする。




前回記事の最後に記した通りなのですが、
僕さんはチャキチャキの日本人ですので。
この映画に関しては
クリストファー・ノーラン(Christopher Nolan)監督
作品自体へのリスペクトとは別に、
見ている間は終始良い気持ちはしていませんでした。
あるシーンでは新規開発した原爆を

「日本のどこに落とそうか、、」

という会議でのやりとりが描かれていましたが、
当初は12の都市が候補に上がっていたようで、
劇中ではそこでこんな会話が交わされます......



「京都は外そう。
文化遺産が多いし、私がハネムーンに行ったとこだから」



原爆を日本のどこに落とすかを決める会議があったことは
純然たる史実ですが、
その中で交わされた言葉は一字一句この通りでは無いとも思います。
あくまで映画というエンターテイメントですし。
ただ、セリフは、ある程度調べ上げた事実に基づいて
起こされているということもまた事実ではないかと。



そして、
この記事はオーバーツーリズムのお話ですので......



ちょっと大げさな比喩表現ではありますが......



僕は時々、
度を超えたツーリズムを受けるエリアや場所が
原爆とまでは言わないまでも、
どこかしら国家侵略の爆撃を受けているような感覚に
陥ってしまうことがあるのです。

ツーリズムというものは、
訪れられる場所や人に経済的な利得や
様々なものをもたらすものだと思いますが、
はたして、
奪われてしまうものなどは無いのでしょうか。

オーバーツーリズムというのは、
そんな利と害がどちらも過剰になるということだと思うのですが、
多くの場合、利得が過剰になることは良しとされ。
情報もその部分にばかりフォーカスされることが多く。
失われてしまう様々なモノやコトには
目を向けられにくくなっていることが多い気がするのです。

その結果、
観光とはあまり関係が深くない地元の皆さんの生活が
焼け野原のようになっしまっている、
異常な住環境になってしまっている......
なんていうふうに見えることがあるのです。

最近の京都を見ていると、僕は確実に
「京都たる何か」
を失いつつあるような気がしてなりません。
あくまで僕という個人の感覚のお話ですが、
僕にとっての京都の街というのは、
どこに居ても、
どこに行っても、
この国の人間らしく心身を落ち着けることができる街であったのです。
それが、昨今はどこにいても落ちつけない感じなのです。
僕の好きだった京都らしくないのです。

それは、
もしかしたら、
浅草や福岡市や北海道のニセコ村などにも言えることではないか?
などと思ったりもして。

それは、
もしかしたら、
自画自賛的でへりくだり過ぎもする観光立国政策によって、
日本という国家が粛々と大切な何かを失い続けているのではないのか?
と、そんなことを思ったりもするのです。
これはテイの良い侵略みたいなものなのではないのか?と。
見えないけれど、ユックリと、じわじわと体を蝕んでくる
強力な放射線みたいなものなのではないのか?と。
今、この国が直面している円安為替やオーバーツーリズムの問題は、
実は国家存亡の問題なのではないのか?と。
なんとか全てが良きこととなれる対応策や案を見出せないか?と。
多様な民族や文化が多量に入り混じる今とこれからの時代における
「国家」の姿を探し見付けていかなければ、と。
僕はそんなことを思いながら、
人で溢れかえる京都駅を眺めていました。
タクシーに乗るために
延々と1時間以上も待っている人達を見ていました。



「おかしいよな。これ。やっぱり......」



気がつくと、
僕はそんな言葉をつぶやいていました。


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