AN現代針灸治療

ANとは「にただあつし(似田敦)」のイニシャルです。現代医学的知見に基づいた私流の針灸治療の方法を解説しています。

代田文誌の頌徳歌碑(飯田市龍門寺) Ver.1.2

2016-01-13 | 人物像

少し前のこと、代田文誌先生が活躍していた場所に行って見たいという考えが生まれた。そのことを代田泰彦先生に相談してみると、長野市の東京医学研究所(代田36才~)の跡地はまったく面影がないが、飯田市の寺には石碑があるとの話だった。飯田は、文誌先生が幼少期から35才まで住居を構えた土地である。

また、つい最近のこと、沢田健先生墓参後の新年会で話題になったこともあって、玉川病院後輩の寺師健先生から、飯田市の龍門寺にあるという石碑の写真が送られてきた。1999年、飯田市で日本針灸懇話会があった時、自分が撮ったのだものだという。頌徳歌碑と、この歌碑説明文の2枚で、歌碑は光線の関係からか一部判読しづらく、また説明文も錆びたり剥げたりしていて分からないところがあり、読解には苦労した。そもそも頌徳歌碑を建立した「望真会」というのも初耳だった。
 
記憶はいずれ途切れてしまうものだ。代田泰彦、寺師両先生の協力を仰ぎ、この辺の状況を記録しておくべきだろう。

なお石碑建立は、昭和56年なので、私が28才の頃で、日産玉川病院東洋医学科3年目の時にあたる。当時は代田文彦先生と毎日のように顔を合わせていたはずなのに、石碑についての話題は一切なかったのも不思議な話である。今考えると、貧乏な研修生に石碑建立のための寄付金など余計な心配をさせまいと思ったのではないだろうか。

 

 
1.代田文誌先生の頌徳歌碑
  
代田文誌先生でなければ詠めない内容になっていると思う。  

 


あなたふと 
薬師如来の
本願を 
わが身にしめて 
世を救いなむ
文誌


現代文訳(代田泰彦先生による)

ああ尊いことだな、
薬師如来の
本願を 
わが身に背負って 
世を救いたいものだな
文誌

 
2.頌徳歌碑の説明文

 


望真の灯は消えず


代田文誌先生は明治三十三年豊丘村河野に生れ、学業半にして

肺結核に冒され、数度の大喀血も堅固な佛道精神と東洋医学によ
りこの難病を克服された。病中の体験から針灸医学を志されこれ
によって病者を救はむ事を念願として、七十四年の生涯を
一筋に精進された。針灸の泰斗としてその科学化に尽瘁され、多
数の著書と、その術技は、後世への不滅の功績として輝いている。
常に医道を説き、望真会を興し後進を導かれた。又島木赤彦に師
事して、歌人としても勝れていた。歌集に「火の山」がある。
この度、その償徳を敬慕する子弟、同志、後輩が相寄りここに頌
徳歌碑を建立するものである。

昭和五十六年十月十八日 大安佳日建立

 
代田文誌先生頌徳歌碑建立委員会
 

略歴

一、望真会会長            一、日本針灸師会副会長
一、日本針灸医学会会長     一、日本針灸皮電学会会長
一、長野県針灸師会会長 
  

昭和四十九年九月二十四日
 
※尽瘁(じんすい):自分の労苦を顧みることなく全力をつくすこと。
※旧字は新字に変更した。

 


3.望真会と石碑建立の経緯(代田泰彦)

望真会とは飯田市を中心として代田文誌先生を慕って集まった鍼灸師の集まりで、2-30人の鍼灸師が、研究会等行って切磋琢磨しあったらしい。この歌碑を作ったメンバーの人たちが、会員であり、推進者であったようだ。丸山薫・林一一等が中心で協力を仰ぎ、250名318万円の浄財が集まったときく。三木健次・清水千里・森秀太郎・米山博久等の名前も見える。
なお、この除幕式には代田家代表として小生が出席したことは思いで深いものがある。(兄、代田文彦は他用があり出席できなかった)

私(似田)も望真会について調べてみると、現代につながる針灸の経緯に直結していることを知った。
先の大戦で敗戦後、GHQは鍼灸治療禁止令を発効しようとしたが、これに反対したのが石川日出鶴丸で、「鍼灸医術ニ於イテ」とする論文を著した。これと同時期、「望真会」として飯田市を中心とした針灸研究交流の場が存在したが、昭和22年2月5日代田文誌は日本鍼灸医学会の再建を決意し、同年11月には、「望真会」を発展解消させ、全国規模を想定した「日本鍼灸医学会」とした。
その第1回の全国大会を飯田市松尾の竜門寺で開催された。従来の迷信的針灸と決別し、新しい科学的な針灸治療を志向したのであった。このような努力が功を奏し、GHQは針灸存続を認めたのだった。

 


代田文誌らが集った<きさらぎ会>について ver.1.1

2014-04-15 | 人物像

長野県といえば、一昔前に多くの偉大な鍼灸師を輩出したことで有名である。長野県出身者に自分の田舎を聞くと、長野県といわず信州という。まあ、そうした郷土愛のたぐいがあるようだ。

長野県出身の鍼灸師といえば、その筆頭に数えられるのが代田文誌氏といってよいだろう。その代田氏や長野県出身の著名鍼灸師を中心とした同志の方々と、昭和41年から毎年2月に温泉旅館に泊まり、酒を飲みながら鍼灸を自由に語りあった。この集まりを<きさらぎ会>といった。

この会のメンバーは年によって異なるが、代田文誌の他に、倉島宗二、塩沢幸吉、木下晴都、清水千里、米山博久、森秀太郎、三木健次、芹沢勝助(以上、敬称略)など、かつての日本を代表した、そうそうたる顔ぶれであった。

「きさらぎ会」の概要
 その「きさらぎ会」の様子は、代田文誌先生の詠んだ歌で知ることができる。
  きさらぎの
  諏訪のほとりに集まりて
  鍼灸語りて 
  命がけなる
 

ところで上の短歌で詠まれた諏訪湖畔とは、どこなのだろうか。できることならその宿に泊まり、せめて「きさらぎ会」の雰囲気に浸りたいものだと思い調べてみた。医道の日本誌で、気賀林一氏(元医道の日本社編集長)の「きさらぎ会の記(昭和48年10月号)を実際に見ることができた。本稿は、第9回のきさらぎ会について説明している。

 
場所は信州上諏訪の旅館「ぬのはん」で、江戸時代から続く老舗旅館。「ぬのはん」という変わった名前は、元々は屋号を布屋とう呉服商を営んでいた藤原半助が、この地で温泉を掘り当てたことを契機として、旅館を創業したことにちなんだもの。かつてはわが国に歌壇にアララギ派が風靡していた頃、大いに歌を詠み時勢を論じあったというアララギ派の常宿ともなった。

 きさらぎ会一同が宿に着き、浴衣にくつろいだあと、階下の大広間で会談が始められた、という。座長は森秀太郎と塩沢幸吉が交代で務めた。話題は針灸に関すること様々だが、暗黙の規約として、①ここでしゃべったことは一切公表しないこと、②会員相互はあとで、あげつらいをしないこと、③たとえ意見が食い違っても、決して根に持たぬことなど。いわば自分の責任において放談大いによろし、という趣向だった。 
 
旅館「ぬのはん」は、名旅館として今でも営業している。中央本線上諏訪駅から徒歩8分ほどの、諏訪湖畔にある。

 


追記

きさらぎ会は、毎年<ぬのはん>で行っているように記したが、それは間違いであった。年により異なっていた。

塩沢幸吉氏の医道の日本誌投稿記事よれば、昭和40年第1回きさらぎ会は、長野県下高井郡山の内町の名門旅館「塵表閣」で、昭和41年第2回は同じ町内の「望山荘」でおこなわれた。第3回~第8回の開催地は不明。
※「塵表閣」「望山荘」ともに湯田中駅付近にある。湯田中駅は、長野電鉄長野線で45分の終着駅「湯田中」にある。

昭和49年第9回は前述したように、上諏訪駅近くの「ぬのはん」。昭和50年は開催されず、第10回昭和51年は、松本駅からタクシーで15分ほどの東山観光ホテルで行われた。それ以降は不明。この東山観光ホテルというのは、昭和天皇も泊まったことのある由緒あるホテルではあったが、今はなくなってしまった。 

 


代田文彦先生の家

2013-07-14 | 人物像

  私が玉川病院に在籍していた頃、他の鍼灸研修生とともに代田文彦先生のお宅に何回かお邪魔させていただいた。JR中央線の吉祥寺駅から徒歩15分ほどで、井の頭公園の雑木林に隣接している。昔ながらの木造の一戸建てであった。4畳ほどの玄関を入ると、すぐ右手に15畳ほどの板張りで広い居間があった。部屋の西側には大きな窓があって、武蔵野の林がよく見える(下記イメージ図)。
廊下の横には、細長い書庫があり、お父様である代田文誌先生の膨大な蔵書を収めている。久しく人が踏み入れたことがないためか、ほこりが厚く積もっていた。

 

  文誌先生は最初は長野で鍼灸開業していたが、65歳頃になってこの地に移転して開業した。この居間は、元は治療室だったという。そこにベッドを3台並べ、1日40~50人治療していた。従業員は、指示した灸点に灸をすえる係が一人のみ。患者は朝早くから順番待ちで並び、これがうるさいと近所から苦情が出て、番号札を配ることにして一件落着したという。手早く患者を治療するため、今日は胸と腹、次回は背中と腰というように、3回程度に分けて全身を診た。興味をひいた患者には皮電計を取り出し、皮電点を調べ出すことがあり、時間がかかって周囲の者を困らせたという。

 
  代田文誌先生が長野市で開業していた頃、長男である代田文彦先生は、まだ子供ざかりで、父親の治療室に勝手に出入りしているうちに、鍼灸に馴染み、門前の小僧となっていった。
 
  文誌先生のもとには、鍼灸師が時々集まり、鍼灸につて難しい話をしていたという。それを端で聴いていた少年時代の文彦先生は、さっぱり理解でなかったが、「鍼灸師って何てすごいのだろう」と思ったそうだ。そのメンバーとは、倉島宗二、塩沢幸吉、木下晴都、清水千里、米山博久、森秀太郎、三木健次(敬称略)などの、かつての日本を代表したそうそうたる顔ぶれであった。 
 
  ちなみに、代田文誌先生の詠んだ短歌に、つぎのようなものがある。信州上田の温泉旅館に、集まり、酒を飲み合って鍼灸を語りあった様子を詠んだものである。この集まりを「きさらぎ会」といった。

 きさらぎの
 諏訪のほとりに集まりて
 鍼灸語りて 
 命がけなる

  文誌先生は毎晩夜遅くまで、勉強や執筆をしていた。これまでに出版した書籍も非常に多いが、実際の執筆量はこの三倍ほどあって、その中から出来のいいものだけを活字にしたのだというから驚かされる。

  病院では厳しい顔をしていることが多かった代田文彦先生も、我々が訪問した時は上機嫌で、奥様の瑛子先生の手料理を楽しみ、夜遅くまで痛飲した。私は、その時初めて中国のマオタイ酒を飲んだ。飲みやすいのでスイスイと飲み過ぎ、足をとられた。  

  当時から二十年経ち、代田文彦先生がお亡くなりになった後、所用でお宅を訪問したことがあった。家は近代的な建築に建て替えられ、昔の面影はもうなくなってしまった。


間中喜雄先生のオーリングテストのワンシーン

2011-12-26 | 人物像

もう三十年以上昔、間中喜雄先生が北里研究所附属東洋医学総合研究所客員部長の要職にあった頃、上司であった医道の日本社専務の戸部雄一郎氏に連れられ、白銀台にあるその研究所に、お話を伺いに行ったことがあった(当時、私は針灸学校へ行く傍ら、医道の日本社でアルバイトしていた)。

昼休み中だったので、患者はいなかった。診療室脇には引出したくさんついた棚があった。棚の一つには、手書きで「経絡手品のタネ アケルナ」と書いてあって、思わず苦笑してしまった。おそらく、助手の板谷和子先生の仕業だろう。板谷先生は、心底から間中先生を尊敬していて、間中先生の前では無邪気に振る舞う。
そういえば板谷先生は、カルテを鉛筆書きしていた。ペンで書くと間違いを修正できないというのがその理由。

当時、間中先生はオーリングテストに凝っておられたようで、被験者の左手にいろいな物を持たせ、右手の母指と示指でつくるオーリングの開き加減をテストしていた。

私も被験者になった。左手にタバコ一本を持ち、右手でオーリングテストをしたが、簡単にリングは開いてしまった。次に漢方薬の柴胡を持ち右手のオーリングテストをした。すると今度はなかなか輪が開かないよう‥‥だった。前回と比べ今回のテストでは間中先生の輪を開かそうとする力加減がまったく弱くなっているのに私は唖然とした。本当ですか?と問うと、間中先生は今度は力を込めた顔つきをする一方、指先には力を入れず、再びオーリングテストをやり、「同じ力でやっている!」と強弁したのだった。

ずいぶん無邪気な人だと思った。一方、一針灸学生を相手に、真面目に対応して下さる気さくな先生の態度に驚き、間中先生に大いに好感をもった次第であった。


代田文彦先生の文字

2011-12-15 | 人物像

恩師、代田文彦先生が死去されたのは平成15年1月23日のことであった。平成16年の春、奥様の瑛子先生から連絡があった。学会等で使ったスライドを譲って下さるとのこと。早速ご自宅にお伺いした。スライド資料は、外国旅行用トランク一個半程度の膨大な量になった。

その後、約1年をかけてなんとか整理し、主要なものをフィルムスキャナーでデジタルデータ化してCDに収めた。完成後CD一枚を、代田先生のご自宅にお届けにあがった。
ノートパソコンも持参し、瑛子先生にその概要をご覧いただいた。

学会や講習会用で使われたスライドが多い中、いつどこで使われたのか不明なスライドが十数があり、瑛子先生も不思議がっていた。文彦先生ご自身の学究としての態度を表明したものと思われる。そのごく一部をここに公開する。

実は文彦先生の書く文字には独特の個性があり、カルテに書かれる字に魅力を感じる医療関係者は多かった。私が先生に、「素晴らしい字ですね」というと、先生は「え、この字がかい?」と謙遜していた。
この書体に惚れ込んだらしい針灸研修生のK君は、次第に代田先生そっくりの字を書くようになってしまたほどだ。ある時、K君が文彦先生の机にメモ書きを置いておいたことがあった。文彦先生はそれを見て不思議がり、俺がこんなこと書いたっけ?とつぶやいたという。

 

  学ぶ
  study:自ら疑問をもち これを休憩していく能力を養う
  learn: 教えられて学ぶこと

    1.みだりに信じないこと
  2.この不信の心をほどよく斟酌して考えること
  3.人に頼らず ひとりで熱意や信念を育てること

    ①考えるとは どういうことか
      それは知識を秩序の中に統一し 一つの全体とするためのものである
  ②考えるには どうしたらよいか
   それは正しく把え、経験や読書により豊かな知識をもち、自分で無理なく  
   つまり精神の自由を保ち、独断におち入ることなく 可能性を考えることである。
    ③私達は何故考えるか
   それは よりよいもの、より正しいもの
      より美しいものを創造するためである