夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

自由民主党の解体と戦後日本の終焉

2008年04月29日 | 国家論

補選敗因は「後期高齢者」…でも制度見直しせず 町村氏(朝日新聞) - goo ニュース

今回の衆議院山口県第二区補欠選挙における自由民主党の敗北は、歴史的に大きな意味をもつものと考える。また、日本国民はそれを歴史的に意義のある転換点として行く必要がある。

どのようにして、この補欠選挙の民主党の勝利を、歴史的な転換点の始まりとして行くべきか。それは、この選挙を自由民主党の政党としての崩壊の始まりとして行くことによってである。

自由民主党こそが、日本の戦後政治の大枠を作ってきた。良くも悪しくも、この政党が太平洋戦争の敗北後の日本の命運を握ってきたといえる。たしかに、吉田茂以来、戦後の日本の平和を実現し、経済大国に作り上げてきたその功績は正当に評価されるべきだろう。しかし、また現在に至るこの政党による官僚政治の行き着いた否定的側面こそが、日本社会の行き詰まりの根源になっている。この政党を崩壊させることによって、真実の意味で日本の戦後体制を壊滅させ、日本国の再生の契機として行く必要がある。

戦前の翼賛体制主義者と右翼暴力団によって創設されたこの偽善的な自由民主党の崩壊は、日本国にとっては真実の自由と民主主義の出発点になる。この自由民主党が崩壊することによって、現在の小沢民主党の解体をも巻き込んで、日本の政界は再編される必要がある。それによって、日本の政党政治が、従来の道路族にみられるような利益談合政治から、自由と民主主義を追求する理念実現政党政治へ転換して行かねばならない。そのためにも現在の政界は、自由主義者の結集する自由党と民主主義者の結集する民主党へと分裂し、また再編されなければならない。

それと同時に、敗戦後のアメリカ統治による戦後日本の東京裁判体制をも哲学的に清算し、戦前を引きづった官僚政治国家体制の根本的な改造も実行して行かなければならない。東京裁判のような戦勝国、占領国の手による裁判ではなく、日本国民自身の手によって戦前の政治家、軍人たちの日本国民に対する過失と犯罪を法廷の場で、あるいは国会に歴史評価委員会を創設して少なくとも10年ごとに、日本国民自身が太平洋戦争を、過去の歴史を今一度総括し清算してゆく必要がある。

日本国の国家体制を大日本帝国憲法下の戦前の体制に還元し、戦後にアメリカによって実行された民族解体、国民意識のアメリカナイズ化、植民地的政治体制を清算して、日本人自身の手による主体的な国家改革の端緒として行く必要がある。それによって醜悪な戦後政治体制を清算し、真実の自由民主主義国家体制がどのようなものであるかを、日本国民に実感できるものにしてゆかなければならない。

 

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業平卿紀行録6

2008年04月17日 | 芸術・文化


業平卿紀行録6

その後に嵯峨天皇の跡を継いだ異母弟の淳和天皇とその子恒貞親王は、やがて嵯峨天皇の子である仁明天皇と皇位の継承をめぐって対立することになる。淳和天皇の跡を継いだ仁明天皇は、はじめは淳和天皇の子恒貞親王を皇太子としていたが、仁明天皇の女御はそのとき権勢を誇っていた藤原北家の冬嗣の娘順子であり、その兄が良房だった。良房は妹の子すなわち甥の道康親王を仁明天皇の後継に皇位を望むようになる。

このとき淳和上皇とその子恒貞親王に組みしていたのが大伴氏と橘氏であった。嵯峨上皇が亡くなられたあと藤原北家の良房は、恒貞親王を擁立しようとした大伴氏や橘氏たちと争うことになる。

このとき業平の父である阿保親王は、かって自身が連座した薬子の事件に懲りていたのか大伴氏や橘氏に組みせず、藤原良房や嵯峨天皇の后である橘嘉智子に通じたらしい。その結果842年(承和9年)擁立を阻まれた恒貞親王は太子を廃され、その後出家して嵯峨大覚寺を創建したという。これがいわゆる承和の変で、この変の後、藤原良房の妹の順子の子道康親王が文徳天皇として嵯峨天皇の跡を継ぎ、やがて藤原良房は摂政となった。こうして藤原良房は天皇の叔父として外戚となり、大伴氏、橘氏、紀氏などその他の名族を押さえて権勢をかためてゆく。

大化の改新以前は天皇家は蘇我氏との姻戚関係によって蘇我氏の血筋を引くことになったが、大化の改新以後は、先の桓武天皇のお后藤原乙牟漏に見られるように、藤原氏との姻戚関係によって天皇家は藤原氏と祖先を共通にするようになる。

ちなみに、このときの嵯峨天皇は空海と並ぶご三筆のひとりとして知られ、また承和の変に連座して伊豆に流された橘逸勢もこの三筆のひとりに数えられている。そして、この阿保親王の子が在原業平であり、業平は文徳天皇の第一皇子である惟喬親王に仕えた。そして、文徳天皇の子清和天皇の女御が藤原高子である。

古今和歌集の中に六歌仙として取り上げられている在原業平、僧正遍昭、文屋康秀、小野小町はいずれも仁明天皇、文徳天皇、清和天皇の御代に宮仕えをし、とくに、僧正遍昭は仁明天皇の崩御に殉じて出家したものであり、この仁明天皇は深草の御陵に葬られて、小野小町らともゆかりの深い帝として知られている。

 

 

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業平卿紀行録5

2008年04月16日 | 芸術・文化

業平卿紀行録5


朝廷では天皇家や藤原氏を取り巻く皇位をめぐる争いははげしく、天智天皇や天武天皇の御代以前も以後にも絶えなかった。また桓武天皇の即位すらすでに皇位をめぐる権力争いの様相を呈していた。今も昔も政治には権力をめぐる暗闘には事欠かないということである。と言うよりも、権力をめぐる闘争こそが政治に他ならない。それが古今東西にわたる普遍的な人間的な真実なのだろう。

桓武天皇が即位された頃にも、勢力を広げた藤原氏内部の間にも、とくに式家と北家との間には皇位の継承をめぐって争いが絶えなかった。式家の祖は三男の宇合、北家の始祖は次男の房前、いずれも藤原不比等を父とする。そして不比等には天智天皇の落胤という説もあるらしい。

百済王を祖先にもち、身分もかならずしも高くはない高野新笠を母としていた桓武天皇が、それにもかかわらず皇位を継承することができたのも、藤原北家に対して勝利をおさめた藤原式家の後援があったためと考えられる。

桓武天皇が即位してからも天皇家の外戚の地位や皇位をめぐる争いは絶えることはない。桓武天皇の第一皇子である平城天皇は、病弱であった上に、しかもご自分の妃の母である藤原薬子を寵愛したゆえに桓武天皇に疎んじられた。そのためもあったのか桓武天皇は弟の早良親王を太子に立てていた。

しかし、この早良親王は長岡京の造宮使として新京建設の責任者であった藤原種継を暗殺した嫌疑で捕らえられ、淡路島へ配流される途上に無実を訴えながら死んでいったという。平城天皇もこの事件に無関係ではなかったらしい。この早良親王の御霊を鎮めるために造営された神社が上京区にある上御霊神社であるという。

そして暗殺された藤原種継の子供が仲成、薬子の兄妹だった。この兄妹は平城天皇の異母弟である伊予親王とその母吉子を謀反の嫌疑で自害させる。また、平城天皇の寵愛を得て、天皇とともに平城京にふたたび遷都を図ろうとして兵を挙げるが、結局は弟帝の嵯峨天皇に阻まれてその望みを遂げることはできず、平城天皇は出家し、仲成は殺され、薬子は毒を飲んで死んでしまう。これが薬子の変と呼ばれる事件である。

この事件に関与した咎で、平城天皇の第一皇子である阿保親王は、810年(弘仁元年)に大宰権帥に左遷される。また、第三皇子の高岳親王は皇太子を廃され、出家して弘法大師の弟子になる。この親王は仏教の真理を求めて入唐し、さらに天竺にまで赴こうとして消息がわからなくなったという。

この嵯峨天皇との政争に敗れた平城天皇や阿保親王を祖父や父にもって生まれたのが在原業平だった。その血脈から言えば業平は嵯峨天皇の第二皇子であった仁明天皇やその子文徳天皇に劣っていたわけではない。むしろ桓武天皇につながる天皇家の嫡流に属していたといえる。しかし父祖たちの事跡が業平の生涯に深く影を落としていることを思うと、個人が引き継がざるを得ない宿命というものを考えざるを得ない。

嵯峨天皇との政争に敗れた平城天皇や阿保親王を祖父や父にいただいたがゆえにこそ、当時の権勢家藤原一族からは遠く、権力の中枢からは外れざるを得なかった。おそらくそうした鬱屈した思いが、業平の生涯に特別な色相を添えることになったにちがいない。

 


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業平卿紀行録4

2008年04月16日 | 芸術・文化

業平卿紀行録4


その後中臣の鎌足は、娘たちを天皇家の後宮に送り、天皇家の外戚となることによって権力を確立していったのであるが、これは彼らが滅ぼした蘇我氏の一族が勢力を強めたのと同じやり方だった。ここではこの歴史的な事件の背景、その経済的なあるいは政治的な動機などについては、深く論じることはできない。ただこうした政治的な事件をきっかけにして、今日的な用語で言えば、天皇を中心とした天皇全体主義とでもいうべき政治経済体制が確立されてゆくことになったのは事実のようで、それまでにも中国や朝鮮から多くの文物を手に入れてはいたが、遣唐使などの派遣も制度化されて、中国の国家体制に倣って、日本における律令国家体制がさらに整備されてゆく。

桓武天皇のお后であった藤原乙牟漏の曾祖父がこの中臣鎌子、すなわち藤原鎌足である。この若くして亡くなられた美しい后の父は藤原良継、祖父は藤原不比等である。こうして桓武天皇のお后であるこの藤原乙牟漏に生まれた子供が後の平城天皇と嵯峨天皇および高志内親王である。

この平城天皇は幼児期をそこで過ごしたためだったのか、父の桓武天皇が長岡京、平安京と遷都した後も、奈良の都を恋しく思ったのだろうか、平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位した後にも、上皇となって旧都の平城京に戻りそこに住んだ。そして、新しい都平安京に住む弟帝の嵯峨天皇から復権を企て、ふたたび奈良の京、平城京に遷都しようとして平城上皇が弟帝と争った事件が薬子の乱であった。

こうしてみると、ふだん散歩の途中にも、その前をただ何思うこともなく通り過ぎていた后藤原乙牟漏の高畠陵を思い出すとき感慨深いものがある。歴史を知るということはこういうことなのかも知れない。「后姓柔婉にして美姿あり。儀、女則に閑って母儀之徳有り」と『続日本紀』に記され、わずか三十一歳の若さでなくなったこの后の残した二人の兄弟、安殿親王、神野親王がその後に遷都をめぐって地位を争うようになることなど、このお后のご生前には知るよしもなかっただろう。

 



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業平卿紀行録3

2008年04月15日 | 芸術・文化

業平卿紀行録3

 

一昨年の秋に、この十輪寺からもさほど遠くない大原野神社を訪れたときには、昔に読んだことのある伊勢物語をあらためて取り出したり源氏物語のことを思い出したりして少し調べてみた。そして、この洛西地域一帯が、とくに大原野と呼ばれるあたりは伊勢物語や源氏物語などにもゆかりの深いところであることもわかった。また、比叡山に延暦寺を創建した最澄や高野山の弘法大師空海が入唐したのも、業平のまだ生きていた頃と同じ時代であることもわかった。

平城京から長岡京、さらに平安京へと遷都の繰り返されるこの激動する時代の背景は調べてみるとなかなか面白く、学生時代に学んだ日本史が本当に通り一遍のもので「歴史を学ぶ」ということからははなはだ遠かったことが悔やまれた。

しかし後悔は先に立たずで、これをきっかけに自分なりに少しでも日本史のおさらいをしておくことにした。そうすれば、これからも歴史的な遺跡を見ても視点も定まり、またそれらを観る眼も違ってくると思う。これから歴史を考える上で必要な前提になる。

日本の古代史で大きな歴史的な転換点となったのは、大化の改新である。大化の改新を拠点としてその後の日本史の基礎が据えられたともいえるからである。この歴史的な事件のきっかけになったのは西暦645年に起きた「乙巳の変」だった。

ときの中大兄皇子とその家臣である中臣鎌子の二人は、当時の政権を掌握していた蘇我入鹿を暗殺して蘇我一族を滅ぼし、それに取って代わってそれぞれ天智天皇、藤原鎌足として権力の中枢に上り、改新の詔を発して、あらためて帝道を唯一のものとして天皇制を確立した。また、帝を補佐する臣下の筆頭として藤原氏の地位を確立することによって、その後の政治体制の基礎を築いたからである。

 



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業平卿紀行録2

2008年04月14日 | 日記・紀行

 

業平卿紀行録2

東山の交差点を西に行くと小畑川と善峰川の合流地点に新上里橋がかかっている。ここから善峰川沿いにのぼる。途中に町家の門塀のブロックの下などにもチューリップなどが彩りを添えていて春らしい。今年の春の記念にとカメラに収める。川沿いの土手にも一本の桃の木の枝から白と薄紅のきれいな花をつけて餅花のように咲いていた。それもカメラに収める。

道なりにさらに西へ走ると墓場があり、そこには先の太平洋戦争で亡くなられた方のものらしく中尉の肩書きなどが墓石に刻まれてある。やがて左手に警察犬の訓練学校がある。宇ノ山の交差点に出る。そこを南に行くと光明寺に到るが、まっすぐに仕出し料亭のうお嘉さんの前を抜けて、灰方郵便局前の三叉路に出て左に折れる。そこを少し南に走ったところに十輪寺の案内標識が立っている。この標識には「業平ゆかりの寺」と書かれてある。この道は散歩コースで、いつも目にしていてよく知っていたが、業平を偲びに訪れるのははじめてだった。

その標識の指示する方向に進むと、右手に大歳神社がみえる。その向かいにミキサー車の誘導をしていたガードマンが立っていたので十輪寺のことを訊ねると、まっすぐに行くと案内板がみえるとのことだった。さらに行くとゴルフクラブの練習場があり、小塩の標識がかかっている。その前の道を北に行くと善峰寺のあることは何度も来ていて知っている。なるほど標識には善峰寺と十輪寺が並んで案内されている。ここから坂は少し上り道になる

少し行くと十輪寺の看板が見えた。そうかこんなところにあったのかとあらためて気づく。この道はこれまでも数え切れないくらい来ているのに、このお寺の前を素通りして気がつかなかっただけなのだ。

十輪寺は業平ゆかりのお寺である。そして業平は伊勢物語とは切り離せない。というよりも、伊勢物語や古今和歌集のゆえに、在原の業平は人々の記憶に留められているといえる。この十輪寺はその業平が晩年隠棲したと伝えられる寺である。今もこのあたりは大原野小塩町という。地名がいにしえのよすがに残されている。

これまでにもさまざまな神社や寺院を訪れてはいるけれども、友人たちとは共通の趣味や仕事の話題がほとんどで、神社や寺院の歴史的な由来などには興味もなく、秋の紅葉や春の花を楽しんだだけで終わる場合も多かった。ただ昨年ぐらいから何となく過去の歴史にやや興味を覚えはじめ、折りに触れ気の赴くままに、それらの旧跡の歴史を調べ始めた。するとさまざまのこともわかって、それなりに興味もわいてくる。

 

 


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業平卿紀行録1

2008年04月13日 | 日記・紀行

業平卿紀行録1

 

外出を予定していたのに雨に降られたりで、先日もかなり強い雨と風で、桜も泣いているだろうと思っていた。しかし、きのうになってようやく夕方から本格的な晴れ間がみえはじめた。きっと明日は一日晴れるだろうと確信がもてたので、心にかかっていた十輪寺を訪れることにした。

自転車で行く。とくに春や秋に野に出かけるには、自転車が最適の乗り物である。菜の花や桜並木を眺めながら、土手の上などを風を切って走れば、否応がでも春の到来を実感する。

桓武天皇のお后であった藤原乙牟漏さまの御陵の傍を抜ける。このあたりは昔の山背国乙訓郡であって、この地に平城京から遷都されて新しい都が据えられたのである。この皇后様は若くして亡くなられたから、平安京に都が移される前にここに葬られた。というよりも、この皇后の若死になどが桓武天皇の心を不安にさせたことも長岡京から平安京に移るきっかけの一つにもなったといえる。

帰化人の泰氏が多く住んでいた太秦もここから遠くなく、また新しい都の建設にこの帰化人たちの力を借りようという思惑もあったらしい。桓武天皇の母堂は百済王の血を引く娘だったという。


 

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『法の哲学』ノート§2

2008年04月11日 | 概念論

§1で哲学的法学の対象が、法の概念、すなわち自由とその実現過程にあることを述べた後、法学の端初について説明する。哲学的な法律学は、法の概念とその進展を問題にし対象にするから、この法律学においては当然にその始元が問題になる。

こうした問題意識を持つのは、ヘーゲルの哲学が何よりも科学を必然性の追求として捉えたからで、そして哲学の端初は、無前提にして絶対的な端初でなければ必然的とはいえない。

ここで述べられているように、ヘーゲルにおいては法学は、精神哲学の中の客観的精神に位置づけられ、この客観的精神自体もそれに先行する段階の概念から演繹され必然的な成果として現れたものである。それゆえ法学も理念としてはそれに先行する前提を持つものである。だからヘーゲルの哲学的法律学は、自己の出生の由来も知らずにひたすら狭い井戸の中で自己満足している実証的法律家や数学者とはちがうのである。

事柄の概念的な把握を科学と考えるヘーゲルは、法律学の端初について考えるのにちなんで、この§2の補注においても哲学の端初を問題にして触れている。法律学や物理学などの他の諸科学と異なって、哲学は絶対的に必然的な、しかも無条件、無前提であるがゆえに相対的な始元を持たなければならない。この科学的哲学における始元の問題については、すでにこの「法の哲学」に先行する「大論理学」の緒論でヘーゲルは詳説していたが、それをヘーゲルはここでも繰りかえす。

しかし、実際に世界のあらゆる存在はすべて媒介されたものであって、絶対的に無条件に直接的な端初はありえない。とはいえ始元がなくして世界はどうして存在するのだろうか。この問題はほんらい、世界の二律背反の問題と同じであって、この矛盾をヘーゲルの哲学は円環の中の一点に端初を見いだすことによって解決する。

こうして絶対的な哲学の方法と、それとは異なる他の悟性的科学や実証法法学と、科学としての方法のちがいを補注の中でさらに注釈して行く。なぜなら、この科学の方法論こそがヘーゲルの独自とするものであって、彼の自負するところのものでもあったからだ。

ふつうの科学では、たとえそれが感覚や表象にもとづいたものであるとしても、その対象についての定義が要求されるのに、実証法的法学はその定義すら重要視されないと言っている。なぜなら、実証法的法学においては、事柄が合法か非合法か、犯罪か無罪かさえ明らかになればよいからである。ちょうど日本国憲法で自衛隊は軍隊か否かその定義について、八百代言のような政治家の言い分がまかり通るのと同じである。この同じ注釈のなかで、ヘーゲルが古代ローマ社会においてはなぜ人間の定義が不可能であったのかを、その社会の抱えていた矛盾によって説明してるのは卓見で、今日の日本政府にはなぜ自衛隊の定義が不可能であるのか考えあわせると興味深い。

ここでヘーゲルが、他の普通の悟性科学がその科学の方法として行う概念の定義と、概念を必然的に進展するものとして捉える哲学の方法における概念の定義と、その区別について述べているところは、ヘーゲル哲学の本領を示すものとしてきわめて重要である。

この哲学的な認識においては、「概念の必然的な進展」が主要な問題であり、その成果の生成過程の説明が概念の証明として演繹されることになる。これこそがヘーゲルの功績としたところであり、それによって、哲学的認識が、単なる臆見や主観的な内心の確信や俗見の思いこみなどではなくて、「理性」や「理念一般」を対象とする科学となったのである。

ヘーゲルが哲学において何よりも「概念の形式」を要求し、証明という「認識の必然性」を求めたことには、当時の一般の風潮から、単なる主観的な「感情」や「信仰」といった「恣意や偶然性の原理」から哲学の品位をも守ろうとしたためである。それはまた、プラトン、アリストテレスに由来する古代ギリシャ哲学の伝統の復興でもあった。

 

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『法の哲学』ノート§1

2008年04月10日 | 概念論

この『法の哲学』の緒論で、まずヘーゲルは「哲学的な法律科学」が考察の対象としているのは、「法(Recht)=正義」の「概念(Begriff)」、およびこの概念が現実に具体化してゆくその過程であることを明らかにする。

この節の中の補注で、ヘーゲルはイデー(理念)を概念と言い換えている。科学の対象である概念は、普通に人々が考えているような「悟性規定」ではなく、この概念は現実において具体化して行くものである。この概念をわかりやすく説明するために、ヘーゲルは心と身体をもった人間という表象にたとえる。概念が人間の心であるとすれば、概念の具体化されたものが身体にほかならない。

心も身体も同じ一つの生命ではあるが、しかし、心と身体は区別されてもいる。

またさらに、概念とその現実化、具体化を種子と樹木にもたとえている。
概念とは樹木の全体を観念的な力として含んでいる萌芽(種)であり、それが完全に具体化されたとき、現実の樹木全体になるのである。人間の概念は心であり、樹木の概念が種子である。

それに対して、法の概念は自由であるとヘーゲルは言う。そして、この法の概念である自由が具体化され実現されたものが、現実の国家であり憲法であり民法や刑法などの法律の体系である。ヘーゲルの「法の哲学」は、この自由の概念が具体化され必然的に展開されてゆく過程そのものを叙述し論証してゆくものである。

やはり、ここで注意しなければならないのは、ヘーゲルにおいては「概念」という用語が、普通に一般の人たちに使われているような「単なる悟性規定」の意味ではなく、概念が、やがて萌芽から樹木全体にまで進展してゆく可能性を秘めた観念的な種子として、理念と同義に使われていることである。

そして、それが現実に具体化されて存在と一つになった概念、それが理念である。だから理念とは単なる統一ではなく、概念と実在の二つが完全に融合したものであり、それが生命あるものである。


 

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国家指導者論

2008年04月09日 | 日記・紀行

まだ断片的にしか読み始めてはいなけれども、ただ樋口陽一氏らの憲法学者の思想を読んでいて感じることは、一言で言うと樋口氏ら憲法学者や法律家の思想があまりにも悟性的であるということだろうか。

「悟性的」とはどういうことであるか。このことを考えるのに、それとは対概念でもある「理性的」という概念と比べてみればいいと思う。ここでは比喩的にしか言えないが、「理性的」であることとは、その思想を衣装にたとえれば、縫い目の見られない天衣無縫の天女の着ている着物であると言えようか。論理が必然的で円環的かつ体系的である。それに対して「悟性的」とは、つぎはぎだらけにその破れを繕った、三流役者の舞台衣装のようなものだと言うべきか。

要するに、悟性的な三文学者の思想には、有機体としての生命感や完全性を感じられないのである。たしかに、彼らの衣装の一部は派手で、思想の一部は真実を語っているにはちがいない。しかし、それは、どうしても部分的な真実にしか過ぎないものである。だからその主張はどこか偏頗で、いつかその弊害や副作用が現れてくるような印象を受けるものである。

樋口陽一氏たちの憲法学は、ヘーゲルの『法哲学』などを十分に解釈研究した上で構築された理論だろうか。現在のところは直感的ではあるが、とてもそうであるようには思えないのである。そして、そのことは樋口陽一氏らの憲法学流派の致命的な欠陥となっているようにも思える。また、そうであるなら、その結果として、彼らの憲法観が国家としての日本や日本社会や国民に及ぼすその文化的な悪影響の側面は、事実として少なくないように思われるのである。少なくとも、マルクスなどは、その試みが成功したか否かはとにかく、ヘーゲル哲学をアウフヘーベンしなければ近代以降の哲学や憲法は成立しないという意識を持っていた。

国民の税金で運営されている国立大学程度の教授であるならば、少なくともそれくらいの見識はもっていただきたいものである。プラトンはその『国家論』のなかで、国家の指導者たるものは「弁証法の能力を教養として体得しているべきである」と語っている。それと同じように、近代国家の指導者であろうとするものは、最小限でもヘーゲル哲学、とくにその「法哲学」くらいは、教養として身につけていなければならないだろう。大学や大学院がせめてその責任を果たすべきである。

今日の日本社会の低迷の根本的な原因には、この憲法学者の樋口陽一氏をはじめとする大学教授たちが、少なくとも日本国のエリートたるべき人材の育成について、国民に対して十分にその責任を果たしてゆく能力を持ち得ていないということがあるのではないだろうか。

プラトンではないけれども、国家に対して指導的な人材を育成するような大学においては、少なくともヘーゲル哲学を中心とする、『弁証法の能力』を確立させるということを自覚的な教育目標として追求してゆくべきである。政治家をはじめとして、現代の日本の国家的指導者の資質、能力はあまりにもお粗末である。

どれくらいに時間を要するかは分からないけれど、引き続き日本国憲法などの問題点については検討してゆきたいと考えている。

(短歌の試み)

夕暮れの街を自転車で走り抜けて小畑川の橋の上にさしかかったとき、眼下の川岸に桜並木を眺めて


夕暮れて  桜雲   薄墨に染まりゆきし    

                      棚引きて中空に流れ行く
 

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イザヤ書第24章を読む

2008年04月09日 | 宗教・文化

聖書を読むことがあるとしても、そのときは日本語訳よりも英語訳などの外国語訳で読む場合が多い。今現在、聖書を読む場合に使っているのは、主として「和英対照聖書」である。その日本語訳は新共同訳であり、英語訳の方は GOOD  NEWS  BIBLE である。ネットで調べてみると,このテキストGood News Bible(Today's English Version)はRobert G. Bratcherという人の翻訳であるらしい。日本の共同訳のように多数の学者による共同訳ではないようである。
(Good News Bible 
http://www.bible-researcher.com/tev.html  )

日本語訳にせよ英語訳のいずれにせよ、もちろん不完全な訳で、それぞれの翻訳者たちの生きた時代と国民性によってそれぞれに解釈された聖書であるにはちがいない。

聖書やキリスト教については、私は次のような立場に立っている。テキストとしては、新旧約聖書については七十人訳旧約聖書(Septuagint)とコイネー新約聖書を最終的なテキストとして認めている。そして、神学としてのヘーゲル哲学。基本的にはこの立場に尽きているといえる。

ただ、もしブログ記事などで英語訳聖書を引用することがあるとすれば、1851年に英国でSeptuagint Bibleの英語訳の労をとられたSir Lancelot C. L. Brenton氏の翻訳を使いたいと思っている。日本とは異なって、欧米の聖書研究は今もなお盛んなようで、幸いにもSir Lancelot C. L. Brenton氏の翻訳は、ネットでも読める。
(Septuagint Bible Online
http://www.ecmarsh.com/lxx/index.htm )

ただ、残念なことに現在のところ私のコイネーギリシャ語の能力はきわめて不十分で、Septuagint Bibleも原典新約聖書も十分に読めない。コイネーギリシャ語の能力の向上は今後の課題であると思っている。学生時代に、もし教養科目としてギリシャ語があって、そこで基本的な学習をしておればヨカッタのにと、この年齢になって後悔している。もちろん、外国語の能力の不足は聖書やキリスト教の本質についての理解の障害になるものではないけれども。

Esaias  Chapter 24

24:
1 Behold, the Lord is about to lay waste the world, and will make it desolate, and will lay bare the surface of it, and scatter them that dwell therein.

 2 And the people shall be as the priest, and the servant as the lord, and the maid as the mistress; the buyer shall be as the seller, the lender as the borrower, and the debtor as his creditor.

3 The earth shall be completely laid waste, and the earth shall be utterly spoiled: for the mouth of the Lord has spoken these things.

4 The earth mourns, and the world is ruined, the lofty ones of the earth are mourning.

5 And she has sinned by reason of her inhabitants; because they have transgressed the law, and changed the ordinances, even the everlasting covenant.

 6 Therefore a curse shall consume the earth, because the inhabitants
thereof have sinned: therefore the dwellers in the earth shall be poor, and few men shall be left.

 7 The wine shall mourn, the vine shall mourn, all the merry-hearted shall sigh.

 8 The mirth of timbrels has ceased, the sound of the harp has ceased.

 9 They are ashamed, they have not drunk wine; strong drink has become bitter to them that drink it.

 10 All the city has become desolate: one shall shut his house so that none shall enter.

 11 There is a howling for the wine everywhere; all the mirth of the land has ceased, all the mirth of the land has departed.

 12 And cities shall be left desolate, and houses being left shall
  fall to ruin.

ここで描かれているのは、神の世界審判である。そして、この世界審判の理由は、住民たちの犯す罪のためであり、人々の律法に対する離反のためである。イザヤをはじめとする預言者たちのこの認識は一貫している。

私たちは、すでに第一次、第二次世界大戦を神の世界審判として経験している。次に世界審判があるとすれば、それは核による世界戦争として現象するのではないだろうか。その意味でもイスラエルをめぐる中東の情勢については注視される必要があるだろう。ユダヤ人とその周辺諸民族との紛争は、今に始まったことではなく、人類の歴史的な記憶以来の、5、6000年来の出来事である。

 

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樋口陽一氏の憲法論ノート(1)

2008年04月02日 | 国家論

憲法学者の「権威」である樋口陽一氏が、日本人の人権意識の確立に大きな貢献をされていることはたかく評価しうるものです。しかし、それでも氏の人権論は、国家論との関係でいささか問題を感じるところがあり、樋口氏の論考について出来うる限り検証してみたいと考えています。単なるノートに過ぎないですが、いつか、この検討をまとめられる日が来ると思っています。そして、何よりも樋口氏の憲法論の検討を通じて、現行日本国憲法の問題点を検証してゆければと思っています。多くの方がこうした議論にも参加していただければと思います。

参考資料

 樋口陽一 争点と思想(樋口氏の憲法観と論点がまとめられてあります)http://www.geocities.jp/stkyjdkt/issue.htm

(樋口陽一氏の文章)>>マークははその引用個所。

> 

「おしつけられた憲法」という言い回しは1945-46年の具体的な制定過程についてだけでなく、立憲主義の内容そのものが少なくとも17世紀以来の西欧文化によって非西欧文化圏に「おしつけられ」ているのだという抗議を含意している。

 日本の改憲論はまだ近代立憲主義の枠内での可能な複数の選択肢を提示するという段階までには 達していない。

 主権原理の転換と政教分離の導入による神権天皇制の存立根拠の否定と神権天皇制と結合した皇軍そのものの解体の立憲主義にとっての不可避性、その必然的結びつきを解いてよいほどまでに「戦後」が終わったか。 「南京事件は無かった」「大東亜戦争は解放戦争だった」という言説が大きな抵抗にあうこともなく行われている日本はまだ「戦後」を終えることができないでいる。

 憲法論の内部問題としても思想・表現の自由とそれを制度的に担保すべきはずの司法の役割が自由の支えとしてのとしての非武装平和主義をとりはずしてよい程度まで成熟したか。 憲法九条は国家の対外政策の条件というより自由の条件として絶対平和主義を説いている。

 戦後日本で憲法九条は社会全体の非軍事化を要請する条項として批判の自由を下支えする意味をもつ

 第九条を争点の中心とする日本国憲法は戦後日本にとって個人の尊厳を核とする「近代」を日本社会が受容するため必然のもの。

 西洋近代の人権=立憲主義は自国の総力をあげた戦争に対してもそれを「汚れた戦争」として弾劾する、精神の独立と表現の自由を可能とするものであった。(アルジェリー・ベトナム反戦)しかし戦争そのものを否定するものではなかった。

 憲法九条はそのような西洋近代の内側で個人の尊厳をつきつめる観点から批判する意味を持っている。憲法九条の理念を個人の尊厳の核心とする近代立憲主義は自らに必然のものとしてあらためて 選び取り直すことが求められている。

ここでの樋口氏の論考に対する批判:

大学で説教する一個の憲法教科書のなかで理想論を語るのであれば、どんな理想を語っても許されるだろう。しかし、一国の、しかも諸外国との排他的な諸関係におかれている現実的な国家における憲法のなかでは、一国の憲法のなかで理想論のみを語って現実を没却することは、国民に対する責任の放棄以外のものではない。樋口氏が「戦後日本で憲法九条は社会全体の非軍事化を要請する条項として批判の自由を下支えする意味をもつ」というとき、彼は、国際的な諸国家間のさまざまな諸関係の葛藤のもとにおかれている日本の現実を忘れて、実現される見込みもない「自由の条件として絶対平和主義」の空想を語って反省することもない。

自国の戦争に対する批判は、たとえ、現行憲法の第9条がなくとも認められるべきであることはいうまでもない。しかし、だからといって日本国民の個人的な自我の弱さや批判的な精神の弱さを、現行憲法第9条によって補足しようというのは、筋が通らない。

自国の国家政策に対する国民自身の批判的な精神の確立についての問題は憲法第9条の条項とは切り離して議論されるべきである。

一般に樋口氏の論考に感じられる問題点は、理想主義的な憲法学者としての氏の主張はとにかくとしても、それをストレートに、国家の現実の憲法の中に持ち込もうとしていることである。現在の世界史の段階では、国際社会に信頼して(国連に信頼して?)、そこに自国の安全の保障を求めようとする現行日本国憲法の前文の精神の空想性とその現実的な帰結こそが批判的に検証されなければならないのではないだろうか。

憲法九条は国家の対外政策の条件というより自由の条件として絶対平和主義を説いている。

ここにもすでに樋口氏の限界が出ている。樋口氏は、憲法が単なる憲法学者の理想を語る作文でもなければ、単なる哲学的作品であってはならないという基本的なことすら忘れてしまっているようだ。憲法学者の私的な研究論文や哲学的著作であるならば、いくらでも好きなだけ「軍事力の放棄を、自由の条件としての絶対平和主義を説いて」理想を語ることも許されるだろう。しかし、いざ一国の憲法となると別である。憲法にあっては、哲学的な抽象論や理想論を語るよりも、むしろ国際的な「対外政策の条件」を主たる考慮において規定しなければならないのである。ここにも、樋口氏の現実的政治家ではありえない空論的学者の虚しさ、現実的な国際関係を無視した憲法学者の空論的無能力が出ている。

いずれにせよ、樋口氏の「平和主義」や「人権主義」は、人間性善説の上に構築された理論で、人間性悪説を十分に検討されているようには思えない。少なくとも、人間性悪説に立ったものではない。

  (次回より樋口氏の著書に直接当たって検討して行きたいと思います。)

 

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小野小町7

2008年04月01日 | 芸術・文化

小町の恋愛とその生涯が後の世にこれほど広く深く広まったことには、さらに南北朝時代から室町時代に生きた観阿弥、世阿弥の親子の力があったと思う。

彼ら親子は能という芸術を通じて、小町の恋愛と仏教の無常観を象徴的に描き出した。それが武士階級を通じてやがて民衆の間にも広まっていったと考えられる。しかし、卒塔婆小町や通小町など七小町として謡曲などの物語の主人公となった小野小町は、もはや仁明天皇に采女として仕えた歴史的な小町ではない。ひとりの生きて泣き笑う具体的な肉体をもった女性ではなく、すでに物語の中の小町は、人々に人間と人生の真実を告げる普遍的な小町そのものになっている。

勅命を受けて古今和歌集の編纂に従事した紀貫之たちは、同じ氏族の紀静子を母とする惟喬親王や、父の謀反の失敗ゆえに出世の路を閉ざされた在原業平と同じく、当時天下を牛耳りつつあった藤原氏のようには運命を謳歌することはできなかったにちがいない。そんな彼らに代わって、紀貫之は六歌仙の世代に属する人々の笑いや悲しみや恋の物語も美しい歌物語として編み残そうとしたようである。

古今和歌集の末尾には、

698         恋しとはたが名づけけん言ならん 
                      死ぬとぞたゞにいふべかりける

と詠じた清原深養父の歌を連想させるように、深養父に呼びかけながら、詞書きとともに貫之自身が次の歌を詠じて締めくくっている。

    深養父  恋しとはたが名づけけん言ならん下

1111        道しらば摘みにもゆかむ 
                      住之江のきしに生ふてふ恋忘れ草

この歌は明らかに鎮魂歌でもある。歴史の中に生まれ、そしてその中に姿を消していった多くの人々の恋の歓びや悩み、花の美しさや別れの悲しみを歌いながら時間の彼方に消えて行った人々の心を慰めるために歌ったようにもみえる。

しかも、貫之は、仮名序の中で小野小町のことを衣通姫(そとほりひめ)にたとえていた。そのそとほり姫が帝のことを恋い慕って詠んだ歌が貫之の歌の前に置かれてある。

      そとほり姫のひとりゐてみかどを恋ひたてまつりて

1110        わがせこが来べきよひなり  
                      さゞがにの蜘蛛のふるまいかねてしるしも

 

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小野小町6

2008年04月01日 | 芸術・文化

小町が思いを男性に託して恨みを述べている歌としては、ただ一つ
残されている。それは小野貞樹に当てたもので次の歌。

                                       をののこまち

782         今はとて  わが身時雨にふりぬれば 
                           言の葉さえに移ろひにけり

          返し                          小野さだき  貞樹

783         人を思ふ心この葉にあらばこそ  風のまにまにちりもみだれめ

小町が当時のきびしい身分制度をのりこえられずに、恋を成就させることができたのは、この小野貞樹だけだったのかも知れない。この歌からも推測されるように、貞樹との交際は、小町が若き日々を過ごした宮仕えを離れてからのことであったように思われる。

もし若き日に小町が采女として帝にお仕えしていたとすれば、小町が帝に身近に接する機会もあったはずだし、当時は北家藤原氏の子女のほかには御門の正室や側室になることはむずかしかったから、帝の方もかなわぬ恋でありながらも、政略のからまない美しい小町に思いを寄せたことがあったとしてもおかしくはない。

同じ古今集の墨滅歌の中にも、天の帝が、近江の采女に我が名を漏らすなと詠っている歌がある。また、巻第十四の恋歌四には、世間の噂を心配する近江の采女に贈った帝の歌(702番)ものせられている。

702         梓弓ひき野のつゞら  
                すゑつひにわが思う人に言のしげけん

このうたは、ある人、天のみかどの近江の采女にたまひけるとなむ申す

703         夏びきのてびきの糸を 
                      くりかへし言しげくとも絶えむと思ふな    

この歌は、返しによみたてまつりけるとなむ

采女や更衣はそれほど帝とは身近なところにいた。

深草の少将が実際に誰のことであるのか少し調べてみても、桓武天皇から土地を賜った欣浄寺にゆかりのある深草少将義宣卿がその人であるとするには無理がある。この人は仁明天皇が生まれて間もない頃にはすでに亡くなっている(813年)。仁明天皇にお仕えしたと考えられ、この帝の亡くなられた(850年)後も交際のあったらしい小町や僧正遍昭とは、世代が会わない。

深草の少将のゆかりの寺とされるこの欣浄寺にはその後、仁明天皇から寵愛を受けた少将蔵人頭、良峰宗貞(後の僧正遍昭)が御門の菩提を弔うためにそこに念仏堂を建て、帝の祈られた阿弥陀如来像と御牌を前にして念仏にいそしまれたという。だから、畏れ多いこの帝が後の人々によって深草の少将に名を変えられたとしてもおかしくはない。また、この天皇は深草に葬られて、その御陵も深草陵と呼ばれている。ただ、これ以上の詮索はたいして意味があるとも思えないのでこれくらいにしておきたい。

 

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小野小町5

2008年04月01日 | 芸術・文化

また小町自身がどのような女性であったかについては、1300年頃の鎌倉時代に生きた吉田兼好の徒然草の第百七十三段に小野小町が事として、「極めて定かならず」とすでに書いている。吉田兼好自身は小町ゆかりの山科の小野の山里に領地を買って住んでいたらしいから、小町の言い伝えなどは、よく耳にする立場にいたはずである。深草の少将が誰であったかについては語られていないから、まだその頃にはこの伝説も成立していなかったのかも知れない。

つれづれ草で語られているのは、晩年の小町の衰えた様子が『玉造小町壮衰書』という本に見えること、清行という男がそれを書いたらしいこと、また、この本を当時すでに流布していたらしい弘法大師空海の著作とするには、小町の若く美しい盛りは大師の死後のことらしいから、道理にあわずおかしいと言っている。だから、たとえそれが「極めて定かではない」ものであったとしても、すでに小町のことが世代を越えて人々の記憶に留められていたことは明らかである。

兼好がここで小町のことを書いたのは、その前段の中で、心の淡泊になった老年の方が憂いと煩いが少なく、情欲のために身を過ちがちな若い時よりも勝っているという感慨をもったことから僧正遍昭や小町のことを連想したためらしい。小町の晩年について流布している言い伝えも、この『玉造小町壮衰書』という本が大きく影響していることは明らかであり、それは仏教の教えの中に取り入れられて語られている。

113   花の色はうつりにけりな   いたづらに我が身世にふるながめせしまに

小町が美人の代名詞であればこそ、その美のはかなさも嘆きも深刻なものになる。恋多き生涯とその時間の移ろいの早さを嘆いた小町の歌が、時間という絶対的な流転のなかに生きざるを得ない人間の運命を象徴するものとなった。このような歌はおそらく小町のような女性のほかに詠まれる必然性はない。伊勢にも紫式部にも詠まれなかった。

そして、それがやがて仏教思想の流入と広がりとともに、小町の生涯は無の諦観によって解釈し直されて『玉造小町壮衰書』などにまとめられ、もう一つの小町の伝説になっていった思われる。

兼好法師は、この本は弘法大師ではなく清行が書いたと言っているが、この清行という男が、小町とともに真静法師が導師をつとめる法事に参加したときに、導師の説教にかこつけて言い寄って肩すかしにあった(古今集第556番)あの安部清行のことであるなら、振られた意趣返しに、小町の晩年をこの本で残酷なものに描いたとも考えられる。彼なら小町の生涯を身近に見聞きしていたとも考えられて興味深い。

      下つ出雲寺に人のわざしける日、真静法師の導師にて
      いへりけることばをうたによみて、小野小町がもとに
      つかはせりける
                            あべのきよゆきの朝臣

556   つつめども袖にたまらぬ白玉は  人を見ぬ目のなみだなりけり
           
      返し                   こまち

557    おろかなる涙ぞ袖に玉はなす  我はせきあへず  
                  たぎつ瀬なれば

 

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