夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

北朝鮮とアメリカの猿芝居

2007年06月28日 | 国家論

北朝鮮の弾道ミサイル…政府、米朝双方の動きを注視(読売新聞) - goo ニュース

北朝鮮とアメリカの猿芝居

アメリカが「悪の枢軸」とまで明確に規定した北朝鮮の悪行について、その国家的な貨幣偽造、麻薬売買、大量破壊兵器の密輸などのあれほど悪行について、明らかに最近のアメリカの政策に変更が見られる。

アメリカの政権の内部からは、ラムズフェルドは国防長官を辞し、北朝鮮の金正日独裁専制政府に対してもっとも強硬な姿勢を示していたジョン・ボルトンは国連米大使を辞任し,ウォルフォウィッツは転任先の世界銀行を不祥事のために辞任し、現在のチェイニー副大統領はほとんど影を潜めてしまった。そして、現在はクリントン前大統領以来の国務省の官僚であるヒル国務次官補が北朝鮮との交渉に当たっている。

中東の民主化を強力に推し進めようとした、いわゆるアメリカの「ネオコン」派に対して、イラク戦争に反対するわが国の自称「平和主義者」たちには、彼らに嫌悪と憎悪を抱くものが多いが、日本の国益に寄与したのは、むしろ、これらの「ネオコン派」の勢力だった。正義感も強く日本の拉致問題にももっとも協力的で、核問題と拉致問題の解決は、北朝鮮の金正日体制崩壊以外にないと信じていたのは「強硬派」のボルトン氏だった。

アメリカ議会で民主党が多数派を占めるようになりつつある現在において、今のアメリカの対北朝鮮政策は、日本にとっては最悪とものとなりつつある。

いや、むしろ最悪は最善でもあるともいえる。というのも日本の「平和主義者」たちの、アメリカに守られながらアメリカを批判するといった甘えと哀れな偽善が許されなくなりつつあることを認めざるを得なくなるだろうからである。

民主党が多数派を占めつつあるアメリカ議会は、日本のいわゆる「慰安婦問題」で中国、韓国の言い分を聞き入れても、日本の反論には聞く耳を持たなかった。

日本の「平和主義者」たちの好きなヒラリーの属するアメリカ民主党には親中国派が多く、アメリカの下院外交委員会で「従軍」慰安婦に関する対日謝罪要求決議案が可決されたばかりである。アメリカがそうして日本を冷たく突き放すことは、子供の日本が親離れをし、親のアメリカが子離れして、互いにより対等な独立国家として同盟関係に入っていく上で、そして、太平洋戦争の未曾有の敗北による精神的な退廃から、日本国民がようやく復活する契機を見出せる点で、それなりに意義があるかもしれない。

これからは、より自由で自立した独立の国家として、対北朝鮮や対中国、対ロシアなどの北東アジア政策の再構築を日本も余儀なくせられてゆくだろう。これは必ずしも悪いことばかりではない。国家の危機は、国民の倫理的な背骨を正すことにもなりうるからである。

北朝鮮の金日正政権が核兵器を放棄することをまともに信じているとすれば、それは日本の一部の極楽トンボだけだろう。アメリカもそんなことを信じて北朝鮮と交渉しているものは誰もいない。今回のアメリカの譲歩で、核カードの威力に味をしめた北朝鮮はなおさら核を放棄するはずもない。北朝鮮は、イラクのフセインが、核兵器をカードに持たなかったがゆえに崩壊させられたことを知っている。

これからの日本の困難は、北東アジアの六カ国協議で、日本の国益が他の五カ国と矛盾するようになったとき、どれだけ東アジアにおいて孤立に日本が耐えて、自由と独立を維持しながら、自らの平和と国益を守り抜けるかである。

「国際関係における諸国家の相互の関係においては、そこでは諸国家はそれぞれが特殊なものとして存在するから、激情や利益が、もろもろの目的や才能と能力が、暴力、そして不法と背徳などの内的な特殊性が、最高度に突き動かされて飛び跳ね回るだろう。それは、広大な現象の世界において、外的な偶然性が遊び戯れるのと同じだ。そうした中では、人倫的な全体そのものは、国家の独立性は、思いがけない偶然性にさらされることになる。」   (ヘーゲル『法哲学§340』)

日本もまたこの偶然性に翻弄されないように、十分に対応してゆく必要があるだろう。しかし、現在のわが国の指導者たちと国民に、それに耐えうる器量があるだろうか。

    日本はいつまでアメリカに甘えていられるか

 

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日々の聖書(15)――神の裁き

2007年06月12日 | 宗教・文化

日々の聖書(15)――神の裁き

猟師が籠を小鳥で満たすように、
彼らは家を偽りで満たしている。
そうして、彼らは強大になり、
金を蓄える。
彼らはますます太り、
脂ぎっている。
こんな悪人どもの行いを、
私は見過ごすことができるか。

孤児の訴えも取り上げず、
それでも、彼は栄え、
貧しき者たちの権利を正しく裁くこともない。

どうして、この民に報いて、
主は言われる、
罰せずにおられようか。
驚くべきおぞましいことが、
この地に起きている。

(エレミア書第五章第27節~第30節)

神の裁きは、哲学においては必然性として捉えなおされる。哲学は必然性を追求するのものであり、そこに神の意思を探求しようとするからである。論理学が「神の叙述」であり、ロゴスの把握であり、その意味で、哲学が神を対象としていることは、宗教と同じである。

そして、神が世界を裁くという聖書の世界観は、歴史において理性が働いているという哲学の認識と本質的には同じである。聖書においては、神が天地を創造したとされるのであるから、そこに、自然や人類の歴史に、神の意思が貫かれていると見るのは当然である。かって老子も「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉で同じ事柄を表現している。

路傍のあやめの花にも、空の鶯の囀りにも、神の働きを感じることもできる。そこにも神の摂理が働いている。時には、何の罪のない幼児がさまざまな事故に遭遇して、命を失うこともある。それも、ある意味では「神の意思」であるというほかない。それは、われわれ人間の想像を超えている。人類の歴史的な産物である国家もまた同じである。国家もその働きから言って、概念的には神の意思を担っている。

政治の世界も同じである。そこにも、また何らかの必然性が、宗教的に言えば、神の裁きが貫かれているとしか言いようがない。国家も国民も個人も、絶対的な神の意思によって裁かれるのであり、その裁きの網の目から漏れることのできるものはいない。

エレミヤの言葉にもまた、彼が生きた当時の人々、国民に対する神の裁きが告げられている。彼と同時代人の、彼の生きた社会の様相を、エレミアは記録しているが、それも、ただ記録するだけではなく、その「裁き」についても預言している。

エレミアは言う。

民衆は愚かで、分別もなく、
悪には知恵が働くが、善きことを行うことを知らない。(同書4:22)

エルサレムの通りを巡って人々をよく見るがいい。
市場に行って探してみよ。正義を行い、真理を求める者を一人でも探し出せるか。
もしいれば、主はエルサレムを許されるだろう。(同書5:1)

十分に食べ物を与えたのに、彼らは姦通し、
遊女とともに時を過ごす。
そして、太った種馬のように、情欲に燃え、
隣人の妻を慕い、いななく。(同書5:7~8)

預言者は嘘ばかり言い、
祭司は好き勝手なことをおこない、
人々はそれを喜んでいる。
お前たちは最後にはどんな目にあうか。(同書5:30)

エレミアとともにこうした時代を生きたエルサレムのユダヤ人たちは、紀元前587年ごろ、バビロニアの王ネブカドネザルによって、バビロニア(現在のイラク)に奴隷として囚われていった。ユダの王は目をつぶされ鎖につながれ、神殿も破壊された。そのときの悲惨な様子は、続篇のエレミアの「哀歌」の中に克明に描写されている。エレミアは明らかにそこに神の裁きを見ている。

こうした歴史的な事件は、何もエルサレムだけの出来事ではない。小ながらも、現代の日本においても、独立行政法人「緑資源機構」の汚職容疑で、関係者が三人、自ら命を絶っている。

その一人は、現職の農林水産大臣の松岡利勝氏だった。自らの命と引き換えにしなければならないほど、この事件が深刻なものになっていたということである。安部晋三内閣は、現職大臣の自殺によって守られたともいえる。農林水産行政で辣腕を振るった、松岡利勝氏が、そこまで追い詰められたということである。そこに働いていた過酷な必然性を、哲学もまた洞察せざるを得ない。個人の運命も、内閣の運命も、国家国民の運命も、神の御手からまぬかれることはできない。

猟師が籠を小鳥で満たすように、
彼らは家を偽りで満たしている。
そうして、彼らは強大になり、
金を蓄える。
彼らはますます太り、
脂ぎっている。
こんな悪人どもの行いを、
私は見過ごすことができるか。

孤児の訴えも取り上げず、
それでも、彼は栄え、
貧しき者たちの権利を正しく裁くこともない。

どうして、この民に報いて、
主は言われる、
罰せずにおられようか。
驚くべきおぞましいことが、
この地に起きている。

(エレミア書第五章第27節~第30節)

 2007年06月05日

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