「さて三重性はカントにおいてはまだやっと本能によって再発見せられたものであって、こうして真実の形式が同時にその真実の内容において提出せられて学の概念が顕現するようになった。こうなった以上⎯⎯我々が目撃するように、この形式が生命のない図式 Schema に、
— review (@myenzyklo) 2018年3月26日 - 20:16
いな全くの幻影Schemen に、また学的組織が一覧表に格下げされているような、この形式の使用法は何か一廉の学問的なものと看做されるわけにはいかないのである。」
— review (@myenzyklo) 2018年3月26日 - 20:16
(ibid.,s.46)
このさい一方では、普通の直観から感覚的諸規定が取り上げられるが、これらはそれぞれの表現の言ってるのとは、むろん何か異なったものを意味すべきはずのものであり、他方では主観、客観、実体、原因、普遍者等々のごときそれ自体としては意義を持つ思想の純粋な諸規定が普通の生活におけるのと、
— review (@myenzyklo) 2018年3月26日 - 21:01
また強化、弱化、膨張、収縮という語が用いられるのと全く同じように吟味もされずに無批判的に用いられている。その結果として、これらもろもろの感覚的な「表象」と同じく、かの形而上学もやはり学的ではないのである。
— review (@myenzyklo) 2018年3月26日 - 21:02
(ibid.,s. )
そこでこの形式主義においてはものごとの内的な生命とこの生命の定在の自己運動が語られる代わりに、「直観」によって、と言っても、ここでは感覚的な知識にほかならぬ直観によって右のような単純な限定が表面的な類推にしたがってものごとについて言明せられ、
— review (@myenzyklo) 2018年3月26日 - 21:30
公式のかかる外面的で空ろな適用が構成と呼ばれている。⎯⎯かかる形式主義においても事情はいずれの形式主義におけるのとも同じである。病気には無力症と強力症と間接的無力症があり、また同数の治療法もあると唱える理論があり、そしてほんのちょっと前にこの理論をさえ心得るならば、
— review (@myenzyklo) 2018年3月26日 - 21:32
理論的な医者となるのに十分だというのであるが、そうであるとすると、こんな理論を一五分間のうちに教え込まれて、この短時間のうちに、ありきたりの町医者から理論的な医者になり変わることのできない頭脳がもしあるとすれば、よほど鈍い頭脳にちがいないであろう。
— review (@myenzyklo) 2018年3月26日 - 21:32
(ibid.,s. 48)
同様にこの形式主義も自然哲学においては例えば、「悟性は電気である」とか、「動物は窒素である」とか、また動物は南ないし北に等しいとか、或いは南ないし北を代表するとかなどというようなことを説く。もっともここに再現したような、むき出しの形で説くこともあれば、
— review (@myenzyklo) 2018年3月26日 - 21:59
比較的に多くの術語を混ぜあわせ調合して説くこともありはするが、いずれにしても、このさいには遥かに距たっているように見えるものを掴み合わせる能力が示されており、また静止せる感覚的なものがかかる結合によって蒙る激しい力も示されており、
— review (@myenzyklo) 2018年3月26日 - 22:01
こうして感覚的なものには概念の外観が与えられている。もっとも感覚的な表象の「概念」自身ないし意義を表明するという肝心の課題ははぶかれているにしても⎯⎯しかし、こういう能力や激しい力に接すると、未経験のものはびっくり仰天して、こんな事のうちに深遠な天才の霊感を賛美し、
— review (@myenzyklo) 2018年3月26日 - 22:01
また抽象的な概念に代えるに直観的なものをもってするところのかの諸規定の愉快さに喜びを感じ、さらにはかくも素晴らしい業にそこはかとなき魂の共感を覚えて我と我が身を祝福することであろう。
— review (@myenzyklo) 2018年3月26日 - 22:01
(ibid.,s.48)
※
— review (@myenzyklo) 2018年3月26日 - 22:02
ヘーゲルの口の悪さは並大抵のものではない。これではシェリングと絶交にすることになるのも無理もないな。