私が玉川病院に在籍していた頃、他の鍼灸研修生とともに代田文彦先生のお宅に何回かお邪魔させていただいた。JR中央線の吉祥寺駅から徒歩15分ほどで、井の頭公園の雑木林に隣接している。昔ながらの木造の一戸建てであった。4畳ほどの玄関を入ると、すぐ右手に15畳ほどの板張りで広い居間があった。部屋の西側には大きな窓があって、武蔵野の林がよく見える(下記イメージ図)。
廊下の横には、細長い書庫があり、お父様である代田文誌先生の膨大な蔵書を収めている。久しく人が踏み入れたことがないためか、ほこりが厚く積もっていた。
文誌先生は最初は長野で鍼灸開業していたが、65歳頃になってこの地に移転して開業した。この居間は、元は治療室だったという。そこにベッドを3台並べ、1日40~50人治療していた。従業員は、指示した灸点に灸をすえる係が一人のみ。患者は朝早くから順番待ちで並び、これがうるさいと近所から苦情が出て、番号札を配ることにして一件落着したという。手早く患者を治療するため、今日は胸と腹、次回は背中と腰というように、3回程度に分けて全身を診た。興味をひいた患者には皮電計を取り出し、皮電点を調べ出すことがあり、時間がかかって周囲の者を困らせたという。
代田文誌先生が長野市で開業していた頃、長男である代田文彦先生は、まだ子供ざかりで、父親の治療室に勝手に出入りしているうちに、鍼灸に馴染み、門前の小僧となっていった。
文誌先生のもとには、鍼灸師が時々集まり、鍼灸につて難しい話をしていたという。それを端で聴いていた少年時代の文彦先生は、さっぱり理解でなかったが、「鍼灸師って何てすごいのだろう」と思ったそうだ。そのメンバーとは、倉島宗二、塩沢幸吉、木下晴都、清水千里、米山博久、森秀太郎、三木健次(敬称略)などの、かつての日本を代表したそうそうたる顔ぶれであった。
ちなみに、代田文誌先生の詠んだ短歌に、つぎのようなものがある。信州上田の温泉旅館に、集まり、酒を飲み合って鍼灸を語りあった様子を詠んだものである。この集まりを「きさらぎ会」といった。
きさらぎの
諏訪のほとりに集まりて
鍼灸語りて
命がけなる
文誌先生は毎晩夜遅くまで、勉強や執筆をしていた。これまでに出版した書籍も非常に多いが、実際の執筆量はこの三倍ほどあって、その中から出来のいいものだけを活字にしたのだというから驚かされる。
病院では厳しい顔をしていることが多かった代田文彦先生も、我々が訪問した時は上機嫌で、奥様の瑛子先生の手料理を楽しみ、夜遅くまで痛飲した。私は、その時初めて中国のマオタイ酒を飲んだ。飲みやすいのでスイスイと飲み過ぎ、足をとられた。
当時から二十年経ち、代田文彦先生がお亡くなりになった後、所用でお宅を訪問したことがあった。家は近代的な建築に建て替えられ、昔の面影はもうなくなってしまった。