夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

hishikaiさんの記事に対するコメント――民族の独自性について―

2009年03月14日 | 宗教・文化


hishikaiさんの記事に対するコメント――民族の独自性について―



hishikaiさんの論考にコメントしようとしましたが、長くなってしまいましたので新たに投稿記事にしました。


菱海孫さんが次のように言われる時、たしかに文化の自立性と独立性について自意識とこだわりを持っている者には、他国、他民族の文化の摂取にはつねに葛藤が伴います。

>>

文化と云うものには否応もなく引かれた国境があり、それ自体は国境に区切られた一個の血の通った有機体であること、そういうことが常識である人々にとって、文化の輸入は常に苦しみを伴う。

>>
引用終わり

その点で私の論考にコメントを寄せていただいた「らくだ」氏などは、hishikaiさんが論考のなかで指摘されておられるように、文化の受容についても、幸福なことにそんな葛藤とは無縁の人であるようです。

自由の意識と民主主義の程度について、欧米人の尺度からすれば12歳のBOYにすぎない日本人にマッカーサーによって下賜されたこの現行「日本国憲法」を今なおありがたく押し頂いています。日本国憲法下で生きることについての文化的な違和感も民族的個性の変質についても、また下僕的な屈辱感なども問題意識としてもいささかも頭の片隅にすら掠ることがないようです。

歴史的に伝統的に日本人や朝鮮人は圧倒的な漢文化の影響の下にみずからの民族文化を形成せざるを得ませんでした。そのためにみずからの自尊心が、あえて自国文化における中国文化の影響を無視させたとも言えます。

日本文化や朝鮮文化の中に入り込んだ漢字をはじめとする中国文化、モンゴル民族や漢民族の影響の圧倒的な現実を直視することができないがゆえに無視しようとしたのだと思います。そして、そのような伝統的な文化的習性が太平洋戦争の敗戦によってマッカーサーに与えられた「日本国憲法」に対する国民的な受容にも現れていると思います。

しかし、結局においては、最良のもの最高のものを選択して自分のものとしようとすれば、その前に膝を屈して、狭量な個人的な誇りや民族的な自尊心を捨て去るしかないのです。涙をのんで、世界の歴史から、みずから最良、最高と信じるものを摂取してそれを消化して、個人や民族の血と肉に化してゆくしかないと思います。

とくにユーラシア大陸の辺境に位置する日本民族には、純然たるみずからのオリジナルな文化はほとんどなく、カタカナ、ひらがなに見るように、みずからの民族文化の独自性というものがすべて、異民族文化の受容と変容によって形成されたものであること、それを宿命として自覚し引き受けるしかないと思います。日本の民族文化のオリジナル、独自性というもがあるとすれば、この自覚のうえにはじめて生まれてくるものだと思います。

 

 

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批判とは何か

2009年03月09日 | 哲学一般

 

批判とは何か

ブログ上に公表している私の前回の論考「自然憲法(Verfassung)と実定憲法(Konstitution)」に対するコメント(批判?)を、「らくだ」さんという方からいただきました。

>>

コメントhttp://blog.goo.ne.jp/aowls/e/1db60e8258c871213b90b9fd5173cc54

 

 
 (らくだ)

2009-03-09 01:02:11

日本という国は、文化的に言えば、輸入によって成立し、成立している雑種文化です。

漢字は中国から輸入されたものでした。仏教もその発祥の地からではなく、中国経由で取り入れ、今ではまったく独自な発展を遂げています。江戸時代には蘭学が最先端の学問とされ、明治維新後は食文化から服装に至るまで洋風化されました。

現行の日本国憲法はGHQによって押しつけられたものにすぎず、よってこれは日本という国家の脆弱さを示すと言われます。
外から何かを取り入れることは、いつも必ずそのものの独自性や自主性をそぐことになるのでしょうか?

漢字や仏教にはじまり、食文化・服装ですら、元来は輸入したものでありながら、今では日本独自の様態を見せているように思われます。
現行の日本国憲法がたとえ輸入・翻訳になるとしても、日本人が日本人の心性に従って運用し、日本という国の方向性を自らの手で開拓する限り、一国の尊厳を脅かすほどの脅威にはなり得ないように思います。
そもそもあなたが依って立つ「憲法」の概念や、「国家」の概念、ヘーゲル哲学ですら、輸入学問ではありませんか。
輸入された道具で輸入した道具を批判しても、日本国という現実の存在を相手にしては、何らの生産性ももたないように思います。

>>引用終わり

この方からはこれまでにもいくどかコメント(批判?)をいただいています。
[らくだ様のこれまでのコメント]

なに言ってんだか。 (らくだ)
http://blog.goo.ne.jp/aowls/e/f6080648dcbe0b12c4372bd8d3ca9541

Unknown (らくだ)
http://blog.goo.ne.jp/aowls/e/ba94f15e685a356ad9563ba8dc47249b

普遍論争と数学基礎論 (らくだ)
http://blog.goo.ne.jp/aowls/e/52fcb4146ad5bf03f7b13be8ff405863

これまでにもブログ上での記事、論考に対する相互批判のあり方について、考えたことがありますが(「ブログでの討論の仕方」)、今回らくだ様のコメントに対するお返事を記事にして、この問題についてさらに考えて見たいと思いました。

 

らくだ様、いつもご批評ありがとうございます。これまでもあなたから何度か私の記事や論考に対するご批判をいただいております。先般もコメントをいただいていることは存じ上げていましたけれども、ご回答するだけの意義もないと思い、あなたのコメント「批判」についてお返事をしませんでした。

その根本的な理由は、私の記事や論考に対するあなたのコメント批判を読んでも、ただそこからうける印象は、批判のための批判にすぎないか、さらにはそこに悪意や中傷の底意すら感じたからです。

思想や哲学上の問題について議論し、批判してゆくうえで根本的に大切な前提は、議論の間の当事者に、少なくとも「ただひたすらに真理のみを目的とする人格」の存在していることだろうと思います。この前提の無いところでの議論や批判は、結局は「我意の充足」だけが自己目的になってしまうと思います。

もちろん、「人間の性悪説」からすれば、それは神ならぬ人間に実現不可能な理想を求めるようなものです。ですから、表面的には学問や科学上の論争を騙っていても、その実際は単なる「我意の応酬」にすぎなかったり、事実上その本質は他者への「誹謗中傷」かあるいは「嫉妬や偏見」である場合がほとんどであるようです。

らくだ氏が、「ヘーゲル哲学」が「輸入品だから何らの生産性ももたない」と独断的に断定するとしても、それはせめてヘーゲルの「小論理学」の「序文」だけでも読み通してから(岩波文庫版の翻訳があります)、そして、その論拠をもっと説得的に説明してほしいと思います。そうでなければ、私たちの議論は、一般に多くのブログ「炎上」などに見られるように、それこそ非生産的な「議論のための議論」「批判のための批判」 に終わってしまうと思うのです。

また、残念ながら「らくだ」様ご自身のブログを開設しておられないようなので、らくだ氏の「思想」や「哲学」についての最小限の輪郭すら私にはつかむことができません。ですから、そのために私の側からは、らくだ氏の「思想」や「哲学」についての根本的な相互批判の交換も、全面的な批判もできません。

その一方に、私の論考に対する「らくだ」氏のコメントについては、どうでもよいような部分末梢的な細部についての、実証的な些細な知識についての「批判」にとどまっていると思います。そのために、私の論考に対するらくだ氏の「批判」のその根本的な意図に疑念を懐かせることになっています。

おそらく、らくだ氏は、多くの日本の批判的論者のように「本当の批判」がどういうものかをご理解されていないこともあるように思います。本当の批判というのは、――それはカント、ヘーゲルの流れを引くドイツ観念論哲学における「批判」概念を踏まえているものですが、――まず批判の対象についての意義と限界を明らかにして、その上で、自己の思想と哲学の中にそれを「アウフヘーベン」してしまうことです。

たしかに、私のよって立とうとしているヘーゲル哲学は、この哲学者の国籍、民族の出自からいえばドイツ人のものです。また「国家」や「憲法」という概念そのものも、らくださんが言われるように、その出自は西洋にあります。したがって、たしかにそれらは日本人のオリジナルなものではなく、「輸入したもの」であることは事実でしょう。

しかし、ヘーゲルの哲学は、単にドイツ民族という狭い特殊な領域にとどまるものではありません。その哲学は人類の哲学史を踏まえた普遍的な性格を持っています。それを「輸入品」だと言うことによってすでに、らくだ氏にはこの哲学について何らの見識の無いことを言明していることになると思います。らくだ氏には議論の前提となるものがないのです。

しかし、たとえもし「輸入したもの」であっても、それらは明治の開国以来一世紀以上を経過し、すでに「日本国の現実の存在」に成りきっています。それは単に「国家」や「憲法」といった概念に限らず、「自由」や「民主主義」「人権」などと言ったその他の概念とともに、日本国の国家や社会の運営上にも不可欠な観念、イデオロギーとして存在しています。今日ではこれらの観念、概念なくしてどのような国民も現代国家の経営はできないのです。

らくださんのおっしゃるように「「憲法」や「国家」の概念やヘーゲル哲学」が輸入された「概念」であり「学問」であるとしても、それは日本という日本人の構成する国家機構の中に、西洋文化の移入以来すっかり定着し「日本国の現実」の一部に成りきり、血肉と化してしまっています。

ただ、日本におけるその「輸入の仕方」「血肉と化すその仕方」にこそ問題があると感じるからこそ――とくに、その主体性などについて―――私たちが「批判」しようとするのです。

私たちはこの「批判」が、日本国における真理の実現において、その国家の姿をあるべき正しいものに改革してゆくうえで決して「生産性」がないとも思いません。もし「生産性がない」と思われるとすれば、それはその人に国家社会における真理を求めようとする気も、よりよき国家や社会の形成について問題意識もやる気も、また認識能力もないからではないかと思います。

「国家」や「憲法」という概念と同じく「ヘーゲル哲学」についても、それはたしかに「輸入品」ではありますが、ちょうど同じ輸入品である「議員内閣制」や「三権分立」などの思想は、日本民族の自由の実現においてわが国社会にきわめて重要な貢献をしています。それと同じように出自が同じ輸入品であるとしても、科学理論である素粒子理論などについては、日本人によって消化されて、物理学や原子力発電などに活用されています。

このことは哲学であると同時に何よりも科学そのものであることをめざしたヘーゲル哲学についても同じことが言えると思います。日本人においてもこの哲学がさらに深く消化されて民族の血肉と化すことによって、より完成された国家の形成に寄与してゆくべきものであると思います。それはヨーロッパ諸国家が、古代ギリシャ哲学を伝統として引き継ぎ消化発展させることによって、みずからの国家や民族の精神文化を豊かにしたようにです。

ですから、「ヘーゲル哲学が、輸入学問で」あるから「何らの生産性ももたない」と説明もなく断定的に否定するのは、それは「輸入品」である「ヘーゲル哲学」を消化する能力もなく、また、それをみずからの能力とすべく、ヘーゲル哲学の修行もやる気のない人が「イヌの遠吠え」のような「批判」で吠えているにすぎないのではないでしょうか。

 

 

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自然憲法(Verfassung)と実定憲法(Konstitution)

2009年03月07日 | 国家論

 

自然憲法(Verfassung)と実定憲法(Konstitution)

hishikaiさんは、英国保守主義の三原理として、伝統主義と有機体主義と政治的懐疑主義を取りあげられていますが、たしかにこれらの原理は国家における真理を実現してゆくうえでとても大切だと思います。

とくに、このことは太平洋戦争に敗北した結果として、GHQによって制定された日本国憲法に見られる今日の病弊を考えるうえでとても重要な観点だと思います。と言うのも、現行の日本国憲法がその欠陥ゆえに、わが国社会に引き起こしている問題のすべてが、この英国保守主義の三原理、伝統主義、有機体主義、政治的懐疑主義を欠いていることに起因していると考えられるからです。

日本国憲法には、国家を一つの有機体として捉える観点は存在していませんし、日本の過去を「封建主義」の名の下に一蹴してしまって伝統主義のかけらもありません。また、ドグマと化した「平和主義」を狂信的に信奉する日本の憲法第九条擁護論者たちの多くは、自己の思想信条や信念を相対化する能力も、政治的懐疑主義のもつ謙虚さをも、いささかも持ち合わせていない人たちが大半だからです。

東京大学などで教鞭をとっている憲法学者たちにも、浅学な私の知るかぎりにおいても、英国保守主義の三原理の観点から憲法を論じる学者はいないと思います。憲法学者の樋口陽一氏に代表されるように、その多くはフランス革命の系譜を引く大陸系の実定憲法論者たちであり、現行日本国憲法が、あたかも不磨の大典のように、何らの懐疑的な精神もなく信仰されているように思われます。

hishikaiさんが英国保守主義の三原理として取りあげておられる観点を、別な角度から論じるとすれば、それは自然憲法(Verfassung)と実定憲法(Konstitution)との違いとしても取りあげることができると思います。

ご承知のように現在のイギリスにおいては憲法は成文化されていません。しかし、憲法が成文化されているか否か、軟性憲法であるか硬性憲法であるかという違いは本質的な問題ではなく、憲法の概念にとってもっとも重要なことは、その憲法が自然憲法(Verfassung)であるか、単なる実定憲法(Konstitution)であるかだと思います。

マッカーサーによって日本国民に与えられた日本国憲法は、たしかに、先の明治期に伊藤博文たちによって起草された大日本帝国憲法よりも、国民主権や国民の人権擁護、自由の規定においてははるかに進んだものでした。しかし、権利の行使や自由と民主主義について12歳のBOYである日本国民自身の自覚と感情は、かならずしも現行日本国憲法の水準に達しておらず、そのために大阪府や夕張市などの日本の地方都市に多く見られるように地方自治の形骸化を、民主主義の変質と堕落を招くことになっています。

それは何よりも現行日本国憲法が、伝統や文化から切り離された「作られた憲法」、実定憲法(Konstitution)であることから来ています。ヘーゲルも言っているように、憲法は「決してたんに作られるものではないからであり、それは数世紀にわたる労作であり、一国民において発展せしめられているかぎりの理念であり理性的なるものの意識」(法の哲学§274)が具体化されたものであるべきはずです。まして現行日本国憲法のように、日本の伝統文化にも無知なGHQの三流の進歩的知識人によって、二週間か三週間の一月足らずの間に作り上げられるようなものが憲法ではありえないからでです。

成文化された硬性のものか、あるいはイギリスの憲法のように不文憲法であるかを問わず、憲法は国民の伝統的精神によってつらぬかれた無条件に神聖で恒久的なものであってはじめて理性的な憲法といえるのだと思います。現行日本国憲法のように、マッカーサー憲法の翻訳にすぎない悟性的憲法では、とうてい国家としての日本国の永遠性も理性(ヌース)も体現したものではありえないのです。現在の日本国が、数学者の藤原正彦氏の言われるような品格無き国家だとすれば、それは日本国憲法が「国民の形而上学」とは無縁のところで成立したものだからだと思います。


『法の哲学』ノート§272(国家体制、憲法)

http://anowl.exblog.jp/8428820

『法の哲学』ノート§273(国家体制、憲法2)

http://anowl.exblog.jp/8437531/

保守と改革──守るべきもの改めるべきもの

http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20051214

 

 

 

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