夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

「書評へのご返信」の御礼

2014年02月02日 | 書評

 

「書評へのご返信の御礼

 

橡川一朗様

拝復

今年も年の瀬が押し迫って参りました。

 橡川様におかれましても日々ご健勝にお過ごしのことと存じます。

この度私のつたない「書評」に対して、過分なご返信を戴き、まことにありがとうございました。メールの受信を見落とし気づかず、お礼を申しあげるのが遅れましたこと、お詫びいたします。

書評へのご返信、拝読させていただきました。

「真の愛国心」と「民主主義」の我が国に行き渡るべく、橡川先生が長年にわたる学問のご研鑽に打ち込まれられたこと、僭越ながら敬意を表します。

ご 返信の末尾に「ドイツの歴史学者が自国の奴隷制を頑強に否定する背景には、自国文化への自信の無さから来る偏狭な愛国心があり」と述べておられましたよう に、ドイツの歴史学者に対する批判が、現在の日本のある種の「保守的論壇」に対する橡川先生の批判でもあることは推測できます。

ま た、 「わが日本で、せめて歴史学者だけでも、源氏物語とその古注を理解して、日本文化への確かな誇りに支えられ、そのうえで自国史上の汚点を率直に認めて、そ の遺制の克服に資するような「真の愛国心」を持ってほしいというのが、私のささやかな勉強のすえの悲願です。」と仰られていることも、橡川先生の生涯にわ たる学究の後に至った信念なのだろうと推察いたします。

橡川先生の仰られるように「そのうえで自国史上の汚点を率直に認めて」と言うことも私は反対ではありません。

し かし、同時にその一方で、「戦後の日本の民主主義教育」は、マルクス主義の階級闘争史観などの影響もあって、あまりにも過去の「自国史上の汚点」の強調の みに終始してきたと私は思います。そうして物事を一面でしか見ようとしない、あるいは見ることしかできないのも、戦後の日本国の教育が「浅薄な哲学の貧 困」の上に打ち立てられたものだからだと私は思います。

戦後の教育が本当に深く崇高なものであれば、「自国史上の汚点」とともに、「自国史上の栄光」も公平にその歴史的、哲学的意義をその深底において把握し、肯定、否定の両側面を公平に国民に教えてきただろうと思います。

橡 川先生のようにマルクス主義の影響に学問の研鑽を積まれた学者方は、かっての社会党党首、村山富市氏などもそうであると思いますが、当時の大日本帝国の置 かれた歴史的政治的な国際環境を公平に見ることなく、戦後のGHQの教育政策と共振して、「自国史上の汚点」のみを強調しすぎていると思います。

橡 川先生の仰る「自国史上の汚点を率直に認めて、その遺制の克服」することができるためには、その一方で「自国史上の栄光」の側面も日本国民が納得しなけれ ばなりません。それなくしては「自国史上の汚点を率直に認めて、その遺制の克服」することもできないと私は思います。敗戦後一世紀を過ぎて始めて、日本国 の自国の歴史を肯定否定両面をフィフティー・フィフティーで公正に評価できるようになるのだと思います。

歴史に利害関係の当事者として関わった中国共産党や現行日本国憲法やGHQの遺制が残されている間は、客観的で全面的な公正な歴史の評価はまだできないだろうと思います。

ご 返信を読んで感じた所を率直に書かせて戴きましたが、これらの問題については私も未だ研究途上にあります。残念ながら仏教思想としての「源氏物語」にも、 いまなお手を付ける余裕もありません。引き続き何かとご教示頂ければ幸いに存じます。また、先生のその他のご著書についても「書評」を書かせていただく機 会のあることを願っております。

橡 川先生は旧制一高の卒業生であられるそうですが、戦後の教育改革は改正された側面よりも改悪された比重 が大きいのではないかと思います。教養主義の失われた戦後教育では橡川先生のような学者も残念ながら生まれにくくなっているのではないでしょうか。旧制高 等学校教育を生きて体験されておられる橡川先生にも、戦前教育の実際についてその正確な記録を残して頂ければと思います。

最後に、先生のご返信とこの私のメールを、つたなくマイナーな私のブログ「作雨作晴」などにも記録させていただいてもよろしいでしょうか。

寒さのつのる時節柄、くれぐれもご自愛のほど、お祈り申し上げます。

                     ブログ「作雨作晴」 管理人    
                                        



※追記20140201

ここで橡川一朗氏が問題にされておられるのは、「真の愛国心」とは何か、ということと「自国史上の汚点を率直に認める」とはどういうことか、ということだと思います。

神 風特攻隊に所属して敵艦に体当たりした若い兵士たちの愛国心が、偽の愛国心だったとも思いません。彼らは若くして国のために命を犠牲にしましたから、橡川 氏のように、著書も論文も遺すことができませんでしたが、彼ら青年の日本兵士の愛国心が、橡川氏のそれよりも劣った「偽」の真実でない愛国心の持ち主で あったとは思いません。

ま た、「自国史上の汚点」といっても、その「汚点」がどのような原因で引き起こされたものであるのか、結果のみの観点からではなく、原因の方向からも追求す る必要があると思います。「汚点」といっても、ミクロの観点ばかりではなく、マクロの観点からも眺めなければ、歴史を客観的に公正に評価はできないと思い ます。「汚点」も他者があってはじめて汚点たりうるのですから。ですから、この「汚点」も現象だけを見るのではなく、その由って来る原因を 正しく洞察しなければ、「小さな悪」だけを過大に責めて、それより根本的な「大きな悪」を見ることもできず、見逃してしまうということになるでしょう。

また、現在のように中国共産党や現行日本国憲法やGHQの遺制が残されて、アメリカの占領統治が事実として存続している限りは、「敗戦国の論理」が「戦勝国の論理」とは対等には扱われることはないでしょう。

そ れではいくら「自国史上の汚点」を認めよといっても、その一方的で不公正な断定を国民は納得しないでしょう。少なくとも欧米と同等以上の「侵略」も「植民 地」も日本にはなかったからです。ただ欧米諸国と利害が対立していただけです。どちらが正義で、どちらが悪ということは、少なくとも日本には当てはまりま せん。ただ戦争に負けたから、一方的に「汚点」を承認させられているだけのことです。

ま たマルクス主義の階級闘争史観を信奉する人たちは、ブルジョア国家性悪説を克服できず、また、彼らの労働者世界市民主義は、国家の所属や国益に反する意識 や行為となって、自らの所属する具体的な国家や国民、民族に多大の損失を招くことになっているのも事実です。彼らの抽象的な国家観と労働者世界市民主義は、むしろ 自ら所属する国家の否定が彼らの価値観であり利益であり、またそれを肯定するまでになっています。朝日新聞などの記者たちに見られる自虐史観と言われる 「反日」行為も、彼らの持つ国家観や労働者世界市民主義の結果です。

大日本帝国があの戦争にもし勝っていれば、すべての価値観は現在のそれと百八十度転換することは、少しの想像力があればわかります。そのときは現在のアメリカ国民と同じように、橡川先生の言われる「自国史上の汚点」など、どこの国の話かということになっていたでしょう。







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書評に対する返信

2014年02月01日 | 書評

 

「書評に対する返信」

 

 かなり昔に橡川一朗氏の著書『近代思想と源氏物語』について拙いながら書評を書いたことがあります。それをネット上に公開していたところ、どうやら著者ご本人のお目に留まったらしく、「書評に対する返信」という形でメールが昨年の十二月の初めに私のところに届きました。読ませていただいて感想と同時にお礼の返信を同じくメールでお送りしました。

そ の際に、元都立大教授からいただいたメール「書評に対する返信」を、私のブログに公開してもよいかどうかお訊ねするメールもお送りしましたが、音沙汰はなく、そ の是非はわかりませんでした。もうすでにかなりご高齢になっておられるようですし、ひょっとすれば私のメールも見落とされて気づかれていないのかもしれない と思いました。

それでも、この著者からの「返信」には、戦後マルクス主義の影響を受けられた世代に属する学者の、一つの歴史認識が明らかになっており、元社会党党首の村山富市氏ら世代にも共通するある時代に普遍的な、社会認識も述べられてあると思います。

マルクス主義の影響の濃い戦後民主主義の歴史認識を示すものとして、元教授の許可は得られてはいないですけれども、学問上の議論に資するものとして、このブログに公開しても反対はされないだろうと思い、投稿することにしたものです。

また、この橡川一朗氏からいただいた「書評に対する返信」に対する私の感想とお礼としてお送りしたメールも、追って別の記事として投稿したいと思います。

やや長文ですが、興味や関心のおありの方はお読みいただければと思います。

以下が橡川氏より「書評に対する返信」としていただいたメールの内容です。

>><<

作雨作晴隠士様
                   橡川一朗

先年、小著『近代思想と源氏物語』に懇切な御批評を頂戴い たしましたのに、不覚にも幾年ものあいだ気付きませず、まことに申し訳ございませんでした。つたない小著にわざわざ書評をいただくことなど思い及びません でしたのと、このところ久しくパソコンに無縁でした所為とは申しながら、御詫びの申し上げようもなく、ひとえに御海容のほど御願い申し上げます。

そ れに致しましても、御指摘のとおり門外の思想史などに手をつけて、いたずらに恥をさらしましたにもかかわらず、まず西洋史専攻の立場からの小著の意図を御 汲み取りのうえ、最終的には源氏物語の思想史的意義の問題にまで御言及いただきましたこと、望外の幸せと存じ、幾重にも厚く御禮申し上げます。

  まず私の専攻分野での仕事にかんする御訊ねに御答え致しますと、『西欧封建社会の比較史的研究』(1972年、増補改訂版1984年)と、それを補う形の 『ドイツの都市と農村』が、拙い勉強の所産と申し上げたいと存じます(御取り上げの小著p.253「参考文献」御参照)。

両拙著の要点 は、「中世ドイツの農民Bauer は、一種の大家族の家長で、家族員や雇い人を奴隷あつかいした家父長Patriarchだった」ということです。(この、いわば小規模奴隷所有は、フラン スでは13世紀頃までに消滅したのに対して、ドイツでは、管見の限り、18世紀半ばまで、農村でも都市でも、存続したと考えられます。〔小著 pp.20~23御参照〕。)
 
 この主張は、日本の西洋史学界では異端とされ続けましたが、それはドイツの歴史学者が自国の奴隷制を絶 対に認めないからです。しかし戦前の日本マルクス主義歴史学の巨峰山田盛太郎の日本資本主義「擬似」説を、独自のイギリス資本主義成立論から援護した故大 塚久雄氏や、その系譜をひく近代ドイツ農村研究の藤田幸一郎氏等から賛同を得たのが励みになりました(この三氏については、それぞれ小著p.165f.,  p.24, p.26御参照)。

 それとともに自説の証拠として強力な支えとなりましたのは、童話集の編著で有名なグリム兄弟の兄のほ う(Jakob)が収集・刊行した膨大な『町村法集』Weisthuemerでした。その解読には手間取りましたが、ドイツ人が読まない記録に取り組むこ と自体が面白くて、つい三十余年を過ごしてしまいました。

 では西洋史学徒の身で源氏物語とその古注に深入りした理由は何か、と問われると、返答に窮するのが実情ですが、直接の動機は、歴史関係の専門誌『歴史学研究』の編集部から、当時大評論家とされた小林秀雄の大著『本居宣長』の書評を依頼されたことでした。

突 然のことに驚きましたが、「比較史」と言われはじめた私の方法が誇大に伝わった所為かとも思い、それにしても日本思想史専門の高名な方々から断られた末の ハプニングかとも思ううち、気持ちが楽になって引き受けることに致しました。同書を通読して、書評のポイントとなりそうな箇所は、宣長の源氏物語評注(玉 の小櫛)への小林の批評と見て、両書に頻出する源氏古注の集大成『湖月抄』の物語原文と注釈を、大急ぎで読みました。じつは源氏物語は、大学卒業後間もな いころ、兵役を免れて退屈しのぎに谷崎純一郎の現代語訳と某書店刊の原文を一通り読んだことがありましたが、その記憶と、書評を機に読みだした湖月抄源氏 の印象との、余りにも大きな違いに、まず嘗ての読みの浅さに恥じ入りました。それと同時に、源氏物語と古注の偉大さに気づき、本気で書評に挑戦する気にな りました。

 その折の書評の主旨は、宣長と小林が、ともに湖月抄の重要性を言いながら同抄を軽視して、前者はハグらかし、後者は読んだ振 り、という侮蔑ぶりを明らかにすることでした(同誌491号、1981年)。――例えば宣長が「私は戯作者堕地獄説に拠る仏教側からの紫式部非難を退け た」と宣伝するのに対して、小林が無条件で宣長を褒めたのは、彼が湖月抄を読んでいない証拠です(小著p.238)。つまり湖月抄とそれ以前の古注は挙っ て、仏教の骨格をなす認識論と、日本仏教で特に深化した「罪の意識」とを、源氏物語の二大文学理念と見て、物語と作者を賞讃していますが、宣長はそれを知 りながら無視して、儒教化した通俗仏教の式部批判だけを問題にし、小林はその詐術にまんまと嵌ったわけです。

 なお上記拙著の表題中の 「比較史」という言葉が、独・仏中世社会の対比という意味を超えて、一人歩きしたらしい経緯は、つぎのように考えられます。――私の中世ドイツ農民の奴隷 支配説発表の直前、日本史では故安良城(あらき)盛昭氏が上記歴史学研究誌(163号、1953年)に「中世農民=奴隷所有者」論を展開し、やがて大評判 になりました。その安良城ブ-ムの余波で、私のドイツ奴隷制説も日本史学界で注目されはじめ、期せずして、同氏と私と二人で日・欧比較史をやりだした、と いう風に思われた様子でした。ただ、安良城説の行方は複雑で、中世史学者のあいだでは反対論が圧倒的に優勢となり、他方、江戸時代史(近世史)のほうでは 強力な支持者が現れ、さらに日本の後進性を追求する戦後の学界状況のもとで、安良城氏は、若手研究者の間で、天才とまで賞賛されました。

そんな雰囲気のなかで私は、かのグリム町村法集などの解読を楽しんでおりました。しかし日本中世史学界で、マルクス主義を標榜する人たちまでも奴隷制説反対の論陣を張るのを見て、問題の根は深いと感ずるようになっていました。

  そこで私は、安良城氏が尊敬してやまない上記山田盛太郎の理論や、その先駆となった服部之総の明治維新「封建制再編」論を改めて読み、お二人の学説を日本 マルクス主義の精華と見るとともに、それと服部の親鸞・蓮如論とを見比べなら、その「日本的マルクス主義の文化史的背景を考えるに至りました(服部につい ては小著p.164f.,  p.194ff.御参照。)そして親鸞から遡って源氏物語、さらに蜻蛉日記に、近代キリスト教的「罪の意識」を見出だした亀井勝一郎の日本文化史論(小著 p.192)に接して、服部の文化史構想の全容を想像できるような気がしてきました。

 他方、私は旧制高校(一高)三年生のときカントの 主著『純粋理性批判』を原文で読み、ドイツの歴史に興味を持つようになりましたが、もちろんカント哲学の真意が判るはずもありませんでした。ところが大学 院在学中、和辻哲郎の大著『原始仏教の実践哲学』を読んで、ようやくカントの認識論の本質を知ると同時に、仏教哲学も理解できたように感じました(小著 p.169)。また都立大学に就職してからは、先輩教授(アメリカ思想史の阿部行蔵氏)から、アメリカ東部のエリ-ト層によるデカルト・カントの受容ぶり を教わる一方で、「服部之総の『蓮如』はマックス・ウェ-バ-のプロテスタント倫理論より優れている」などという貴重な示唆も受けました。そして服部の蓮 如論が親鸞の「罪」意識から説き起こされているのを知って、高校時代に上級生から薦められて愛読した夏目漱石の『こころ』との関連から、罪の意識というテ -マが西洋近代文学の一大底流ではないか、と思いはじめました。(一高生から大学院生の時にかけて漱石に触発され、岩波文庫のフランス・ロシア文学訳書に 親しんで、西洋近代文学に魅せられました。)

上記の小林著への書評には、いま申し述べましたような読書歴を下敷に、「社会科学的思想史」 と題する一節を設け、前述大塚・安良城両氏の理論を社会経済史上の基礎構造論として、認識論と罪意識を東西思想史の二本柱とする、いわば新文化史の試みを 略述いたしました。お目にとまりました小著は、それを敷衍したものです。 

(小著でもマルクスへの言及が半ペイジ〔p.29〕のみです が、上記書評では僅か1行でした。それが当時の歴史学研究誌読者主流の左派には意外だったらしく、書評は不評で、当然、小著の草稿は出版の当てさえありま せんでしたが、前記藤田幸一郎氏のおかげで、ようやく出版に漕げつけました。)
   
 なお小著で、いま一つ御気付きかと思いますのは、 現在の西欧でのフランスの政治・文化的地位を最高のものとする愚見ですが、これは滞欧中(1970~71年)の体験の所産でした。それというのも、あると きフランス語で話しかけてきた英国婦人から「コンティネントでは英語は田舎者のアメリカ人の言葉という固定観念が強くて使いづらく、そう言えばイギリス本 国の英語だって所詮は田舎言葉ですもの」と聞かされたのが始まりです。(彼女の打ち明け話は、後になって、ドイツの国際的大作家ト-マス・マンが小説 『フェ-リクス・クルルの告白』中、語学の才を武器に痛快な身分詐称劇を演ずるドイツ生まれの主人公に「フランス人はフランス語だけが人間の言葉だと信じ ているが、残念ながら我ら諸国民はフランス人の自負を承認せざるをえない」と言わせたのに通じていた、と感じました。)

そのフランスで、私は下宿の老管理人――今の私から見れば初老の人でしたが――からフランス語の会話を教わり、スイスなど各国に旅行の際、たいへん役にたちました。

  しかも、その管理人が「会話を教えてあげたのは、日本の古い文化のことを知りたかったから」と言うので、いろいろ話すうちに、蜻蛉日記の話になり、上記の 亀井説を念頭に、日記の心理描写の背景として「悲しみのト-ン」を挙げ、「悲しんだのは人間という存在そのもの」と話すと、彼は「昔の日本人はパスカルと 同じような高級な感情をもっていたのですね」と驚きました。しかし、もっと驚いたのは私のほうで、パリ郊外の一庶民がパスカルをそれほど深く理解している のには、感嘆のほかありませんでした(小著p.192f.)

 さらに、その管理人が私の話を聞かせたいというので会った彼の教会仲間の医 師夫妻に、仏教認識論をデカルト哲学から説明したときの、夫妻の理解力にも、感心しました(同p.197)。また、その後、フランスの国家試験の一つ(大 学入学資格試験)で論文問題の題目にデカルト関連のテ-マが度々出るという新聞記事を見て、文化大国としてのフランスの自信に満ちた高等教育方針を理解で きた気が致しました。

 以上が私のフランス文化大国論の根拠ですが、これは明治以来の日本人にとっては納得しがたい考え方であっても、英米両国の多くの知識人や現代ドイツの超エリ-ト層には、自明のことではないかと思っております。

  しかもフランス文化大国論を念頭に置きながら、西欧諸国で抽きんでている独・仏両国の国際的地位を見較べてゆくと、フランスの地位の高さに気付かざるをえ ません。これも多くの日本人には解りにくいことのようですが、フランスの文化的基調が、たとえば第二次大戦初期の対独降伏となり、それが戦後フランスへの 信頼の基盤となって、同国の国際政治力を支えているように思われてなりません(小著p.31)。

 さいごに近ごろ気付きましたことを付け 加えますと、ドイツの歴史学者が自国の奴隷制を頑強に否定する背景には、自国文化への自信の無さから来る偏狭な愛国心があり、しかも、それが現代ドイツの 超エリ-ト層の歴史認識(朝日新聞本年10月3日駐日ドイツ大使の会見談御参照)と懸け離れていることです。それはドイツの平均的な知識人が、かれらの国 の生んだ偉大な思想家ルタ-・カントの真価を知らないために演じている滑稽な悲劇にほかなりません。それにつけても、わが日本で、せめて歴史学者だけで も、源氏物語とその古注を理解して、日本文化への確かな誇りに支えられ、そのうえで自国史上の汚点を率直に認めて、その遺制の克服に資するような「真の愛 国心」を持ってほしいというのが、私のささやかな勉強のすえの悲願です。

 お詫びと御疑念へのお答えのつもりの一文が、つい長くなりまして、申し訳ございませんが、なお御不審の点は、厳しく御指摘いただきますよう心から御願い申し上げます。


    2013年12月06日
        書評への返信.docx

 

 

 

 

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