夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

§278[国家主権]b

2018年05月30日 | 法の哲学

 

Dies ist die Souveränität nach innen; sie hat noch eine andere Seite, die nach außen (s. unten).
- In der ehemaligen Feudalmonarchie war der Staat wohl nach außen, aber nach innen war nicht etwa nur der Monarch nicht, sondern der Staat nicht souverän. Teils waren (vgl. § 273 Anm.) die besonderen Geschäfte und Gewalten des Staats und der bürgerlichen Gesellschaft in unabhängigen Korporationen und Gemeinden verfaßt, das Ganze daher mehr ein Aggregat als ein Organismus, teils waren sie Privateigentum von Individuen und damit, was von denselben in Rücksicht auf das Ganze getan werden sollte, in deren Meinung und Belieben gestellt.


これらは国内に対する主権である。国家主権は、なお他の側面も、国外に対する主権もまた持っている(下記参照)。

かっての封建君主制にあっては国家はたしかに外に向かってはいたが、しかし、内に向かっては、ただ単に君主のみでなく国家もまた主権者ではなかった。一部においては(§273註解参照)国家と市民社会の特殊な職能と権力は、独立した職業団体や共同体において構成され、全体は、したがって一個の有機体というよりもそれ以上に一個の集合体であったし、一部においては、それらは個人の私有財産であり、したがって、職能や権力については全体を考慮して行われるべきであるものが、彼らの私見や裁量のもとに置かれた。



 
 
 
 
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§278[国家主権]a

2018年05月28日 | 法の哲学

 

 

§ 278

 

Diese beiden Bestimmungen, daß die besonderen Geschäfte und Gewalten des Staats weder für sich noch in dem besonderen Willen von Individuen selbständig und fest sind, sondern in der Einheit des Staats als ihrem einfachen Selbst ihre letzte Wurzel haben, macht die Souveränität des Staats aus.

 

[国家主権]

これらの二つの決定的な要素、すなわち国家の特殊な職務や権力は、それら自身で独立しているわけでもなければ、また、独立した個人の特殊な意志の中にあって確固としてあるのでもなく、そうではなく、単純なそれ自体としての国家の統一性のなかに、その最終的な根拠をもっており、それらが国家の主権 die Souveränität を構成する。

 

 ※
ここで「主権」と訳した原語は「die Souveränität」。この概念についてはさまざまな問題を含んでおり、さらに詳しく考察してゆく必要があると思う。§275 の註解でヘーゲルは君主権の概念を説明するときにも、die Souveränität を用いている。このときは、あえて「主権」とせずに、「至高のもの」と訳した。翻訳については、引続き推敲し精確を期してゆくつもりですが、誤訳などがあれば指摘していただければありがたい。
 


sovereignty 主権
 
 Noun

 sovereignty, supremacy, dominion   主権
 supremacy, sovereignty, domination, dominion, dominance, ascendance  至上
 sovereignty  万乗

Synonym 同義語
 
noun 名詞
jurisdiction, rule, supremacy, dominion, power, ascendancy, suzerainty, hegemony, domination, authority, control, influence
 noun
autonomy, independence, self-government, self-rule, home rule, self-determination, freedom
 noun
 reign
 see also
popular sovereignty  人民主権, consumer sovereignty, 
national sovereignty 国家主権

 
 
 
 
 
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§277[国家の特殊な職能や活動]

2018年05月25日 | 法の哲学

 

§ 277[国家の特殊な職能や活動]

β) Die besonderen Geschäfte und Wirksamkeiten des Staats sind als die wesentlichen Momente desselben ihm eigen und an die Individuen, durch welche sie gehandhabt und betätigt werden, nicht nach deren unmittelbarer Persönlichkeit, sondern nur nach ihren allgemeinen und objektiven Qualitäten geknüpft und daher mit der besonderen Persönlichkeit als solcher äußerlicher- und zufälligerweise verbunden. Die Staatsgeschäfte und Gewalten können daher nicht Privateigentum sein.

§277

β)国家の本質的な要素としての国家の特殊な職能や活動は、国家に固有のものである。そして、それらを取り扱い運営するのは個人を通じてであるが、これらの個人の直接的な人格性を通じてではなく、そうではなくただ、彼らのもっている普遍的にして客観的な熟練と素質を通じて、したがって、こうした外的にして偶然的なやり方に結びついた特殊な人格によるのである。官職と権力は、したがって私有財産になることはできない。

 
Zusatz.

Die Wirksamkeit des Staats ist an Individuen geknüpft; sie sind aber nicht durch ihre natürliche Weise berechtigt, die Geschäfte zu besorgen, sondern nach ihrer objektiven Qualität. Fähigkeit, Geschicklichkeit, Charakter gehört zur Besonderheit des Individuums: es muß erzogen und zu einem besonderen Geschäfte gebildet sein. Daher kann ein Amt weder verkauft noch vererbt werden. In Frankreich waren die Parlamentsstellen ehemals verkäuflich, in der englischen Armee sind es die Offiziersstellen bis zu einem gewissen Grade noch heute, aber dies hing oder hängt noch mit der mittelalterlichen Verfassung gewisser Staaten zusammen, die jetzt allmählich im Verschwinden ist.

§277 註解

[公職と個人]
国家の働きは個人と結びついている。しかし、個人はその生まれつきの性質によっては国家の職務を手に入れることを正当化されない。そうではなく、個人の特性とむすびついている彼の客観的な品性、能力、技術、性格によって正当化されるのである。個人は教育を受け、特別な能力が形成されなければならない。したがって公職は買うことも相続することもできない。 フランスでは、かって議会職は買うこともできたし、英国軍では将校の役職については今に至るもある程度までは買うことができる。しかし、こうしたことは今や一部の国家の徐々に消滅つつある中世的な憲法と多かれ少なかれ結びついている。

共産主義者のマルクスも、ヘーゲルの「法の哲学」について、特に§261〜§313 については詳細に批判的に検証している。

Marx
 
Kritik des Hegelschen Staatsrechts (§§ 261-313)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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§276 註解[国家という有機体の要素の観念性]

2018年05月24日 | 法の哲学

 

§276

Zusatz.

Mit dieser Idealität der Momente ist es wie mit dem Leben im organischen Körper: es ist in jedem Punkte, es gibt nur ein Leben in allen Punkten, und es ist kein Widerstand dagegen. Getrennt davon ist jeder Punkt tot. Dies ist auch die Idealität aller einzelnen Stände, Gewalten und Korporationen, so sehr sie auch den Trieb haben, zu bestehen und für sich zu sein. Es ist damit wie mit dem Magen im Organischen, der sich auch für sich setzt, aber zugleich aufgehoben und sakrifiziert wird und in das Ganze übergeht.


註解
[国家という有機体の要素の観念性]

(国家の)要素のこの観念性については有機的な身体における生命のようなものである。生命は有機的な身体のそれぞれの器官に存在しているが、すべての器官にはただ一個の生命があるに過ぎない。それぞれの器官は、生命に対して敵対するものではない。身体から切り離されてしまうと、それぞれの器官は死んでしまう。このことは、すべての個々の身分、権力、企業の観念性についてもまた同じであり、それらはまたそれぞれに自分自身として存在し自立しようとする衝動をもっている。それは有機体における胃のようなものでもある。胃もまた自身のために作られているが、しかし同時に保存され犠牲にされて全体の中に融合してゆく。

 ※

ヘーゲルは国家を有機体としてとらえ、またその生命性を非物質的な、しかし客観的に実在する観念性としてとらえる。家族や身分や階級は国家内の要素der Momenteであり、それらは独立性をもつとともに、また国家に揚棄されてその一器官として全体のために働く。ケルゼンなど他の凡俗の憲法学者たちの国家観は死にもので、何よりも国家のこの観念性と生命性とに理解が及ばない。

 
 
 
 
 
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§276 政治的国家の根本規定.[Die Grundbestimmung des politischen Staats]

2018年05月23日 | 法の哲学

 

§ 276

1.Die Grundbestimmung des politischen Staats ist die substantielle Einheit als Idealität seiner Momente, in welcher αa) die besonderen Gewalten und Geschäfte desselben ebenso aufgelöst als erhalten und nur so erhalten sind, als sie keine unabhängige, sondern allein eine solche und so weitgehende Berechtigung haben, als in der Idee des Ganzen bestimmt ist, von seiner Macht ausgehen und flüssige Glieder desselben als ihres einfachen Selbsts sind.

1.政治的な国家を根本的に規定するものは、その要素(個別、特殊、普遍 ⎯⎯ 家族、市民社会、政府など)の観念性としての実質的な統一である。その統一の中で、α)特殊な権能と職業は、保持されているとともに、同時に解消されてもいる。そして、ただ保持されるとしても、独立したものとしてではなく、そうではなく、全体の理念の中において規定されたものとして、その全体の力から出て来て、そして、その単純な部分としての流動的な肢体そのものとして、その限られた範囲で認められる限りにおいてのみである。

政治的な国家を根本的に規定するものは、「家族、市民社会、政府など国家の諸要素(個別、特殊、普遍)」の観念性Idealität としての実質的な統一die substantielle Einheit であるという。観念性Idealitätということで人間(国民)の意識、国家意識との関わりが出てくる。

 

 

 

 
 
 
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§275 註解 Zusatz.[君主権の概念]

2018年05月22日 | 法の哲学

 

 

§275


Zusatz.

Wir fangen mit der fürstlichen Gewalt, das heißt mit dem Momente der Einzelheit an, denn diese enthält die drei Momente des Staats als eine Totalität in sich. Ich ist nämlich zugleich das Einzelnste und das Allgemeinste. In der Natur ist auch zunächst ein Einzelnes, aber die Realität, die Nicht-Idealität, das Außereinander, ist nicht das Beisichseiende, sondern die verschiedenen Einzelheiten bestehen nebeneinander. Im Geiste ist dagegen alles Verschiedene nur als Ideelles und als eine Einheit.
Der Staat ist so als Geistiges die Auslegung aller seiner Momente, aber die Einzelheit ist zugleich die Seelenhaftigkeit und das belebende Prinzip, die Souveränität, die alle Unterschiede in sich enthält.

§275

註解[君主権の概念]

私たちは君主権をもって始める。すなわち、個別性の要素をもって(mit dem Momente der Einzelheit)始める。というのも、(君主権の)個別性は、国家の三つの要素(※個別、特殊、普遍)を、一個の総体として自らのうちに含んでいるからである。「私」とは、くわしく言えば、もっとも個別的なものであるとともに、もっとも普遍的なものである。自然においてはまた、さしあたっては一個の個別的なものが存在するが、しかし、そうした実在する、非観念的な、相互排除的なものは、自己に安住するものではなくて、そうではなくて種々に異なった特殊なものとして互いに並存してある。精神においては、これに対して、区別される全てのものは、ただ観念的なものとして、そして一つの統一されたものとしてのみある。
国家は、そうした精神的なものとして、その要素の全てを展開してゆくが、しかし、その個別性は、魂に満ちたものであり、そして活動する原理であり、区別される全てのものを自らのうちに含む、至高のものである。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
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5月21日(月)のつぶやき

2018年05月22日 | ツイッター
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§275 君主権 (a. Die fürstliche Gewalt)

2018年05月21日 | 法の哲学

 

 

a. Die fürstliche Gewalt

§ 275

Die fürstliche Gewalt enthält selbst die drei Momente der Totalität in sich (§ 272), die Allgemeinheit der Verfassung und der Gesetze, die Beratung als Beziehung des Besonderen auf das Allgemeine, und das Moment der letzten Entscheidung als der Selbstbestimmung, in welche alles Übrige zurückgeht und wovon es den Anfang der Wirklichkeit nimmt. Dieses absolute Selbstbestimmen macht das unterscheidende Prinzip der fürstlichen Gewalt als solcher aus, welches zuerst zu entwickeln ist.


a  君主権

§275

君主権はそれ自身として総体性の三つの要素を自己のうちに含んでいる。(§272)(一)憲法と法律の普遍性、(二)特殊なものを普遍的なものへと関係づけるものとしての審議、そして、(三)自己を規定するものとして最終的に決定する要素(das Moment )、の三つである。かかるものの中に全ての残余のものがそこへと帰り来たり、また現実の起点としてそこから出てくる。この絶対的に自己を規定するものこそ、君主権を君主権として他から区別する原理を構成するものであるから、まずこれが初めに展開されるべきである。

 ※
現行日本国憲法を改正する際には、上に引用したヘーゲル法哲学の君主権などの考察も参考にしながら天皇の条項規定を検証する必要があると思う。
 
 
 
 
現行憲法 第一章第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
帝国憲法 第一章第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 
 
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5月20日(日)のTW:#国際連合と#世界審判

2018年05月21日 | ツイッター
 
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北朝鮮をめぐる国際情勢

2018年05月04日 | 歴史

 

北朝鮮をめぐる国際情勢

北朝鮮をめぐり国際情勢が大きな変化を迎えようとしています。この変化の主導力になっているのは、日米の経済制裁を主体とする圧力です。この経済制裁が可能であるのも、もちろんアメリカ軍を主体とする日米の軍事力が北朝鮮のそれに対して圧倒的に強大であるからです。

北東アジアをめぐる長期的な展望については、かっては次のように論じたことがあります。

 「北東アジアの夢―――六カ国協議の遠い行方

https://goo.gl/cSieFZ

しかし、確かに100年後、200年後の遠い行方については、そのような「夢」を語ることも許されるかもしれないが、さしあたっての次のdecade、10年についてはそのような楽観はできないと思います。

現在トランプ大統領が北朝鮮と行なっている交渉の行方は、日本の将来の動向にも深く関わってくる。その交渉の行方次第で、北東アジアにおける日本の安全保障上の地位(立場)が大きく変わってきます。

日本にとって北朝鮮の脅威が深刻であるのは、北朝鮮の保有する核爆弾と弾道ミサイルの射程が日本国民の頭上に定められているからです。今回の米朝交渉を通じて、トランプ大統領ははたして北朝鮮にその保有する核と弾道ミサイルの「完全廃棄」を実現させることができるのでしょうか、――これには金正恩は命がけで反対するでしょう。――したがってこの場合には、米朝交渉は決裂する可能性は大きいと思います。

しかし、文在寅と金正恩は、先に行なわれた南北朝鮮会談と、そこで発せられた「板門店宣言」を舞台とする国内外のマスコミを最大限に利用、活用して、「平和友好ムード」演出劇の国際的な拡散を狙って、国際世論の「平和志向」に火をつけるべく「世論操作」を行ないました。そうしてトランプ大統領に対して北朝鮮に対する軍事力行使を回避させるべく環境整備を徹底して行ないました。文在寅は「ノーベル平和賞」をトランプ大統領に譲るとまで言いました。

中国の「協力」もあって、今回の日米を主体とする北朝鮮に対する国際的な経済的な制裁圧力によって、北朝鮮の経済は破綻の瀬戸際にまで追い込まれました。金正恩は会談にまで自ら足を運んで出向かざるを得なくなりました。文在寅はそれを自らの望む朝鮮統一の絶好の好機としました。朝鮮戦争の「終結宣言」と北朝鮮との「平和条約」の締結を通して、彼は在韓アメリカ軍の韓国からの撤退を目指しています。

こうした状況において、日本国民の立場からすれば、金正恩とトランプによる米朝交渉の行方としては、次の二つの可能性を推測するしかありません。

現在北朝鮮の保有する総ての核兵器、短中長距離弾道ミサイルの「完全廃棄」をトランプ大統領は実現させるのか、それとも、アメリカにとって自らの直接の脅威となる核と長距離弾道ミサイルの廃棄だけを求めて、同盟国である韓国や日本に対する脅威となる短中距離弾道ミサイルの存在を許し、核兵器の段階的廃棄を認めて妥協するか、です。

歴史的な名声とノーベル平和賞に眼がくらんだトランプ大統領が、米朝会談の決裂を避けるために、核兵器と弾道ミサイルの完全廃棄を絶対的に拒否する金正恩に譲歩するということもありえます。

文在寅たちのつくりあげた「平和」を求める国際世論の醸成とノーベル平和賞という撒き餌につられて、トランプ大統領が、もし自国アメリカのみの当面の安全保障に満足して金正恩との交渉を妥結することになれば、北朝鮮の核ミサイルという深刻な脅威は、同盟関係にあるはずの、とりわけ日本には残されたままになります。その時に安倍首相はトランプ大統領をどこまで説得できるでしょうか。

確かにそこで「平和」という体裁はいちおう保たれるでしょう。しかし、この米朝会談によっては残念ながら同盟国であるはずの日本の安全は保証されません。北東アジアにおいて日本は、ロシア、統一朝鮮、中国、アメリカといった軍事強国に包囲された単なる「経済大国」として残されることになります。その場合には日本は、これらの軍事強国に対する「現金支払機」の地位に留まることになるでしょう。統一朝鮮から莫大な資金援助をもとめられ、それがまた自らの首をしめることになります。

「平和」の継続としてそれを日本国民の多数が受け入れるのならそれも仕方がないでしょう。実際にそうした未来は、これらの周辺諸国民にとっても「平和」の維持、継続する最も好ましい状況として受け入れられるでしょう。ただ、そのとき日本国民は第二次世界大戦当時のユダヤ人が周辺諸民族から受けたような境遇をたどることになるはずです。かってのユダヤ人たちも今日の日本人とおなじように、経済的には相応の地位を占めていたけれども、まともな国家も軍事的主権ももっていませんでした。大東亜戦争における日本の戦争と統治に対する中国人や朝鮮人の憎しみと復讐心も、観念的にイデオロギー的に強められこそすれ、今なお消えてはいません。

トランプ大統領はこれまでの閣僚人事において、対北朝鮮との交渉に融和的なビジネスマン出身の国務長官ティラーソンや軍人出身のマクマスター大統領補佐官を更迭し、CIA 長官に任命したポンペイオをさらに新たな国務長官に、また軍事力の行使に優柔不断な軍人出身のマティス国防長官などを差し置いて、大統領顧問にボルトンを迎え入れました。

また、前アメリカ太平洋軍司令官ハリスを次期の駐韓米国大使に予定するなど、こうしたトランプ政府の閣僚人事だけを見れば、現段階においてトランプ大統領は北朝鮮に核とミサイルの「完全廃棄」させることを放棄していないということは言えます。しかし、いずれにせよ、やはり最終的な決断はトランプ大統領自身が下すことになります。ボルトンの「リビア方式による核兵器廃棄」などの進言を彼に受け入れることができるかどうかは最後までわかりません。日本の官僚たちもそうした状況は十分にシュミレーションしていると思いますが。

 
 
 
 
 
 
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