夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

「夕暮れのフクロウ」記事一覧20180609〜20180729

2018年07月31日 | ツイッター

「夕暮れのフクロウ」記事一覧20180609〜20180729

 
 
 
 
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7月28日(土)のTW:#君主、#国家、#法

2018年07月29日 | ツイッター
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§280 Zusatz.[君主と完成された国家組織体]

2018年07月25日 | 法の哲学

 

§280

Zusatz.
Wenn man oft gegen den Monarchen behauptet, daß es durch ihn von der Zufälligkeit abhänge, wie es im Staate zugehe, da der Monarch übel gebildet sein könne, da er vielleicht nicht wert sei, an der Spitze desselben zu stehen, und daß es widersinnig sei, daß ein solcher Zustand als ein vernünftiger existieren solle, so ist eben die Voraussetzung hier nichtig, daß es auf die Besonderheit des Charakters ankomme.

§280

補註[君主と完成された国家組織体]

人はしばしば君主に反対して次のようなことを主張する。国家がどのように成り行くかは君主によって偶然に依存するようになってしまうとか、国家において悪い君主が作り上げられるかもしれないし、君主が国家の頂点に立つだけの十分な価値にふさわしくないかもしれない。また、そのような(国家の)状態を合理的なものとして現存させようとするのは愚かしいとかいった反対論である。そうだとしても、君主の性格の特殊性に帰着するような(そうした反対論の)前提はここではまさに無意味である。

Es ist bei einer vollendeten Organisation nur um die Spitze formellen Entscheidens zu tun, und man braucht zu einem Monarchen nur einen Menschen, der "Ja" sagt und den Punkt auf das I setzt; denn die Spitze soll so sein, daß die Besonderheit des Charakters nicht das Bedeutende ist. (96)

一つの完成された国家組織体のもとにあっては、ただ、形式的な決断をなす頂点のみが重要であり、そして、君主に対しては、「然り」と言うただ一人の人間を、そして一者がその上に座する場所を、人々は必要としているのである。そもそも頂点とは、性格の特殊性が重要なものではなくなるようにあるべきものだからである。

Was der Monarch noch über diese letzte Entscheidung hat, ist etwas, das der Partikularität anheimfällt, auf die es nicht ankommen darf. Es kann wohl Zustände geben, in denen diese Partikularität allein auftritt, aber als dann ist der Staat noch kein völlig ausgebildeter oder kein wohl konstruierter. In einer wohlgeordneten Monarchie kommt dem Gesetz allein die objektive Seite zu, welchem der Monarch nur das subjektive "Ich will" hinzuzusetzen hat.

君主がなおこの最終決定についてもっているものは、その特殊性が個性的なものであるような何かだが、それは認められないものである。たしかに、この君主の特殊性のみが立ち現れくる状態がありうるかもしれないが、しかし、その場合は国家がいまだなお完成されていないか、あるいは、十分によく構築されていないかである。よく秩序だてられた君主制においては、客観的側面である法律のみが意味をもっていて、君主はただそこに主体的な「私が決する」を追加しなければならないだけである。

(96)

in der 2. Aufl. lautet diese Stelle: "Es ist bei einer vollendeten Organisation des Staates nur um die Spitze formalen Entscheidens zu tun und um eine natürliche Festigkeit gegen die Leidenschaft. Man fordert daher mit Unrecht objektive Eigenschaften an dem Monarchen: er hat nur Ja zu sagen und den Punkt auf das I zu setzen. Denn die Spitze soll so sein, daß die Besonderheit des Charakters nicht das Bedeutende ist. Diese Bestimmung des Monarchen ist vernünftig, denn sie ist dem Begriffe gemäß; weil sie aber schwer zu fassen ist, geschieht es oft, daß man die Vernünftigkeit der Monarchie nicht einsieht. Die Monarchie muß fest in sich selbst sein, und was der Monarch ... "


(96)注

第二版では、この個所は次のように書かれてある。「一個の完成された国家の組織にあっては、ただ形式的に決断する頂点のみが重要であり、そして激情に対する自然の防波堤のみが重要である。人々はしたがって君主に客観的な資質を不当に要求する。君主はただ言うべき「然り」と一者が座る「場所」をもつのみである。というのも、頂点とは、性格の特殊性が重要なものではなくなる、ということでなければならないからである。君主のこの規定は理性的である。なぜなら、それが概念に適っているからである。しかし、君主は理解するのが困難であるから、人々が君主制の合理性を理解できないことがしばしば起こる。君主制はそれ自体において堅固でなければならず、君主は何を...」

 

 


ヘーゲルのここでの問題意識は「一個の完成された国家の組織体とはどういうものか」である。
狂信的に、悟性的に理解された「民主主義」は、しばしば大衆の津波のような本能的自然の激情の奔出という事態を招く。その限界は、秩序の崩壊した戦場などにおいて、兵士たちの婦女子に対する暴虐といった現象にもたちあらわれる。

よく完成された有機的な国家組織というのは、群衆のもつこうした粗暴な自然的な激情に対する有効な防波堤を築いて、国民一般の自由を、とくに婦女子の安全を確保しなければならない。女性が夜中に街中を安全に歩ける社会はある意味では自由な社会である。

畏れながら「病弱」であったり、「不徳」であるという「特殊な性格」をもった君主が現実に現れるという偶然性は完全にはなくならない。しかし、それは、不徳漢の政治家や、腐敗した官僚や、堕落した裁判官が、現実において権力を掌握する可能性が完全に無くならないのと同じである。

しかし、よく構築された優れた有機的な国家組織は、権力の分立と「真理としての法の支配」を確立することによって、君主や政党や政治的指導者たちの個人的な特殊な性格によって恣意的な統治を許すことなく、国民の自由と安全を最大限に実現して行く。完成された「立憲君主国家体制」のめざすところもここにある。ヘーゲルが「立憲君主国家」の完成が近代の理念であるというのもそういう意味である。









 
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§ 280c[悟性的思考と国家理念の破壊]

2018年07月13日 | 法の哲学

 

§ 280c[悟性的思考と国家理念の破壊]

Aber indem die Vorstellung des Monarchen als dem gewöhnlichen Bewußtsein ganz anheimfallend angesehen wird, so bleibt hier um so mehr der Verstand bei seiner Trennung und den daraus fließenden Ergebnissen seiner räsonierenden Gescheitheit stehen und leugnet dann, daß das Moment der letzten Entscheidung im Staate an  und für sich (d. i. im Vernunftbegriff) mit der unmittelbaren Natürlichkeit verbunden sei; 

しかし、君主の観念は、平凡な意識にとっては、まったく当たり前のものと見られているので、そうしてここではさらに悟性は(概念と存在との)かの分離のもとに留まっているいるために、そして、そのあれこれ理屈をこね回す賢しらから導き出した結論のうえに立って、国家において本来的に(すなわち理性概念において)最終決定の要素が直接的な自然性(君主)と結びついていることを否定するのである。

woraus zunächst die Zufälligkeit dieser Verbindung und, indem die absolute Verschiedenheit jener Momente als das Vernünftige behauptet wird, weiter die Unvernünftigkeit solcher Verbindung gefolgert wird, so daß hieran sich die anderen, die Idee des Staats zerrüttenden Konsequenzen knüpfen.
 
そこから、さしあたってはこの(最終決定の要素と君主という自然性との)結びつきの「偶然性」が主張され、そして、理性的なものとしてのそれぞれの要素(普遍、特殊、個別)の絶対的な区分が主張されることによって、さらには、このような結びつきの不合理が結論づけられて、その結果として他面において必然的に、国家の理念を破壊するといった結末がもたらされるのである。※1
 
 
 
 
 ※1
国家の最終的な意思決定(概念)とその具体的な自然的存在である君主との結びつきを合理的なものとして認められない平凡な意識と悟性は、むしろ、その不合理を結論づけて国家の理念を破壊してしまう。

ヘーゲルの上記のこの説明は、彼が目撃したフランス革命のその歴史的な結末の論理的な検証でもある。そしてまた、今なおその具体的な事例となっているのが、憲法学者にして今はなき元東大名誉教授の奥平康弘氏などの「天皇制」理解と言えるかもしれません。

奥平氏は自らの著書『萬世一系の研究』の中で「「女帝」論議をひきおこす根幹である天皇制には、いかなる合理的な根拠があるのか。」という問いを発せられる一方、そのあとがきの中では「天皇制と民主主義とは両立しない」と断言される。

しかし、奥平康弘氏のこの結論は、「公共理性」の検証ともいえるヘーゲルの『法の哲学』の必ずしもじゅうぶんに批判的な検討の上に得られたものではないようです。むしろ、それはヘーゲルのいう「悟性的思考」によってもたらされたものにほかならない。

東大法学部で永年にわたって憲法学の講座を担当されてこられた奥平康弘氏のこの結論は、今日もなお、樋口陽一氏などの他の多くの日本の憲法学者たちとも共通する見解として、日本の憲法学界の多数意見として広範な影響力を有しているものと考えられます。

願わくは、現在東大法学部に在学中の司法の若き卵たちにも、このヘーゲルの『法の哲学』と奥平康弘氏の『萬世一系の研究』や樋口陽一氏らの「憲法学」との比較研究を実行して戦後日本の憲法学界の通説の是非を検証していただきたいものです。
 
 
 
 ※ご参考までに
 
※追記
 
悟性的思考による国家理念の破壊の事例としては、上記の奥平康弘氏や樋口陽一氏らの東大派憲法学者たちの国家観の他に、歴史的にも大きな影響力をもったマルクスの共産主義国家観も含めるべきかもしれません。マルクスやレーニンたちの共産主義国家観の破綻は歴史的事実として実証されていると思います。こうした国家観の根幹の重要問題については、世の学識者たちのさらなる議論と検証を期待したいと思います。 (20181121)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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§ 280b[概念から存在への移行]

2018年07月11日 | 法の哲学

 

 

§ 280b[概念から存在への移行]

Dieser Übergang vom Begriff der reinen Selbstbestimmung in die Unmittelbarkeit des Seins und damit in die Natürlichkeit ist rein spekulativer Natur ※1, seine Erkenntnis gehört daher der logischen Philosophie an.

純粋な自己規定の概念から存在の直接性へのこの移行は、そして、そこでの自然性への移行は、純粋に思弁的(spekulativer)な本性(自然)であり、その認識はしたがって論理的な哲学に属する。

Es ist übrigens im ganzen derselbe Übergang, welcher als die Natur des Willens überhaupt bekannt und der Prozeß ist, einen Inhalt aus der Subjektivität (als vorgestellten Zweck) in das Dasein zu übersetzen (§ 8).

それは要するに、意志の本性として一般に認識されており、そしてその(意志の)過程であるところのものと全く同じ移行のうちにある。一個の内容は、主観性から(考えられた目的として)そこにあるもの(定在)へと移し替えられるのである。(§8)

Aber die eigentümliche Form der Idee und des Überganges, der hier betrachtet wird, ist das unmittelbare  Umschlagen der reinen Selbstbestimmung des Willens (des einfachen Begriffes selbst) in ein Dieses und natürliches Dasein, ohne die Vermittlung durch einen besonderen Inhalt - (einen Zweck im Handeln).

しかし、理念の本来の形態と、ここに考察されている移行は、意志の純粋な自己規定(単一な概念自体の)の、特殊な内容(行為における一つの目的)を通した媒介なくして、一つの此の物と自然のそこにあるもの(定在)への直接的な転換である。

⎯  Im sogenannten ontologischen  Beweise vom Dasein  Gottes ist es dasselbe Umschlagen des absoluten Begriffes in das Sein,
was die Tiefe der Idee in der neueren Zeit ausgemacht hat, was aber in der neuesten Zeit für das
Unbegreifliche ausgegeben worden ist, - wodurch man denn, weil nur die Einheit des Begriffs und des Daseins (§ 23) die Wahrheit ist, auf das Erkennen der Wahrheit Verzicht geleistet hat.


神の存在のいわゆる存在論的証明において、絶対的な概念が存在に転換することと、それは同じものである。それは近代において理念の深みを構成してきたものであるが、しかし、最近では理解しがたいものにされてしまっている。⎯そうして、概念と定在の統一(§23)のみが真理であるから、そのことによって人は 真理を認識することを放棄してしまうことになった。

Indem das Bewußtsein des Verstandes diese Einheit nicht in sich hat und bei der Trennung der beiden Momente der Wahrheit stehenbleibt, gibt es etwa bei diesem Gegenstande noch einen Glauben an jene Einheit zu.

同時に悟性の意識はこの(概念と定在の)統一を自らのうちにもたず、そして真理の二つの要素を分離することにとどまりつつも、この対象(神の存在)においては、いまだなおいくらかはその統一についての「信仰」をもっている。

 

 ※1
「die  rein   spekulativer   Natur 純粋に思弁的な自然(本性)」とは何か。これは先に述べられている「純粋な自己規定の概念 Begriff   der   reinen Selbstbestimmung」の言い換えとみていいと思う。概念の客観的な存在を自明とするヘーゲルの立場からすれば、その概念が自己を規定して自然的な存在(定在)に至るのは、概念の純粋に思弁的な本性(自然)にほかならない。これは、また、意志の本性 die Natur des Willens  として一般に認識されている事柄と同じでものであるという。

一軒の「家」を建てようとする人間の意志は、その頭脳に青写真として描いた家の「概念」を、木材、セメント、鉄骨といった素材を合成し建築という労働を介して、客観的にそこにある実際の家として存在を実現する。

一方で生命の概念は、たとえば一頭の蝶は純粋に自己を規定する客観的に存在する概念として、みずからを卵、幼虫、蛹、成虫と自己を規定して成長させてゆくとともに体の形や構造を変えていく。その論理的な本性 die  rein   spekulativer   Natur  は、人間の意志が建築によって家の概念を客観的な現実的存在として実現する場合と異ならない。

この事態を認めることができない経験論者にして唯物論者のマルクスなどは、ヘーゲルのこの定式化について「神秘化している」とか「形而上学的な公理に歪曲している」として批判するが、これは筋違いの批判というべきだろう。むしろ、その悟性的な意識は、概念(普遍)とその実現としての定在(個別)との統一についての意識をもたず、それら概念の要素を分離したものとしてしか認識しない。そのことによって活ける生命を殺してしまうのである。

 
 
 
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§ 280 a[君主の概念と個人]

2018年07月09日 | 法の哲学


§ 280 a[君主の概念と個人]

3. Dieses letzte Selbst des Staatswillens ist in dieser seiner Abstraktion einfach und daher unmittelbare Einzelheit; in seinem Begriffe selbst liegt hiermit die Bestimmung der Natürlichkeit; der Monarch ist daher wesentlich als dieses Individuum, abstrahiert von allem anderen Inhalte, und dieses Individuum auf unmittelbare natürliche Weise, durch die natürliche Geburt, zur Würde des Monarchen bestimmt.

§280

3.
国家意志のこの究極の自己(君主)は、この彼自身の抽象化において単一であり、そして、したがって直接的な個別性である。彼の概念自体の中には、このように自然性の規定がある。君主はしたがって本質的に
この個人として、他の内容のすべてから抽象化され、そして直接的な自然の形をとったこの個人であり、自然の出生によって、君主の尊厳は決定づけられているのである。




 
 
 
 
 
 
 
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§279 Zusatz.[国家の人格としての君主]

2018年07月06日 | 法の哲学

 

§279  Zusatz.


Zusatz. Bei der Organisation des Staats, das heißt hier bei der konstitutionellen Monarchie, muß man nichts vor sich haben als die Notwendigkeit der Idee in sich: alle anderen Gesichtspunkte müssen verschwinden. Der Staat muß als ein großes architektonisches Gebäude, als eine Hieroglyphe der Vernunft, die sich in der Wirklichkeit darstellt, betrachtet werden.

 

§279  補註[国家の人格としての君主]

国家の組織においては、すなわち、ここ立憲君主国家体制においては、それ自らのうちに理念の必然性以外の何ものも人は考えてはならない。他の観点の全ては消え失せなければならない。国家は巨大な建築的な構造物として、現実において自らを表現する一つの理性の象形文字として、考察されなければならない。

Alles, was sich also bloß auf Nützlichkeit, Äußerlichkeit usw. bezieht, ist von der philosophischen Behandlung auszuschließen. Daß nun der Staat der sich selbst bestimmende und vollkommen souveräne Wille, das letzte Sich-Entschließen ist, begreift die Vorstellung leicht. Das Schwerere ist, daß dieses "Ich will" als Person gefaßt werde.


単なる実用性や、外面性などにのみかかわるすべては、哲学的な取り扱いから除外されなければならない。国家が自己決定的で完全な至高の意志であり、最終的な自己決定であるということは、今やその考え方は簡単に理解しうることである。最も難しいことは、この「私は決する Ich will 」を人格として捉えることである。

 
Hiermit soll nicht gesagt sein, daß der Monarch willkürlich handeln dürfe: vielmehr ist er an den konkreten Inhalt der Beratungen gebunden, und wenn die Konstitution fest ist, so hat er oft nicht mehr zu tun, als seinen Namen zu unterschreiben. Aber dieser Name ist wichtig: es ist die Spitze, über die nicht hinausgegangen werden kann.

だがこれをもって、君主が恣意的に行動することが認められていると、言われるべきではない。むしろ君主は会議の具体的な内容に拘束されており、憲法が確定されている時には、もはや君主はそこに自己の名を署名する以上のことはふつう何もしていない。しかし、この署名が重要なのである。それは決して超えられない頂点である。

Man könnte sagen, eine organische Gliederung sei schon in der schönen Demokratie Athens vorhanden, aber wir sehen sogleich, daß die Griechen die letzte Entscheidung aus ganz äußeren Erscheinungen genommen haben, aus den Orakeln, den Eingeweiden der Opfertiere, aus dem Fluge der Vögel, und daß sie sich zur Natur als zu einer Macht verhalten haben, die da verkündet und ausspricht, was den Menschen gut sei.

アテネの美しい民主主義にはすでに一個の有機的な体制が存在していたと言えるが、しかし、私たちは同時に、ギリシャ人が最終的な決定を全くの外部の事象から、神託から、生贄にした獣の内臓から、鳥類の飛翔から、受け取っていたのを見る。彼らは、人間にとって何が善いのか、を告知し宣告する権力に対してふるまうように、自然に対してもふるまっていたことを見るのである。

Das Selbstbewußtsein ist in dieser Zeit noch nicht zu der Abstraktion der Subjektivität gekommen, noch nicht dazu, daß über das zu Entscheidende ein "Ich will" vom Menschen selbst ausgesprochen werden muß. Dieses "Ich will" macht den großen Unterschied der alten und modernen Welt aus, und so muß es in dem großen Gebäude des Staats seine eigentümliche Existenz haben. Leider wird aber diese Bestimmung nur als äußere und beliebige angesehen.

自己意識はこの時代においては、まだ主観性の抽象化※にまでは達しておらず、決定すべき事柄についても、一個の「私は決する」ということばで人間自らが宣明しなければならないのだというところにまで達してはいなかった。この「私は決する Ich will」は、古代と近代の世界とを大きく区別するものである。そうして、国家という偉大な建造物においては、それは国家に固有の実存をもたなければならないのである。しかし残念なことに、この決定(私は決する Ich will)が外的で恣意的なものとしてのみみなされていることである。


Subjektivität  については、日本語では「主観性」とも「主体性」とも訳しうるけれども、何れにしても、抽象化 Abstraktion によって、Subjektivität  が個別性の桎梏を脱して、普遍性にまで高まることが、実際に何を意味するかはわかりにくい。個別具体的な「私」が抽象的で普遍的な「私=我々」の意識にまで高まるということか。自己意識が分裂して、自己が自己を反省しうるようになること、これが Abstraktion の現実的な意味である。ヘーゲルは人間意識のこの抽象作用の意義(その反面としての否定的な作用も)を的確に高く評価している。

 

 
 
 
 
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